第30話
始まりの祭壇での戦いから十年の歳月が流れた。
かつて『忘れられた山脈』と呼ばれた荒涼とした岩山は今やその面影もない。イグニス様の最後の奇跡『竜の心樹』が根付いたあの日から、この地は生命力に満ちた緑の楽園へと生まれ変わった。人々は敬意と親しみを込めてこの山脈を『生命の山脈』と呼ぶようになった。
その麓に私たちの家がある。エルが森の木を切り出し私が大地の祝福を込めて組み上げた、ささやかで温かい家。竜の心樹の若葉が風にそよぐ音と森の動物たちの穏やかな鳴き声が、心地よい子守唄のようにいつも聞こえてくる。
その日の朝、私は家の前の畑で薬草の手入れをしていた。竜葬司としての仕事は今も私の誇りだが、次の竜が私を呼ぶその時まで私はここで母であり妻であるという新しい役割を生きていた。土の匂い、芽吹いたばかりの若葉の柔らかさ、その一つ一つが私の心を穏やかに満たしてくれる。
「リーナ!」
森の方から懐かしい声が聞こえた。顔を上げると、たくましく成長した一人の青年が弓を片手にこちらへ向かって走ってくるのが見えた。年の頃は十七か十八か。日に焼けた肌に黒く艶やかな髪。そしてその瞳には、かつての恩人によく似た猛禽類のような鋭い光が宿っている。
「トト、おかえりなさい。今日の収穫はどうでしたか?」
「もちろん、ばっちりだよ母さん! エル父さんとの競争は今日の俺の勝ちだ!」
トトはそう言って背負っていた獲物の大きな山鳥を誇らしげに見せた。あの村で全てを失い私たちの前で震えていた小さな少年はもういない。彼はエルという最高の師であり父から生きる術を学び、私から生命を慈しむ心を学び、心身ともに立派な青年に成長していた。
「ほう、言うようになったじゃないか、トト」
トトの後ろからゆっくりと姿を現したのはエルだった。十年の歳月は彼の精悍な顔立ちに深い落ち着きと優しさを加えていた。その手には獲物こそないが表情は満足げで、愛弟子であり息子でもあるトトの成長を何よりも喜んでいるのが分かった。
「お前が罠の位置を読んで先回りしただけだろう。今日の狩りの知恵は俺の勝ちだ」
「へへん、結果が全てだよ父さん」
二人はじゃれ合うように笑い合っている。その光景が私の日常、私の宝物。この幸せが永遠に続けばいい。私は心からそう願っていた。
私たちは三人で食卓を囲んだ。トトが仕留めた山鳥のロースト、森で採れた木の実のスープ、そして私が育てた野菜のサラダ。質素だけれど愛情のこもった食事が私たちの体を、そして心を温めていく。
「それにしてもトトももうそんなに大きくなったんだな」
エルがしみじみと呟いた。
「俺が初めて会った時はこんなに小さかったのにな」
「もう、父さん。その話は聞き飽きたよ」
トトは照れくさそうに頭を掻く。
「俺だってもう一人前の男だ。いつまでも子供扱いしないでくれ」
「一人前か。じゃあ、そろそろ自分の進む道を本気で考える時が来たのかもしれないな」
エルの言葉にトトも私もはっとしたように顔を上げた。トトはもう私たちに保護されるべき子供ではない。彼には彼の人生があり自身の力で未来を切り拓いていかなければならない。分かっていたことだった。けれどその時が来たと改めて突きつけられると、私の胸に一抹の寂しさがよぎるのを止められなかった。
「俺は…」
トトは真剣な顔で私たち二人を交互に見た。
「俺は、この森を出ようと思う」
その言葉は彼の覚悟を示していた。
「父さんと母さんには感謝しかない。命を救ってもらい育ててもらった。俺にとって二人は本当の親だ。だからこそ二人に甘え続けるわけにはいかない」
「トト…」
「俺、旅に出たいんだ。この広い世界を見て回り、魂喰らいの一族のような連中に故郷や家族を奪われる人たちが二度と現れないよう、俺の力で人々を守れるような、そんな男になりたい」
彼の瞳は強い決意の光に満ちていた。それはかつてのエルが私を守ると誓ってくれた時の光とよく似ていた。ああ、この子は本当にあなたの息子なのですね、エル。
エルは何も言わず、ただ黙ってトトの言葉を聞いていた。やがて彼はゆっくりと頷いた。
「…分かった。お前の覚悟は受け取った。お前がそう決めたのなら俺はもう何も言わん」
そしてエルは立ち上がると家の壁にかけてあった一振りの古い剣を手に取った。
