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あれから夏が来、秋を経、冬が過ぎ……五年の月日が経った。

アリスの歳は十一になり、背も伸び、大きく見えた両親の身長もそれほど高くは感じないようになった。

アリスの家である木造の建物の横には庭があり、そこに植えてあった小さな苗木もすっかり成長して、成長したアリスの背よりも高く、枝も丈夫になっていた。


そんなある日。アリスは上機嫌に、鼻歌を歌いながら日課である箒の手入れをしていた。


「アリスー、少しご飯の支度を手伝ってくれるかしら〜?」

手入れに集中していて、時間の感覚を失っていたが、そういえば心做しかお腹が空いている気がするし、時計を見ると確かに針は朝食の時間を指していた。


母に呼ばれてアリスは漸く時間に気付き、箒を丁寧に置き、階段を駆け下りる。


まずは手を洗い、母の指示に従ってお皿を並べる。レタスをちぎって均等に分け、パンに乗せていく。

そうこうしているうちに今日の昼食の出来上がり。具沢山のサンドイッチである。


そして最後に、「お父さんを叩き起こしてきてちょうだいな?」という司令が下ったのでイエスマム。直ちに行って参ります。

エルヴェは娘の手によって叩き起こされた。



叩き起こされ、エルヴェとアリスは共に階段から降りて来た。その頃にはちょうど昼ご飯の支度は終わっていたようで、サイネリアは食卓でのんびり座って待っていた。

エルヴェはいつものようにあくびを噛み殺しながら席につく。…この男は放っておいたら昼間で寝ているタイプである。事実、今日も昼まで寝ていた。用事があったりする日は誰よりも早起きをするくせに……。

そんな男は目をしばしばさせながらこう言った。「おはよう。」

全く早くはない。むしろ遅い。もうすでに昼の時間である。

隣からは「ふふふっ…」と笑い声が聞こえてくる。

そんないつも通りの平和な日常の光景であった。


食前の挨拶をし、各々がサンドイッチへ手を伸ばす。

アリスが手に取ったのはハムや卵、レタスが挟まっているものだった。

両親がたまに仕入れてくるツナマヨ、トマト、キュウリ等が挟まっているものが一番好きだが、今日は無い日のようだ。次点で好きな具は今手にしているものである。



三人全員がサンドイッチを食べ終わり、昼まで寝ていて準備を手伝わなかったことの代償でエルヴェは片付けをさせられた。因果応報、働かざる者食うべからず。

働いて生活資金を稼いでいるけれども。サイネリアも揃って二人仲良く内職をしている。……これは片付けをすることとはまた別の話である。



(ずっとこの生活が続くといいな……)


眼の前の何気ない幸せを噛み締めていた矢先の出来事だった。


嫌な気配が近づいてきている。

サイネリアはこの気配に気づいたらしく、すぐにエルヴェの方を見る。エルヴェが冷や汗を垂らしながら小さく頷いた。

サイネリアは深く息を吸って吐く。そして意を決した表情でアリスに告げた。


「…⋯⋯アリス、お使いを頼んでもいいかしら」

サイネリアの顔は相も変わらず笑顔浮かべていたが、どこかいつもより強張って見えた。しかし、それが気の所為なのかと考える暇もなく次の言葉が告げられる。


「勝手口から出てまっすぐ、ずっと行くとひらけた場所に着く筈だわ。そこにこれを持っていってくれる?」

そうして渡されたのは小さな袋と手紙だった。


「これは……?」

「その袋はあなたに、手紙はお届けものよ。さ、いち早く届けてちょうだい!」

背中をぐいぐいと押されながら、勝手口から出された。

あまりに早い展開にアリスは頭上に疑問符を乗せたままだったが、まずは母に頼まれたことをなさなければならない、と心を待ち直した。


言われた通りに急ぎ足で目的地へ向かっていく。


随分と家から離れた頃、ふと忘れ物があることに気がついた。忘れ物とはそう、アリスが片時も離したことがないあの箒のことである。

そのまま向かうか戻って取ってくるかを迷い、一瞬立ち止まる。


はてさてどうしようか。ここで悩んでいても時間は減っていくだけである。

箒が大事で手元に持っておきたいのはあるが、そうではない。それはあくまでついでだ。家に戻って良い口実を作りたかったのだ。

何か嫌な予感がする。ここで戻らなかったら一生後悔するような気がする。


どうにも言葉では表現し難い感覚だ。


この予感が当たらずに杞憂で終わればいいのだが……どうにも不安が拭えない。

意を決し踵を返し、来た方向へ向かって走り出す。


無我夢中で走って走って走った先にはいつもと同じ様子の家が佇んでいた。


……何かが違う。だが何が違うのかわからない。

そこはかとない焦燥感と違和感が背後から襲いかかる。しかし、そんなことで立ち止まっていてはどうにもならないので、取り敢えずまずは箒を取ってこよう。


勝手口のドアを開け、見知った空間へ足を踏み入れる。

入って右手側にある階段を登った先にアリスの部屋がある。

階段を駆け上がり、ドアを勢いよく開けた。ご飯を食べる前に置いた場所に箒はあった。手を伸ばして箒を手に取る。

束の間の安心感に身を委ねていると、表玄関の方向から轟音が鳴り響く。


アリスは現実に戻された。

状況は全く把握できていないが、何かが起きていることは確かだった。


箒を握りしめ、階段を飛ばしながら降りる。


本当に嫌な予感が当たっているのかもしれない。たまにしか当たらない勘をこんなときに限って当てないで欲しい。外れていてくれと願いながら玄関のドアの前まで駆けつける。


不安を振り払うように首を振り、深呼吸をしてドアノブに手を掛けた。




◇■◇




一帯の空気は淀んで、息苦しいほどに沈んでいる。昼間の快晴であるはずだが、夜の様に暗く、気分まで地の底へ落ちていく。

中心には禍々しい羽の生えたナニカが羽ばたいている。羽が宙を仰ぐ度に瘴気が拡散してゆく。


全ての精霊は故郷である世界樹に帰属する。

物が大切にされ、使命が与えられ生まれた純粋な精霊。しかし、瘴気を取り込みすぎると善性が押しつぶされ凶暴化してしまい、完全に墜ち〝祟霊そうれい〟となるともう元に戻ることはできない。そして果てには世界樹に還ることさえ出来なくなってしまう。


今、眼の前で羽ばたいているソレこそが、崇霊。哀れな精霊の成れの果て。


ソレに相対するように、傷だらけになり、魔法を行使する男が一人、その腕の中には血だらけになって横たわっている人。

……エルヴェと、サイネリア。アリスの父と、母だった。

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冬の塔の伝承 蒼矢 @souya938

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