第2話

第1章 静けさのなかの再会

校庭には桜の花が舞っていたが、テニスコートの空気はまだ冬の名残を感じさせた。

けれど、始まりの匂いは、たしかにそこにあった。

前任校では、教師になってから長年務めてきたソフトテニス部の顧問を離れ、

ここでは、辛うじて“引率顧問”という形で、このスポーツと関わっているだけだった。

それがまた、こうしてテニスコートに立っている。いや、正確に言えば——ベンチに座っているだけなのだが……。

ふと目線を上げた。

フェンスがいくつも重なる向こう側に、部員たちの乗った自転車が一気に坂を駆け上っていく。

「来たな」

そうつぶやいて、頭をかいた。

さあ、どうしたものか。心の中ではずっと迷っていた。

着替え終わった部員たちが、私のまわりに集合してくる。

部長の「お願いします」の声に続いて、部員たちの「お願いします」がコート全体に響いた。

すると、すぐに部長の松川美奈が「先生、何をしたらいいですか」と聞いてきた。

「じゃあ、とりあえず……今までやっていた通りにしてみてくれる?」と伝えた。

部員たちは、声を出しながらコートの外周をランニングし、ストレッチや体幹トレーニングも卒なくこなしていく。

「さすがだ」と私は思った。

そう思うには、理由がある。

その後、アップを終えた部員たちと一緒に、松川美奈がやってきた。

私の前で礼をし、さらに丁寧な口調でこう聞いてくる。

「今日の練習はどうしたらいいですか?」

ここも、なかなか指導されている。

本来なら、自分たちのやり方があるはずなのに——

今の私を顧問として、すでに認めてくれている証かもしれない。

「そうだな。みんながどんな練習をしてるか知りたいから……今まで通りにやってみてくれるか」

そう言うと、

「わかりました!」

と、松川美奈の元気のよい返事がすぐさま返ってきた。

「集合!」

その声が、コートに力強く響いた。

その後も、小気味よく練習は進んだ。

ただ、ひとつだけ、気がかりなことがあった。

——部員たちのことだ。

特に、三年生。

勤務先が変わるたびに、最初に気を遣うのがこの世代だ。

顧問が変われば、練習の雰囲気も流れも少なからず変わる。

下手に口を出せば、人間関係もこじれかねない。

それに、この学校は、昨年の新チームでブロック2位に食い込んでいる。

そこそこ強いチームなのだ。

弱ければ負けても言い訳がきくし、勝てばラッキーで注目される。

だが、2位というのは難しい。

練習次第では優勝も狙えるが、下手をすれば3位に転落もある。

つまり、顧問の責任が重い——そういう立場にいる。

この四月、私は河西中学校に異動することになった。

正直、それが運の尽きだったのかもしれない。

「実績」と呼べるようなものはない。

だが、初任以来ずっとソフトテニス部の顧問を続けてきたという事実だけはある。

三月、一本の電話が鳴った。

「津田君かね。君に、ぜひ2年生の学年主任と女子ソフトテニス部の顧問をお願いしたい」

私がこの競技から一線を引こうとしていたことなど、校長は知る由もない。

断る間もなく、「あっ、はい」とだけ声にならない返事を絞り出すのが精一杯だった。


4月8日、始業式のあと。

体育館の隅で行われた顔合わせには、三年生7人と二年生6人——多すぎず、少なすぎずの部員数だった。

円陣を組もうとした瞬間、26個の鋭い眼差しが一斉にこちらを突き刺してくる。

——ああ、また私はしばらくコートの住人になるのか。

心の中でそう呟いて、大きく息をついた。


私は学年主任という立場だったので、生徒たちが帰りの会をしている間に、一足先にコート管理事務所へ向かった。

丁寧に頭を下げて、テニスコートのハンドルを借りる。

それをケースごとベンチの横に置いて、部員たちが来るまでのひとときが、私のささやかな憩いの時間になった。

いつの間にか、その時間がとても心地よくなっていた。

学校の喧騒から合法的に逃れられる、数少ない時間だったからだ。

春風はまだ冷たく、コートの上を静かに流れていた。

けれど、その静けさの奥には、かつての“熱”が、ふつふつとよみがえってくるのを私は感じていた。


次の日も、そのまた次の日も——

私は部員たちより少し早くコートに来て、ハンドルをもらい、ベンチに座って自転車の音を待っていた。

そんな日々が、しばらく続いた。

とはいえ、ただ眺めていただけではない。

一人ひとりの力量やプレーの様子、表情や人間関係まで、静かに観察していた。

……いや、うつらうつらと睡魔に襲われる日も、あった。

いや、正直ほとんど、そうだったかもしれない。

部員たちもきっと気づいていただろう。

けれど、そのことを誰ひとり口にはしなかった。


五月のある日、「春季総体」を目前に控えた午後のこと。

練習中に、松川美奈と副部長の多田一恵が私のところにやってきた。

「先生」

松川美奈が声をかける。

私は、とぼけた表情でやさしく「どうした」と返した。

「私たち、どうしても優勝したいんです」

多田一恵が、まっすぐな目で言った。

その言葉を受け止めきれずにいると、松川美奈が続ける。

「だから、どんな練習をしたらいいか教えてください」

私は聞き返した。

「先生が練習メニューを決めてもいいのか?」

ふたりは同時に、声を揃えて言った。

「お願いします!」

しばらく迷ってから、私は言葉を重ねた。

「君たちは、これまで通りに練習をしてきて結果を残してきたんだろう? だったら、その練習を続けていけばいいんじゃないのか」

少し間を置いて、もう一つ問いを投げる。

「今、たしかに顧問であることに間違いはないけど……まだ君たちのことを何も知らない。それでもいいのか?」

松川美奈が言った。

「いいんです。それで」

「それでいいって?」

思わず聞き返すと、今度は多田一恵が声を出した。

「先生って、いつも私より先にコートに来てくれて、待ってくれてますよね」

「それが……」

多田一恵は言葉を継いだ

「先生って、いつも私より先にコートに来てくれて、待ってくれてますよね」

「ああ」

そう答えると、松川美奈が笑いながら言った。

「ほとんど目つぶってますけど」

「えっ、それは……」と言いかけた私に、追い打ちをかけるように多田一恵が続けた。

「みんな先生がベンチで寝てるって知ってますよ」

私は思わず苦笑する。

松川美奈が、まっすぐな目で言った。

「でも、ここにいてくれることが、私たち、すごくうれしいんです」

その言葉に、多田一恵も静かにうなずく。

ふと、ふたりがコートの向こうを見た。

部員たちがラケットを構え、手のひらを勢いよく振る姿が見える。

そのフォームには力があり、迷いがなかった。

私は思わず息をのんだ。

まぶたの奥で、春の風が一瞬、柔らかく揺れた気がした。

——彼女たちは、すでに信じる理由を手に入れている。

私は、そこへ遅れて踏み出すしかないのだ。

ベンチの背もたれに軽く寄りかかりながら、私はもう一度、コートの空を見上げた。

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その夏、つなぐ声 五瓜 信 @p9555

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