火星で育つもの
火星の朝は、赤く始まる。
地球の空のような青はなく、代わりにうっすらと漂う砂塵が光を散乱させ、
基地の外壁を琥珀色に染めていく。
その朝、ユウタ・タカミはいつもより早く植物プラントに足を運んでいた。
半透明の自動ドアが開くと同時に、わずかに湿気を含んだ空気が肌を撫でた。
クリーンルーム同様に管理された内部は、生命の匂いを孕んでいる
――土の代わりに使われている培養マット、循環液に溶けたミネラル、
そして植物たち自身が発する青臭い芳香。それらが確かに“生きている”と告げていた。
LED照明がゆっくりと明度を上げ、ミズナの列が静かに照らされる。
「おはよう、“セブン”。今日も順調そうだな」
ユウタは自分が開発したスペースバイオ植物、“キセキ・セブン”に向かって声をかけた。
名前にある「セブン」は、第7世代交配系統という意味でもあり、
また実験で七度失敗した後に誕生した“希望の芽”でもあった。
この火星プラントでは、ミズナ以外にもさまざまな作物が育っていた。
赤みを帯びた丸いラディッシュ、蔓を伸ばして小ぶりな実をつけたトマト、
培養槽で揺らめくクロレラ。
地下水由来の水循環によって根から養分が吸収され、
それが光合成によって酸素と成長へと変換される。
「ラディッシュ、収穫ライン到達」
背後からエミリアの声がした。データパッドを手に、測定数値を読み上げている。
「糖度7.4、硝酸濃度問題なし。皮の色も良好。
加熱による変色は……サンプル調理が必要ね」
「焼くと甘味が出る。生で齧ってもいけるけど、それじゃ“料理”じゃないもんな」
「その通り。文化的調理の観点から見れば、味の変化は重要な要素よ」
エミリアはあくまで料理を“構築する行為”ととらえていた。
それは単なる調理ではなく、素材と設備、制限と創造性のバランスを測る知的作業だった。
クロレラもまた、特殊な存在だった。
液体培養槽で光を受けて増殖するそれは、
たった1gでも高タンパク・高ビタミンの栄養価を持ち、
火星生活においてはサプリメント以上の意味を持っていた。
だがその見た目、香り、口当たり
――それらを“料理”として成立させるには、まだ工夫が必要だった。
ナタリアはクロレラの培養槽の前で腕を組んでいた。
「増殖率、設計通り以上。だけど……食べたくなるかというと、話は別よね」
「見た目がネックだな。鮮やかな緑はいいけど、ペースト状だと“泥”に見える」
「ならいっそ、形を変えるのも手かも。発酵や乾燥加工で風味を出すとか。
発酵クロレラ……聞こえは奇妙だけど、旨味成分が増える可能性はある」
ユウタはその言葉に頷きながら、ふと基地の資源表示パネルに目をやった。
そこには現在の酸素供給量、CO₂吸収率、蒸散による水循環量が刻々と表示されていた。
すべてが植物の“はたらき”によるものであり、
つまりこの小さな温室が基地の“肺”であり“胃”でもあるということだ。
「……クローズドループって、本当に奇跡みたいな仕組みだな」
「完全じゃないけど、理想に近づいてはいるわね」
ナタリアが返した。
「水は蒸散から回収し、栄養は廃棄物から一部再生成できる。
あとは……私の味噌の仕上がり次第」
「それが最大の不確定要素ってわけか」
ユウタは冗談めかして笑ったが、ナタリアは真顔でうなずいた。
「発酵は気まぐれだからね。
でも、“火星で熟成した味”が生まれたら、
それは地球とは違う、ここだけの文化になると思うの」
この基地で育てられているのは、単なる食材ではない。
それは、火星で人が“暮らす”ための鍵だった。酸素、栄養、癒し、循環。
そして――文化の芽。
やがてカルロスがモニター越しに連絡を入れてきた。
「ユウタ、エミリア、ナタリア。初期収穫の報告を整理してくれ。
特に小麦の発育状態については、次期ローテーションに影響する」
「小麦は穂が付き始めてる。交配短縮型だから、あと20日で初回収穫可能」
「了解。備蓄と冷凍保存のリストも更新してくれ」
通信が切れると、3人はしばし沈黙した。
「……ねえ」
エミリアがぽつりとつぶやく。
「こんなに無機質な環境なのに、植物が育つだけで空気まで柔らかくなる気がする」
ユウタはその言葉に静かに頷いた。
「それが、“育つ”ってことなんだろうな。命が、場所を変える」
そして彼らは静かに歩き出した。
火星の赤い地で、確かに“根を張ろう”としている小さな命たちの間を抜けながら。
ここで育つものは、ただの食材ではない。
それは火星における最初の“記憶”であり、未来に向かう文化の種子だった。
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