食べるという行為
その日の夜、火星基地の居住モジュールに設けられた簡易食堂に、
5人のクルーが自然と集まった。
居住棟の内部はまだ機械の音が残り、完全に“生活空間”としては整っていなかったが、
テーブルとスツールが並べられ、空調は一定の温度を保っていた。
簡易照明が柔らかく灯る中で、各人がカップに注いだ栄養ドリンクを手にしていた。
「――つまり、サラダは禁止、ということね?」
ユウタが少し眉をひそめながら問いかけると、
エミリアは椅子の背にもたれ、ふっと笑って答えた。
「そう。明確に“料理”とは言えないから」
「でも、味はする。栄養もある。見た目だって、それなりに彩りは……」
「違うのよ、ユウタ」
エミリアはまっすぐ彼を見た。
「料理っていうのは、“火を通す”行為や“加工”があることで、初めて文化的な意味を持つ。
たとえばラディッシュを切って並べただけじゃ、まだ“生きるための手段”に過ぎない。
でも、それを刻んで、加熱して、味付けして、
誰かのために工夫を加えたら、それはもう“生”じゃなくて“文化”になるの」
静かな一瞬。ショーンが小さく笑って口を開いた。
「彼女、学生時代、たしか“料理と文明史”って選択講義を3回もリピートしてたよ。
A+取るまで」
「2回目は教授が嫌いだっただけ」
エミリアは肩をすくめて言ったが、その目には火星の赤土よりも熱い確信が宿っていた。
ナタリアが、手元のタブレットで発酵記録をスクロールしながら、ぽつりとつぶやいた。
「でも、火を使うにも制約がある。酸素は限られてるし、加熱はエネルギーを食う。
保存も調理も、地球のようにはいかないわ」
「だからこそ、意味がある」
エミリアが言い返す。
「それだけ制約があっても、私たちは“食べる”を越えて“作る”という行為を求めてる。
つまり、それは人間の根源的な行動ってことよ」
「まあ、文化論としてはわかるが……」
カルロスが腕を組んで言葉を挟んだ。
「現実として、資源管理の立場から見れば、熱量換算・加熱コスト・食材の歩留まり
……そのあたりを無視して料理を論じるわけにはいかない」
「もちろん無視する気なんてないわ」
エミリアは即座に応じた。
「むしろその“制限”が、創造を生むのよ。素材の制限、設備の制限、そして時間の制限。
それらを乗り越えて生まれる一皿こそ、“火星料理”の始まりじゃない?」
場が一瞬、静まり返る。
やがてユウタが、にこやかに口を開いた。
「つまり、火星で“最初の料理”を決める議論が、もう始まってるってことだな」
「その通り」
エミリアは立ち上がり、ホワイトボードに大きく「火星最初の料理」と書いた。
「ルールは一つだけ。“サラダは禁止”。
それ以外は、できる限り“創意”と“加工”を含むもの。
目的は、火星での人類初の『文化的な食事』を成立させること」
「なるほど……そのルール、興味深い」
ナタリアは口元を覆いながら考える。
「発酵食品を入れたいところだけど、仕込みに時間がかかるのがネックね。
火星味噌を使うなら……煮込み?」
「加熱の長時間運転は難しいぞ」
ショーンが警告を加える。「ヒーターの出力は制限されてるし、燃料も貴重だ」
「だから、短時間加熱でも旨味が出る食材が理想的なのよ」
エミリアは言いながら、次々とアイデアをホワイトボードに書き込んでいく。
「パンケーキ……トマトペースト……クロレラ……」
「粉末化したサツマイモも使えるぞ」
「ミズナは色味として後乗せ?」
一同が議論を交わすその様子は、どこか学会のブレインストーミングにも似ていた。
科学者でありながら、それぞれが“家庭の台所”の記憶を心のどこかに持っている
――そんな温もりが、次第に空間を満たしていく。
カルロスは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
やがて、ふっと息を吐くと、自分のコップを手に取った。
「……火星で人間が“食べる”ということが、ここまで深い意味を持つとは思っていなかったな」
「文化の芽は、味覚から生まれるのよ」
エミリアが返したその言葉は、どこか詩のように響いた。
その夜、“最初の火星料理”を巡る議論は終わらなかった。
誰もが口にする栄養ドリンクの味気なさの中で、誰もが本物の“料理”を欲していた。
それは、空腹を満たすだけの行為ではない。
火星という過酷な地で“人間らしく生きる”ための、最初の表現。
そして――彼らの誰もが、心の中で静かに理解していた。
明日から、この火星という新しい地に、“味”という名の文化が根を下ろし始めることを。
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