リベンジラプソディ

志麻乃ゆみ

第1話

 私がこの家で暮らし始めてから、四年の時が過ぎた。至って平穏な日々の積み重なりは、そのまま心の安寧の襞となった。

 ここでは食べ物に困らない。自由に行動できる時間と空間が用意されている。それらは何物にも代え難いしあわせの大前提だった。他の何者からも脅かされず、傷つけられることのない世界。私は欲求の赴くままに食べ、動き回り、そして眠った。

 この家の一人娘は四月から中学生になったようだ。制服姿の娘はひどく大人びて見える。すっかりランドセルが似合わなくなった体躯と容貌は、眩しいほどに若さが弾けている。とはいえ、ブレザーの袖から恥ずかしそうに覗く指先からはあどけなさが零れ落ち、大股で居間を歩く足運びには四年前と変わらない幼さが滲む。私は思わず一人微笑んだ。

 母親は今日も何やら忙しなく動いている。このヒトがじっとしているのを、私はほとんど見たことがない。特に朝は早い時間から台所と居間を行ったり来たりする。父親と娘、そして私に食事を与えるのは専ら母親だった。朝は父親と娘を送り出してから自分も仕事に出かけるらしく、その尋常でない慌ただしさに、私の目はくるくると回る。よく毎日こんなめまぐるしい生活が続けられるものだと、私には驚嘆と尊敬しかない。

 父親はひと言でいうなら、昭和のオヤジだ。年々腹囲の膨張が著しいこのオヤジは、いわゆる仕事人間なのか、平日はほぼ家にいない。といっても締まりのない顔と覚束ない足取りで帰宅する日もあるから、必ずしも連日残業というわけではなさそうである。休日はゴルフクラブを持って早朝から出かけるか家でゴロゴロしているか、ほぼその二パターンしかない。母親とは対照的だ。

 気が付くと、居間からヒト気が失せていた。私は思い切り身体を伸ばしてから、徐に胡瓜の白い部分にかぶりついた。


 この世にカタツムリとして生を受けてすぐの頃、私は主にこの家の庭で暮らしていた。ブロック塀に囲まれ、湿り気と有機物を含む土を擁するこの庭は、私にとって大変居心地の良い環境だった。常緑樹の葉は天敵から身を隠すのに役立ち、生きていくのに必要な食は、庭木の葉や花、土から労せず摂取できた。ブロック塀は貴重なカルシウム源となり、私の健やかなる生に貢献してくれた。

 同種の仲間がどんなところで生活しているのか、私は知らない。今まで出会ったのは二匹だけだった。うち一匹とは交尾を試みたが失敗し、逃げられてしまった。もう一匹は私の目の前でカラスにさらわれていった。その瞬間は心臓が止まったかと思った。あのヒヤリ感は一生忘れないだろう。

 そうして私は猛暑の夏も極寒の冬も越え、また春を迎えられた。ということは一年くらい庭で暮らしていたことになるのだろう。

 私はほとんど単独行動をしていたが、孤独感に苛まれることもなくカタツムリとしての生を享受していた。もはやそれを当たり前のものとして、それ以外の生をあり得ないものと全否定できるほどに、自身の奥深くに受け容れていた。

 季節の移ろいを感じ、むずむずと身体を動かしたい欲求が渦巻き始めた頃。ブロック塀の窓のような隙間で身体を伸ばしていると、いきなり身体が横に振られ宙に浮いた。突然の出来事に、私はいよいよ生命を脅かす何者かによって捉われの身になったこと、その次に訪れる死を覚悟した。

 ところが、咄嗟に殻に引っ込めた身体は何ら衝撃を感じず、ふわりと柔らかい場所に着地した。私は面食らった。恐る恐るお腹をピタリとくっつけると、温かい座布団の上にいるような感触だった。そこが安全な場所であることを確信した私は、ゆるゆると触角を伸ばしてみる。するとこれまで嗅いだことのない甘い匂いがして、目の前に女の子の笑顔が現れた。私はそこで初めてヒトの掌の上にいることを悟った。それが当時小学生だったこの家の娘である。

 娘は掌に私を載せたまま家の中に移動した。これから自分がどうなるのか不安はあったが、少なくとも鳥の餌にされることはないだろう。私はひとまず安堵した。

 その日から、私のこの家での暮らしが始まった。翌日には狭いプラスチック容器から立派な飼育ケースに移され、私のためにキャベツや胡瓜が供された。更に数日後には飼育ケースに文字が書かれた透明のテープが貼られた。ケースの中から目を凝らすと、鏡文字で「アリエルの家」と読み取れた。

