紅子の茸は毒がある

未来屋 環

梅雨の季節に

 ――既に私こそ、毒におかされていたのでしょう。



 『紅子べにこきのこは毒がある』/未来屋みくりや たまき



 障子しょうじの隙間から射し込む光が、今日も私を現世に呼び戻しました。

 むくりと布団から起き上がり、寝間着ねまきの上から胸の中央に触れます。

 すると、走らせた指が『それ』の感触を確かに伝えて参りました。


「――あぁ、やっぱり」


 毎朝恒例となったこの儀式によって、私は今朝も絶望の海に沈むのです。

 そう――これはどうしたってのがれようのない現実なのだと。


 洗面所に立った私は、鏡の前で胸元むなもとをはだけてみせました。

 不健康な白い肌とお世辞せじにも豊かとは言えない胸があらわになり――そして


 胸部の中央には、ぷくりと生えた紅傘べにがさきのこ


 どうしても奇怪なそれを鏡越しに見つめながら、私は深いため息を吐きました。


 ***


 幼い頃から、暗い女だと言われ続けてきました。


紅子べにこちゃんっていつも静かよねぇ」


 遠巻きにこちらを見るクラスメイトたち。

 口下手な私は、そんな彼らと上手く関係を築くことができませんでした。

 それは会社の事務員として働くようになった今も変わることはありません。


 ――しかし何の間違いか、そんな私に生まれて初めての恋人ができたのです。


 彼の名前は榎木えのきさん。

 同じ勤め先で働くエンジニアの方でした。

 仕事上少しやりとりがある程度の関係でしたが、或る日会社の懇親会で隣の席になったことを切っ掛けに、食事に誘われました。

 そして何度か逢瀬おうせを重ねたのちに、お付き合いすることとなったのです。


 榎木さんと過ごす日々は、私にとって初めての経験ばかりでした。

 鬱々としていた毎日が、彼のお蔭で少しずつ輝きを知り始めたのです。


 そしてついに今度の長期休み、私たちは二人きりで旅行に行く計画を立てました。

 行き先は箱根で一泊二日――同じ部屋で夜を共にするとは、つまりはそういうことでしょう。

 結婚を前提にしてのお付き合いですから、彼もそのつもりのはずです。


 ――しかし、榎木さんと交際を始めた頃から、私の身体に不穏なきざしが現れました。

 最初はふとした胸の違和感。

 それがいつしか確かな個体となり、私の中心にまれでたのです。


 その茸の大きさはほんの数センチ程のものでしたが、私の身体にあっては十分な異物でした。

 病院に行くことも考えましたが、未知の病気ではという恐怖感がぬぐえず、結果自分一人でこの秘密を抱えたまま今日こんにちに至ります。

 しかしいよいよ旅行の日程は近付き、このまま隠し通すわけにもいきません。


 ――そして思い悩んだ末に、私は榎木さんに旅行の延期を申し出たのでした。



「――あの、榎木さん。申し訳ないのですが、旅行はまたの機会にできませんでしょうか」


 昨夜から降り続く雨は上がる気配を見せず、向かい合う私たちをじとりと包んでいました。

 突然の来訪にもかかわらず快く迎え入れてくれた榎木さんは、しかして私の言葉に傷付いたような表情を見せます。

 普段冷静沈着で動揺を見せない彼の意外な反応に、私の胸がじくりと痛みました。


「……紅子さん、良かったら少し中で話しませんか?」


 眼鏡の奥の彼の瞳は悲しみの色に濡れています。

 そんな彼に逆らうことなどできるはずもなく、私はうなずき彼の部屋へと足を踏み入れました。


 父以外の男性の部屋に入るのは初めてです。

 そこは映画に出てくる部屋のようにきっちりと整理整頓されていて、几帳面きちょうめんな榎木さんそのものでした。

 うながされるままリビングのソファーに座ると、彼はその重い口をゆっくりと開きます。


「すみません、紅子さん。僕の何かが気にさわりましたか」

「いえ、そういうことではないのです。これは私自身の問題です」

「あなた自身? それはどういう意味ですか」


