クロレラという壁

プラントモジュールの最奥、最も衛生管理が厳重なエリアには、

巨大な透明培養槽が3基並んでいる。

その中で、濃い緑色の液体が静かに揺れていた。クロレラだ。


ナノバブル水に包まれたその緑の命は、

火星基地において栄養と酸素の供給源として欠かせない存在だった。

だが――その存在は、同時に一つの“壁”でもあった。


「見た目が……もう少し食欲をそそってくれたらね」


エミリア・カーターはクロレラ槽の前でため息をついた。

濃緑の液体はまるで絵の具を溶かしたようで、

彼女の美的感覚にはどうしても馴染まなかった。


タブレットに表示された栄養価のグラフは申し分ない。

タンパク質、ビタミン、ミネラルの含有量は地球のスーパーフードを凌駕する。


「それでも“食べたい”とは思えないのよ……見た目って、本当に大事」


「それは君がイギリス人だからだろ」

ショーン・ミラーが冗談めかして口を挟んだ。

「僕らアメリカ人は、緑のシェイクには慣れてる」


「その割に、あなたの冷蔵庫にはいつもケチャップしか入ってないけど?」


「ケチャップは赤の完全食だ。赤い栄養」


エミリアは肩をすくめつつ、真面目な顔に戻った。


「それに、クロレラは口当たりも問題なの。

 粉末にすると粘るし、液状だと喉にまとわりつく。

 熱を通すと変色するし、匂いも強くなる。扱いが難しいのよ、本当に」


「そこが面白いんじゃないか?」

そう言って現れたのはカルロス・ヒメネスだった。

彼はマルチモニタに表示されたエネルギー配分グラフを片手に、

クロレラの供給計画を確認していた。


「クロレラの増殖効率は他の植物の比じゃない。

 1日あたりの酸素放出量も最大。

 しかも高カロリー、低水消費。火星生活における理想の資源だ。問題は――」


「料理じゃなく、消費方法ね」

エミリアが引き取った。

「それだけ有能なのに、“食べたくない”というだけで嫌われるなんて、少し可哀想かも」


「実は昔、タカミ博士が“クロレラせんべい”を試作したことがあるらしいぞ」

ショーンが思い出し笑いをしながら言った。

「あれ、地球の温室で話題になってた」


「味はどうだったの?」


「……あえて聞かない方がいい」


そのとき、扉が開いて当のユウタ・タカミが入ってきた。

手には新しいクロレラサンプルのパウチがある。


「クロレラの第2世代、スペースクロレラβ。

 初代より匂いが抑えられてる。苦味も少ないはずだ」


エミリアが慎重にそれを受け取り、色と香りを確かめた。


「……前よりはマシ。少なくとも“池の泥水”という印象は薄れた」


「名前、変えた方がいいかもしれないな」

ユウタは苦笑した。

「“火星グリーン”とか、“スペースエメラルド”とか、もっと前向きな名前に」


「エミリアが言うように、文化的にどう“食卓に上がるか”が大事だ」

カルロスが頷く。

「ただ栄養があっても、拒否感が勝るなら、それは食材としては不完全だ」


「じゃあ……たとえば?」

ユウタが訊くと、エミリアはしばらく考え込んだ。


「ソースに混ぜるのはアリかもしれない。

 トマトの酸味と混ぜれば緑が沈む。

 もしくは――“色”を隠す方向で練り込み系? パン生地とか」


「焼くのはエネルギーコストが高いぞ」

ショーンが釘を刺す。

「少なくとも、今の電力割当ではオーブンフル稼働は厳しい」


「でも、パン生地ならフラットブレッドにすれば、加熱は短時間で済む」

エミリアは言い返した。

「薄く広げて焼けば、多少色が変わっても味は残せる」


「……それ、レシピ案として残しておくよ」

ユウタはメモを取った。

「火星で“緑のパン”が受け入れられる日が来るかどうかは分からないけど、

 挑戦はしてみる価値がある」


誰もが無言で頷いた。


クロレラ――それは栄養の塊であり、同時に“文化的壁”でもあった。

しかしその壁をどう越えるか、それを考えることこそが、

この地で人間らしく生きるということだった。


「食べたくなるクロレラ」

その矛盾を乗り越える挑戦は、まだ始まったばかりだった。

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