宇宙食の限界と可能性

火星基地内の照明が徐々に昼光色から夕景モードへと切り替わると、

クルーたちの1日は、静かな疲労感とともに終わりを迎えようとしていた。


だが、その疲労には満足が混ざっていた。火星に降り立ってからまだ3日。

整備、点検、隔離解除と、分刻みのスケジュールのなかで、

全員がそれぞれの役割を果たしてきた。


その夜、ショーン・ミラーは1人、

機材モジュールの隅にある調理システムブロックの前にいた。


彼が設計に関与した「火星対応調理ユニット」は、

地球のキッチンのような機能を持ちつつも、

重力や気圧、酸素濃度の制約を考慮して設計された専用装置だ。


鋼製の加熱ユニットに指を這わせながら、彼は頭の中で何度もチェックリストを反芻していた。


「電力供給安定。加熱プレートの温度反応良好。オーブン機構……まだ調整必要か」


熱伝導プレートは電磁加熱式で、

火星基地のエネルギー配分のなかで最小限の消費に抑えられていた。

だが、オーブン機能については、低圧環境下での温度制御に微妙な揺らぎが生じている。


「ナタリアにまた相談か……」

小さくため息を吐いて、彼は手元のデバイスを操作し、内部シミュレーションを再起動した。


調理。

それは単なるエネルギー変換の作業にとどまらず、五感と技術の融合体だ。

だがこの火星では、あまりにも多くの制約が“料理”という行為の周囲を取り囲んでいた。


一方、ナタリア・グリエンコは別の問題に直面していた。

彼女は微生物生態学者であり、

この基地における「保存食文化の構築」という大任を担っていた。

彼女の研究対象は、冷凍ではない“生きた保存食”――すなわち、発酵である。


今、彼女の前には半透明の培養チューブが並んでいた。

中には火星味噌の発酵用原液や、エダマメベースの漬け床が収められている。

わずかな気泡が内部に浮かび、微生物が今も活動している証拠を示していた。


だが――発酵は、火星では思ったよりも“気まぐれ”だった。


「温度は保ててる。でも酵母の反応が鈍い……重力か、気圧か、それとも酸素濃度……」


ひとり言をこぼしながら、彼女は成分分析装置に結果を入力していく。


「やっぱり乳酸菌系は地球より3割遅いわね

 ……うーん。これじゃ漬け込みに最低でも10日以上かかる」


即応性のある発酵食――それが、ナタリアにとっての大きな壁だった。


彼女はふと、火星に来る前に祖母が焼いてくれた黒パンの味を思い出す。


「時間をかけることが価値になる世界。だけど……ここでは、時間は資源なのよね」


その言葉は、調理ユニットの前にいたショーンの思考と重なっていた。


そのころ、ユウタは植物プラントにいた。作業ではなく、ただ“見に”来ただけだった。

ミズナの葉はより鮮やかに、トマトは色づきを増している。

だが彼の頭には、ある問いがこびりついていた。


「これらをどう“料理”するか……?」


地球では、食材は文化の上に成り立っていた。

だが火星では、文化がまだ“ない”。それは、すべてをゼロから作るという意味でもある。

食べること。育てること。それに、作ること。

それぞれは別々のように見えて、実はすべてが同じ“営み”なのだと、ユウタは思った。


そこにエミリアが入ってきた。手にはタブレット。

彼女もまた、眠るには早すぎる脳を持て余していた。


「ねえ、ユウタ。あなたの“キセキ・セブン”、

 栄養価の再測定していい?サンプル取りたいの」


「もちろん。……ところで、君のほうでは、料理のアイデア、まとまってきた?」


エミリアは首を傾げ、わずかに笑った。


「まとまるというより、削り出してるって感じ。

 選択肢はあるけど、条件が厳しいの。

 例えば、クロレラの栄養価は申し分ない。でも、見た目が問題。

 緑のペーストを“料理”と認識させるには工夫がいる」


「なるほど、“人が食べたくなる”ものにしないと」


「ええ。それともう一つ。

 あまりに加工を重ねすぎると、“火星で育てた”って感覚が薄れるのも気になるの。

 素材の記憶も、大事にしたい」


2人の間に一瞬沈黙が落ちた。植物の葉のそよぎと、微細な水音だけが空間を満たしていた。


「この制限だらけの状況が、私たちを試してるように思えるのよ。

 どこまで“火星で料理”できるかって」


エミリアの目は、どこか戦いを挑む兵士のような輝きを帯びていた。


ユウタはそれに応えるように、ミズナの葉をそっと摘み取って見せた。


「それでも、僕たちは作るんだな。火星の味を」


「そう。だってそれが――ここで“生きる”ってことだから」


まだ誰も、火星で料理をしていない。

だが、誰もがもう“食べるだけでは足りない”と知っていた。


それは、宇宙食の限界ではない。

ここから始まる、無限の可能性だった。

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