 私の名はアリエル。娘がつけてくれたのだろう。ディズニーアニメ映画の優雅で美しい人魚の姿を思い出す。その名を私は大層気に入った。

 娘は毎日のように私を掌に乗せてニコニコと楽しそうにしていた。母親が近付いてくると、慌てて私をケースに戻すところをみると、母親は私に触れることを禁止していたのかもしれない。それでも娘は時々私を触りに来た。私はこの家に招き入れてくれた娘に恩義を感じていたから、逆らうことなく身を委ねた。

 マイハウス~私は飼育ケースをそう呼ぶことにした~は居間の片隅が定位置となった。そこからはこの家の居間全体が見渡せた。台所は見えないが、いわゆる対面式というのか、居間に開かれた四角い窓から台所に立つ母親の顔は視界に入る。でも見える世界はそれだけだ。変わり映えしない退屈な暮らしに彩を求め、私は日々家族や室内を観察して過ごした。モノクロームの世界ではあるが、姿形はぼんやりとわかる。

 庭で暮らしていた頃は、季節や時間の推移を全身で感じ取っていたが、家の中ではそうはいかない。当然ながら以前と比して生活の変化は乏しかった。私は身の安全と引き換えに、季節感や自然を肌で感じられる生活を手放したことになる。もちろん、自らの意思とは無関係になのだが。

 居間には私から見える位置に、大きな文字の月替わりのカレンダーが掛けられていた。私の視力でも年月日の数字は読み取れる。日ごとの枠内に家族の予定が書き込まれているのか、細かい文字が蟻の群れのように見える。私はこのカレンダーによって今が何年何月なのかを把握し、壁掛けの時計によって時間を確認していた。

 私の記憶に間違いがなければ、この家に飼われてから四年が過ぎた。その前に一年ほど庭で暮らしていたのだから、私はもう五年は生きていることになる。私の薄っぺらい知識によれば、カタツムリの寿命はせいぜい五年程度だったのではないか。そろそろ私もこの生を引き挙げる時なのかもしれない。最近しみじみとそんなことを考える。私は現在の生を百パーセント受け容れていた。だから何も思い残すことはない。静かにその時を迎えられるだろう。

 もう終焉が近いからなのか、時折過去の記憶がくっきりと蘇る。そこには庭で暮らしていたカタツムリの自分はいない。脳内で再生されるのは人間として生きていた頃の映像だ。何度となく脳から消去しようと試みたが、記憶というものは意図して抹消することはできないらしい。

 飼育ケースの中がヒマ過ぎる所為かもしれない。ボーッとしていても食べ物は与えられ、外敵から身を守る必要もない。そんな緩い生存環境は、私の自己防衛本能、生存本能を限りなく退化させた。その代わりに、神から与えられた聴覚を除く四つの感覚の中で、視覚だけを驚異的に進化させたように思う。目から入る情報でしか刺激が得られないのだから、それが自然の摂理ということか。胡瓜を食べ終わったら、今日もヒマだ。何もすることがない。

 うとうとしかけていた私の脳に、突然苦い記憶が蘇った。


 小学三年の時クラス替えがあった。一、二年の時に仲良くなった同級生とはクラスが分かれてしまった。私は寂しかったが、新しい友だちは自然にできるだろうという楽観的すぎる発想で、それを紛らわせた。

 実際に友だちはすぐにできた。健司と隼人の二人だ。二人は一、二年から同じクラスで仲が良かった様子で、新学期早々からいつもくっついていた。教室の中で私は一人でいることが多かったが、たまたま席がすぐ後ろだった健司とは時々話すようになった。

 或る日、下校の際に二人と一緒になった。家が同じ方角だということがわかり一緒に帰った。楽しかった。一緒にいるだけですごくわくわくした。昨日見たテレビアニメの話や新しく担任になったおばあさん先生の話題で、意味もなくコロコロと笑った。

 私は二人ともっと仲良くなりたくて、翌朝は早起きして公園のトイレの陰でひっそり待ち伏せをした。

「あれ、おはよう」

 それがわざとらしさを纏っている自覚もないまま偶然を装い、一緒に登校した。

 以来、私たちは三人でよくつるんだ。登下校はもとより昼休みに校庭で遊ぶ時も、放課後も三人はひと塊だった。健司と隼人が通っていた公文式の教室へ、私も通いたいと両親にねだり一緒に通った。私の両親はゲームやマンガ本でなく勉強絡みのおねだりに頬を緩ませ、月謝の支払いを厭わなかった。

 リーダー格の健司は、いつの間にか私のことを「玲(れい)」と下の名前で呼ぶようになり、隼人も釣られるように健司に倣った。私も恥ずかしい気持ちを心の隅っこに押しやり、「けんじ」「はやと」と呼ぶようになり、三人の関係を心の中で「親友」と名付けるまでになった。