「これを持って行け。俺の親父の形見だ。お前が人々を守る力になってくれるだろう」
それはエルが番人として代々受け継いできた剣。彼が過去と決別するために高峰へ置いてこようとしたものを私がこっそり持ち出していたのだ。
トトはその剣を震える手で受け取った。
「父さん…いいのか、こんな大事なものを」
「ああ。今の俺にはもう必要ない。俺の守るべきものはここに、この家にあるからな」
エルはそう言って私の肩を優しく抱いた。トトはこみ上げてくる涙を必死で堪えているようだった。
その夜、私はトトのために旅立ちの支度を手伝った。新しい丈夫な服、保存食、そして私が調合した特製の傷薬。
「トト。もし辛くなったら、いつでも帰ってきていいのですよ」
「うん…」
「あなたは私たちのたった一人の大切な息子なのですから」
私の言葉に、トトが堪えていた涙腺はついに決壊した。彼は私の胸に顔をうずめて子供のように声を上げて泣いた。私もそんな彼の背中をただ優しく撫でてやることしかできなかった。
翌朝。トトの旅立ちの日。空は彼の門出を祝うかのようにどこまでも青く澄み渡っていた。
「じゃあ、行ってくるよ、父さん、母さん」
「ああ。体にだけは気をつけろよ」
「何かあったら風に便りを乗せなさい。すぐに駆けつけますから」
私たちは言葉少なげに別れの挨拶を交わす。トトは一度だけ私たちの家と、天高くそびえる竜の心樹を振り返った。そして涙を拭うと決意に満ちた顔で前を向いた。
彼の後ろ姿が森の緑の中に少しずつ小さくなっていく。私はその姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。
一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まる。そんな予感がした。
トトが旅立ってから私たちの家には再び二人だけの静かな時間が戻ってきた。それは寂しくもあったがどこか懐かしく、そして新しい始まりを感じさせる時間でもあった。私たちは以前にも増して深く、そして穏やかに互いを愛し合った。二人で森を散歩し竜の心樹の木陰で昼寝をし、夜は満点の星空の下で未来のことを語り合った。
そんなある日のこと。私が一人で竜の心樹の根元で瞑想していると、ふわりと優しい風が私の頬を撫でた。それはただの風ではなかった。遠い西の果て、海の向こうの大陸から知らせを運んできた竜の風だった。
――一頭の海竜が、その永い生涯を終えようとしている。
竜葬司としての新しい仕事の知らせだった。
私が家に帰りそのことをエルに告げると、彼は少しも驚かずに言った。
「そうか。ついに来たか」
「ええ、西の海です。ここから数ヶ月はかかる長い旅になるでしょう」
「準備をしよう」
彼は当然のように言った。
「え?」
「言ったはずだ。お前が旅立つ時は俺も一緒に行く、と。お前が竜の魂を送るなら俺はその隣でお前を守る。それが俺の新しい仕事だってな」
彼の瞳はどこまでも真剣で、そして優しさに満ちていた。ああ、私はなんて幸せなのだろう。この人と出会えて本当に良かった。
私たちは旅の準備を始めた。トトの時とは違う、二人だけの新しい旅。それはどこか新婚旅行のようでもあり、私の心は自然と弾んでいた。
出発の朝、私たちは竜の心樹の前に立ち深く一礼した。
「イグニス様。行ってまいります」
「あんたの友達に最高の敬意を払ってくる。だから俺たちの留守の間、この家と旅立ったトトのことを見守っててくれよな」
エルがそう言うと竜の心樹が、ざわ、と大きく枝を揺らし、エメラルドの葉を数枚私たちの足元へはらりと落とした。それはまるで「任せておけ」と答えてくれているかのようだった。
私たちは手を取り合い歩き出した。西へ。まだ見ぬ海へ。新しい竜との出会いのために。
私たちの旅は多くの出会いとささやかな奇跡に満ちていた。立ち寄った港町では、かつて魂喰らいの一族に怯えていた人々が竜の心樹のもたらした世界の平穏を心から喜んでいた。ある者は私たちの風貌から伝説の竜葬司とその番人の噂を思い出し、最高の宿と食事でもてなしてくれた。海を渡る船の上で私たちは水平線に沈む夕日を何度も眺めた。彼の大きな肩に寄りかかりながら私はこの幸せが夢ではないことを何度も確かめた。