 私が口をつぐむと彼も黙り込み、部屋の中は沈黙で満たされました。

 静けさの中で、私の心は焦燥しょうそうに焼かれます。


 ――このままでは、彼との関係が終わってしまう。


 そうなっては元も子もありません。

 私は覚悟を決めて口を開きました。


「実は……身体の一部がおかしいのです」

「――え?」

「旅行中にもしそれを見られたら、あなたに嫌われてしまうんじゃないかと不安になって」


 そうぽつりとつぶやくと、榎木さんが身を乗り出し私の手を握ります。


「紅子さん、僕がそんな男に見えますか」

「……」

「僕はあなたの、その控えめで思慮深いところに惹かれたのです。たとえあなたのどんな部分を見たとしても、嫌いになることなどあり得ません。ですから、怖がらずに僕の前でさらけ出しては頂けませんか」


 榎木さんが私を見つめる瞳は真剣な色に燃えていました。

 その熱にほだされて、私は恐る恐る、ブラウスの胸元のボタンを外していきます。

 ぷつりと一つ外すごとに、羞恥しゅうちで体温が上がるようでした。


 そしていよいよ三つ目を外したところで――私の秘密が下着の隙間から顔を出したのです。


「……これです」


 恥ずかしくて榎木さんの顔を見られず、私はそうとだけ呟きました。

 しかし、榎木さんは何も答えません。


 ――やはり、気持ち悪いと思われてしまったのでしょう。

 視界の中で、私の茸は憎々しい程に赤く燃えていました。


 あぁ、この茸さえいなければ

 私の人生も、もう少しましだったかも知れない。


 ――いえ、それは八つ当たりというものでしょう。

 こんな鬱屈とした性格だからこそ、こんな所に茸が生えてしまったのです。

 涙腺るいせんが緩むのを感じながら、ブラウスを閉じようとしたその時――


「――待ちなさい」


 榎木さんの低い声がして、私の手を彼の筋張った手がつかみました。

 その力強さに思わず顔を上げると、そこには――


「なんと美しい……」


 普段は涼やかな目を爛々らんらんと光らせた榎木さんがいたのです。


 動揺のあまり硬直する私をよそに、彼はその視線を私の茸に注いでいます。

 その熱烈な眼差まなざしに、ふるりと茸が震え――そして胸の奥にじわりと熱が灯りました。


「……榎木さん?」


 彼の視線が茸かられ、私の両目を捉えます。

 しかして、その瞳には感じたことのない色香がひそんでいました。

 戸惑とまどう私の耳元で、彼は静かにささやくのです。


「――ねぇ、紅子さん。この茸はどんな味がするのですか」


 想像もしなかったその台詞せりふに、私は脳の奥がしびれるのを感じました。

 憎しみの対象であったそれに視線を落とせば、茸は紅色に鈍く輝いています。


「……どう見ても毒ではありませんか。私の身体も既に侵されているかも知れません」

ほど――ですが、それも一興。二人で同じ毒にまみれてみるのも悪くない」


 不敵な笑みを浮かべた榎木さんがふっと息を吹きかけると、茸がぴくりと揺れました。


「紅子さん、よろしいでしょうか」


 眼鏡の奥であなたの目が細められ、私はそれこそ皿の上に並べられた茸のように、ただ沙汰さたを待つことしかできません。

 逡巡しゅんじゅんする気持ちを抑え付け、覚悟を決めた私は彼に一言伝えました。


「――えぇ、召し上がれ」



 そのあとのことは――申し上げるのも野暮やぼというものでしょう。

 同じ毒をらった私たちは、その数ヶ月後に祝言しゅうげんを挙げることになりました。


 あの紅色の茸は跡形もなく消え去り、そこにはあのひとが残した口付けのあとだけが今も刻まれているのです。



(了)

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紅子の茸は毒がある 未来屋 環 @tmk-mikuriya

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