 このまま小学校卒業までこの関係が続くものと漠然と信じていたのは、私の物事を深く考えない楽観性の所以だろう。

 四年生の夏休み。蝉がわぉんわぉんと何重にも鳴き声を響かせる昼下がりの公園。じりじりと照りつける陽射しから逃れて、私たちは大きな土管のような遊具の中にいた。

 言い出したのは何事も仕切りたがりの健司だった。

「くれない橋の近くにコンビニあるだろ?」

 私はその店舗を頭に浮かべた。「うん」と頷くより、隼人の方が早かった。

「知ってるよ。親と行ったことある」

 健司が顔を寄せてくる。私たちは秘密を共有するように顔を寄せ合った。健司の声はひそひそと空気を含み土管の中でこだまする。

「あの店さ、一時から二時くらいの時間、スゲエ空いてて店員が一人しかいないんだよ」

 私は健司の話の趣旨がいま一つ飲み込めずに次の言葉を待った。頭の回転が速い隼人はピンときたようだ。

「えっ、それでこれから行ってみようってこと?」

「そういうこと!」

 言うが早いか、健司は土管から飛び出した。隼人や私の意向は置いてきぼりにされたまま、私たちは慌てて健司の後を追う。

 コンビニに行くことに反対する理由はなかった。たくさんの種類の商品が少しずつだが整然と陳列されている様子を見るのを、私は嫌いではなかった。見ているだけでわくわくした。

 今日は財布にいくら入っていただろう。ガリガリ君、買えるかな。足りなかったらうまい棒にしよう。私は真夏の太陽に目を細めながら、健司と隼人と横並びにコンビニまで歩いた。

「涼しい!」

 自動ドアを入ると、三人とも口をついて感嘆符付きの言葉が出た。冷房が利いた店内は汗で湿ったTシャツから水分を蒸発させ、心地良い清涼感が身体を包みこむ。私たち三人は迷わずお菓子売り場に足を向けた。さして広くない店内は健司が言っていたように、お客さんはまばらでのんびりした空気が漂っている。

「玲は何がほしい?」

 既に財布の中身を確認していた私は、迷わず答える。

「おれ、うまい棒にする」

「隼人は?」

「オレはキャベツ太郎」

 健司はキョロキョロっと左右に視線を走らせてから、うまい棒一本を私の手に握らせ、キャベツ太郎を隼人の手に押し付けた。と次の瞬間、健司はうまい棒二本とキャベツ太郎一袋、その他近くに並んでいた駄菓子をいくつかTシャツの中に潜らせた。

 えっ? 私は目の前の光景が何を意味しているのか理解できず、フリーズしてしまった。

「健司‥‥?」

「さ、行くぞ」

 健司はそう言って悠々と店の出口に向かっていく。隼人も付いて行く。レジの方を見ると、親子連れがお金を払っているところで、若い店員はこちらを見ていない。私は一人その場に止まることの恐怖に耐えられず、慌てて二人の後を追った。

 そして、自動ドアから一歩足を踏み出した時。後方から強い力で腕を掴まれた。

「何をしてるの?」

 一瞬、心臓が飛び出したかと思うほど大きく跳ね、私の身体はガタガタと震え始めた。歯がカチカチと音を立てる。振り向くと、先刻までレジにいた店員が険しい表情で私を睨んでいた。

 健司と隼人の背中は既に見えない。

「それ、お金払ってないよね?」

 店員は私の右手に握られていたうまい棒を指さして言う。

 私は本当のことを言おうとした。これを買おうと思ってここへ来たんです。お金もホラ、ちゃんと持っています。そこまで考えて、では何故お金を払わずに出て行こうとしているのか、何の説明にもならないことに思い至り、私は貝になった。

 私が黙っていると、店員は私からうまい棒を取り上げ、腕を引いた。

「こっちに来てくれる?」

 レジの奥にある狭い部屋に連れて行かれた私は、小さなテーブルの前に置かれたパイプ椅子を勧められ腰を下ろす。事務机に向かっていた年配の男性が、くるりと回転椅子を回して私に向き合った。半分以上が白髪に覆われたその人は、父親よりずっと年上に見える。この人、何歳だろう。私は自分が置かれた危機的状況から目を背けるように、そんな能天気なことを考えていた。

「店長、あとはお願いします」

 店員は白髪男性に私を引き渡すと、部屋を出て行った。

「キミ、名前と学校は?」

 店長と呼ばれたその人は、低くよく通る声で私に問うた。私が尚も声を出せずにいると、大きな溜息を一つ吐く。

「名前忘れたの?」

 私はイヤイヤするように頭を横に振った。でも口から言葉は出てこない。

「キミたち、三人で来てたよね?」

 事務机の上には四分割されたモニターが設置されていて、店内の様子をグレイの色調で映し出していた。昔の無声映画みたいだなと、頭の中は現実逃避を繰り返す。

「自分たちがしたことわかってる?」

「・・・・・・」

 私の緘黙は続いた。

「今日が初めてじゃないよね?」

 えっ? 店長の口から発せられた言葉は衝撃が大きすぎて、私は椅子からずり落ちそうになった。驚きのあまり顔を上げた私は一瞬店長と目が合ったが、罪悪感からすぐに目線を逸らす。テーブルに置かれたうまい棒を上目遣いに見つめながら、私の頭の中では様々な考察や回想が渦巻いていた。