そしてついに私たちは、海竜が棲むという西の果ての孤島にたどり着く。その島の中心にある巨大な入江にその竜はいた。体は瑠璃色に輝く鱗で覆われ、その大きさはイグニス様にも匹敵するほどだ。だがその動きはひどく緩慢で、生命の光が消えかけているのが分かった。
私たちが近づくと海竜はゆっくりとその巨大な頭を上げた。その瞳は海の最も深い場所の色をしていた。
『…待っていたぞ、竜葬司の娘よ。そしてイグニスの友よ』
その声はテレパシーとなって私たちの心に直接響いた。
『我が名はリヴァイア。イグニスとは若い頃、空の覇権をかけて百年ほどやり合った古い好敵手よ』
海竜リヴァイアは懐かしむようにそう言った。
『あいつがお前たちという最高の宝物を見つけたと風の便りで聞いておった。まさかそのお前たちに我が最期を看取ってもらうことになるとはな。面白いものよ』
私たちは偉大なる海竜に深々と頭を下げた。儀式は厳かに、そして穏やかに執り行われた。エルはリヴァイアが若かった頃の話をその亡骸に語って聞かせ、私はその偉大な魂が安らかに天へ還れるよう祈りを捧げた。その儀式はもはや私一人だけのものではなかった。エルがいてくれるからこそ完成する、新しい形の竜の葬儀だった。
リヴァイアの魂が光の粒子となって天へと昇っていく。その最後の光が海を、そして私たち二人を優しく照らし出した。
「帰りましょうか、エル。私たちの家へ」
「ああ、そうだな」
私たちは再び家路についた。その道のりは来た時よりもずっと短く感じられた。私たちの心は大きな仕事を成し遂げた達成感と、早く家に帰りたいという温かい気持ちで満たされていたからだ。
生命の山脈にようやくたどり着いた時、私たちの目に信じられない光景が飛び込んできた。竜の心樹が満開の花を咲かせていたのだ。黄金色に輝く、見たこともない美しい花。その花びら一枚一枚が太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。イグニス様が私たちの帰りを、そして儀式の成功を祝福してくれているかのようだった。私たちはその神々しいまでの光景に言葉を失い、ただ立ち尽くしていた。
その夜、私たちは家の暖炉の前で寄り添っていた。外では黄金色の花びらが静かに舞い散っている。
「なあ、リーナ」
エルが私の髪を優しく撫でながら言った。
「どうしました?」
「俺たちもそろそろ式を挙げないか」
「え…?」
唐突な言葉に私は彼の顔を見上げた。
「俺はお前と本当の夫婦になりたい。トトが帰ってきた時に本当の家族としてあいつを迎えてやりたいんだ」
彼の瞳はどこまでも真剣だった。
「…はい」
私は涙ぐみながら頷いた。
「喜んで。あなたの妻にしてください」
私たちは唇を重ねた。それは永い永い誓いの口付けだった。
私たちの結婚式は数日後、満開の竜の心樹の下でささやかに行われた。参列者は森の動物たちだけ。誓いの言葉は私たち二人だけの心の中の言葉。それでもそれは世界で一番幸せな結婚式だった。
そしてさらに数ヶ月が過ぎた頃、私の体に新しい命が宿っていることに気がついた。エルにそのことを告げると、彼は見たこともないくらいに顔をくしゃくしゃにして喜びの涙を流した。そして私のお腹にそっと耳を当てると「俺がお前の父親だ」と何度も何度も囁いていた。
新しい生命の誕生。それはイグニス様が遺してくれた最高の奇跡。生命はこうして巡り受け継がれていく。
私は竜葬司としてこれからも多くの死を見送るだろう。けれどもう孤独ではない。私の隣には世界で一番愛する夫がいて、遠い地でたくましく生きる息子がいる。そしてこのお腹の中には新しい未来が宿っている。
私の仕事は竜を弔うこと。そして私の人生は愛する人々と共に生命を育んでいくこと。
竜の心樹の黄金の花びらが祝福するように私たちの小さな家に降り注いでいた。その一枚一枚にイグニス様の優しい笑顔が見えたような気がした。
私の仕事は、竜を弔うこと。――たとえ、貴方に剣を向けられても。 ☆ほしい @patvessel
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