ただ,上を向いて生きる
太田道灌
地に這いつくばる者の独白
時は現代。ポストコロナ時代を迎え,経済は「回復」から「成長」へと動き出した。
テレビではウクライナ侵攻やパレスチナ問題,アメリカ輸出規制など,重苦しいニュースを連日報道する中,渋谷のスクランブル交差点ではそれを気にせず活気にあふれていた。
スマホの画面をのぞきこみながら歩く者、動画を流し見しながら笑う者、周囲に構わず大声を上げる者。
誰も彼も、ここに立ち止まる理由はないらしい。
かつての,コロナによる外出自粛によって閑散としていた町はもうない。今はもう元のスクランブル交差点に戻りつつあった。
……否,「戻ってきてしまった」が正しいだろう。見るにも耐えない健康に悪そうな電気の明かり,人混みと車が奏でる不協和音,その辺に投げ捨てられていくゴミの山々...元のひどかった環境に戻ってきてしまったと自分は感じている。
別に,これは批判ではない。「変えろ」と言う気もないし,どうせ自分が何を言ったとしても世間が変わるわけがない。
――そもそも,自分は昔からずっと底辺にいた。
周りの人間に真正面から見られることはなく,いつも見下ろされる立場だった。
自分が何かを伝えようとしても,周囲の人間に伝わることはなかった。
そこにいるだけで邪魔扱いされた。
踏まれかけたこともしばしばある。
しかし,どれだけ悲鳴を上げようとも誰にも届かない。
周囲の世界と言うのはとてつもなく大きいものだった。
地に這いつくばる自分にとっては到底届かぬ場所の事も知った。
周りにはそんなに大きい世界が広がっているのにこんな喧騒とした悪しき場所にしばりつけられている自分の境遇に不満を持ったこともしばしばある。
――いつか,山の中でのびのびとした暮らしがしたい
それは,自分が前々から願い続けてきた望みだ。
しかし,そんな願いは叶えられぬまま。
今日も、何があっても気にせず騒ぐパリピたちの叫び声が響く中、
自分は周囲に怯えながら、ただ恐々と生き続けることしかできない。
――話を戻すが,自分には名前がない。
物心ついた時から孤独だったために親の顔も知らなければ誰かから名前を呼ばれた事も無かった。
もしかしたら,自分には素敵な名前がついているのかもしれない。
だが,誰にも名前を呼ばれないこの環境においては,もはやどうでもよかった。
だが,そんな自分にも仲間と言える存在がいた。
話した事も無いが,確かに自分たちは仲間意識を持っていた。
「害虫」と言われ,蔑まれてきた者もいた。
目の前で両親が連れて行かれ,障害孤独となった者もいた。
「おふざけ」で自らの体を弄ばれた者もいた。
自分たちは会話するわけでもないし,協力して周囲の人間に立ち向かおうとしているわけでもない。
だが,「自分は孤独ではない」と思える分だけいくらかましだった。
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ところで,人間と言うのは何故こんなにも下を向いているのだろうか。
そこら中に溢れているのはスマホを熱心に見つめて下を向いている人。
「上を向いて歩こう」なんていう曲もあるくらいだ。
せいぜい首を痛めないように上を向いて歩いてほしい。
――そもそも自分は底辺だから下を向けない。
上を向いて生きることしかできない。
だから,頼むから,上を向いてほしい。
例えば,あの青年。
服を立派に着こなし,髪も固めている。
だが,肝心の本人がスマホに夢中でいるのだから台無しだ。
彼にはスマホの中が一番の現実なのだろう。
お次にあの女性。
これまた服もおしゃれで,顔には数時間は掛けられているであろうメイク。
しかしスマホに夢中で下を向いているせいで彼女の顔を見る連中はほとんどない。
そのメイクは周りに見せるためのものではないのか。
かといって彼女は誰かと待ち合わせているでもなく,どうせ記憶の片隅にも入れないであろうニュースをひたすら流し見しながら交差点を突っ切っていく。
――その時、ある男性がスマホを落とした。
スーツに身を包み、目にははっきりと刻まれたクマ。
ビジネスマンだろうか。身なりも整い、立派な腕時計もしていた。
きっと、生活も地位も申し分ないのだろう。
だが彼は、スマホを落とした瞬間、手に持っていたカバンを放り投げ、地面にしゃがみ込んで画面を確認した。
まるで、スマホさえ無事なら、自分の世界も崩れないとでも言いたげに。
彼が抱えていたのは、仕事でも責任でもなく、「情報」だったのかもしれない。
スマホの向こう側にある何かが、彼の現実のすべてになっているように見えた。
――酔っ払いが出現した。まだ太陽がジリジリ身を焼いてくる昼前。
集団なので,夜から日を越すまで飲んでいて,そこから帰り始めたのだろう。
それにしても,ひどく酔っている。
酔っ払い集団の騒音はいつものそれより大きく聞こえた。
そしてこっちまで酔ってきそうなほど強烈な酒臭。
交差点で,千鳥足を踏む集団ほど面倒な物はない。
案の定,車からのクラクションの大合唱。
周囲からの野次の大声。
負けじと叫ぶ酔っ払い。
何とか交通整理を頑張ろうとする信号機の悲鳴。
――酔っ払いの声が遠のいた。
集団で道路に倒れ伏したのだ。
周囲からはブーイングの大合唱。
すると,先ほどの女がスマホ片手によって来た。
そしてスマホを横に構えた。
周囲も同調し始めた。
彼らの脳裏にはSNSに投稿することしかない。
酔っ払いを介抱しようとするものなど皆無だ。
――これが「思いやり」の国の中心街か。
思わずため息がこぼれそうになる。
誰かが言った。「ヤッバ。これチョーバズりそう!!」
誰かが漏らした。「あのおじさん,キモっ」
スマホをかまえる野次はどんどん大きくなっている。
もはや車のクラクションが聞こえていないのだろうか。
とっくに信号は赤だ。何度目かも知らない。
――結局,酔っ払いが道路から引っ張り出されたのは7,8分後になった。
既に,酔っ払いが道路で倒れている動画は本人たちが意識を覚醒する前から投稿されており,「バズッた!」と小躍りしている連中が散見される。
結局,彼ら彼女らにとって「倒れている集団」と言うのは同情の対象なんかではなく「舞台装置」なのだろう。
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そんなこんなで,日常はどんどん過ぎ去っていった。
変わったことと言えば,「仲間」の一人が死んだことくらいだ。
別に情はない。
自分たちの力が弱いこの場所において,仲間の死は日常茶飯事だ。
日頃楽しい暮らしをしているパリピ連中にも自殺者が現れるくらいだ。
何ら不思議な事ではない。
しかし,いつか自分の番がくると考えると,どうしても怖いものがある。
「おいっ聞けよっ!政治家の○○が自殺したらしいぞ!」
「なんだよ,そんなことかよ。どーでもいいよ。それよりさ,あのゲームの...」
目の前をそんな会話をしながら学生二人組が通り過ぎて行った。
――その政治家を可哀想だとは思わない。
彼はまだ「知られている」だけましなのだ。
自分なんか死んでも、誰にも気づかれない。
そもそも、ここにいることすら、誰にも認識されていないのだから。
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――平穏は瞬く間に打ち崩された。
「お話しても,いいかな?」
それは突然の事だった。
「話しかけられる」こと自体,人生で初めての経験だった。
そもそも,「存在が認識される」ことすら,初めてだった。
一人の女児だった。
それでも,身なりはしっかりしている。
しかし,周囲を見渡しても親と思われる人影がいない。
「私ね,今日はお父さんとお母さんに内緒でお出かけしてるの。」
――面倒くさいことに巻き込まれた。
しかし,自分は何か言葉を返すことも,彼女を家に連れて帰ることもできない。
だから,黙ってじっとしているしかなかった。
「お父さんもお母さんも,とっても優しいの!...でもね,ちょっとだけ厳しいんだよ。」
「今日はほのちゃんと一緒におままごとをしたんだ」
「お母さんが私のために服を編んでくれたんだ~」
「お父さんはね,とっても力持ちで頼りになるんだよ~」
「だいくんが最近よく話しかけてきてね~」
それは,とても晴れやかな顔だった。
彼女は何を話すときも楽しそうだった。
――実際は家出犯なのだが。
そして,彼女は言いたいだけ言い尽くした結果,満足して帰っていった。
本当に台風のようだった。
――実際の台風だったら,自分の命はなくなるも同然なのだが。
――それから,彼女は時間を見つけては話しかけに来るようになった。
偶に,周囲の人間がこちらを見てぎょっとすることはあるが,「子供の遊び」としてスルーされる。
それでも,女児が一人でいるのが心配で警察に電話されることがあった。
――その善意を,あの酔っ払い連中に働かしてほしかったものだ。
結局,彼女は警察から彼女の母親に引き渡され,母親を手を繋いで帰っていった。
「ねぇ,なんであんな所にいたの?」
「それはね,くっちゃんとお話ししてたの!」
「くっちゃん?」
家出を怒られる事も無く,仲良く帰っていった。
それは,交差点にいる全てのスマホをみている人々より,
ずっとずっと微笑ましく,是非ともスマホを見ている連中に見習ってほしいものだ。
彼女の明るさと,母親を楽しそうに見上げるその姿。
スマホばかりで下を見ている現代人と異なり,ネットに染まっていない無垢な姿。
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かくして,自分の人間観察は続いた。
なにしろ,それ以外にやることがない。
強いて言うなら,そこらの人がイヤホンも付けずに爆音で聴いている動画から,情報を得ることぐらいだ。
侵攻は泥沼化し,民族の争いは戦線が広がり,相互関税で国内の輸出産業が打撃を受けたり...
それでも,ここにいる人々の行動は何ら変わっていない。
スマホを見続け,仲間と騒ぎ,酔っ払い...いくらニュースで重大なことをやっていても,それを見た人が立派な顔をして意見を述べていても,結局行動は変わらない。
そして、自分もただ、渋谷のスクランブル交差点の片隅に根を張ったひとつの命として、行動を変えず、ただ、上を向いて生きる。
ただ,上を向いて生きる 太田道灌 @OtaSukenaga
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