初めてじゃないってどういうこと? 健司と隼人は前にもこんなことしてたのか‥‥。隼人はこのコンビニに健司と来たのは初めてのようだったけど。でも、健司が最初からだったのは間違いないし、初めてではないのかもしれない。そして隼人も別なお店でことがあったのだろうか。

 口を噤んだままの私に店長が次に放ったひと言は、心臓といわず胃も腸も内臓全てを縮みあがらせた。

「何も話してくれないと、警察に連絡するしかないよ」

 私は再び頭を強く、先刻よりも大きくブルブルと横に振った。

「このまま帰すわけにいかないのはわかるよね? 警察がイヤなら親御さんに連絡するから、電話番号を教えて」

 店長は声を荒げることもテーブルを叩くこともなく、淡々とした事務的な口調で言った。私は何も語らないままで済む筈がないと悟るだけの冷静さは取り戻していた。そして心の片隅には、健司と隼人が戻って来てくれるかもしれないという微かな希望すら浮かんでいた。私はやっとの思いで喉から絞り出すように、自宅の電話番号を吐いた。

 連絡を受けて引き取りにきた母親の顔を見た途端、我知らず涙が溢れ出た。親に迷惑をかけて悪かったという涙か、事実をきちんと伝えられなかった自分の不甲斐なさに対する悔し涙か。いや、そのどちらもか。

 母親に頭をぶたれたのはこの時が初めてだった。頭を押さえつけられて泣きながら、「ごめんなさい」と店長に謝罪した。本当は自分が「ごめんなさい」を言うのは筋が違うと思いながらも、そうしないと収まりがつかないから、不本意ながらそうした。心の中では、「友だちの悪事を止められなくてごめんなさい」だった。

 店長が母親に話したのは、私の他に同級生らしき男の子二人が一緒だったこと、このところ小学生の万引きが目立ち警戒していたこと。そして最後に言ったのは、被害額は大きくないので警察に被害届は出さないが、今後も続くようなら警察への通報は避けられない、このことは二人の友だちの親御さんにも伝えてほしい、ということだった。

 家に帰ると、母親は泣きながら私に問い質した。何故こんなことをしたのか? 一緒にいたのは誰なのか?

 私も泣きながら、辛うじて嘘にならない範囲で母親に話した。

 万引きなんてするつもりはなかった。お金を払う前に友だちが先に行ってしまったから、追いかけてうっかり外に出てしまっただけ。一緒にいたのは健司と隼人。

「健司くんと隼人くんも、お金を払わなかったの?」

 母親は当然の質問を投げて寄越した。私は友だちを売るようなことはしたくないと思っていた。俺たちは親友なんだ。このことで三人の絆がより強固になることを疑わなかった。健司と隼人を庇うことで、勝手にヒーロー気分に浸っていた感は否めない。

「‥‥健司と隼人は、何も買ってないから」

 嘘ではなかった。何も買っていない。全部万引きしたのだから。

 母親は納得した顔ではなかったが、クラスの電話連絡網を見ながら、健司と隼人の親に電話をかけていた。

「‥‥そうです、くれない橋の近くのコンビニです。うちの息子、ぼんやりしているから万引きしたと勘違いされてしまって。何だか最近小学生の万引きが増えているみたいで。ホント、恐ろしいですねぇ。うちもまるで常習犯みたいに思われてしまって、今度やったら警察に通報するなんて言われてしまって‥‥」

 夜、父親が仕事から帰ってきた。母親から話を聞くと、耳の上あたりを思い切りはたかれ、私は大きくよろけて食器棚の角に頭をぶつけた。

「犯罪者に育てた覚えはない!」

「だから、勘違いされただけって言ってるじゃない‥‥」

 母親の説明を真に受けていない様子で、父親の私を見る目はその日を境に変わった。元々姉の方を可愛がっていた父親は、あからさまに姉を可愛がり、私に対する態度は親として最低限の義務を果たしているだけなのがよくわかった。父親からの信用を失ったショックは大きかったが、健司と隼人との友情を守り切ったことの達成感、満足感の方が何倍も大きく、時間を追うごとに私の中で膨らんでいった。

 そうして迎えた二学期の始業式。私は朝いつもの時間に家を出たが、健司と隼人には会わないまま学校に着いてしまった。教室に入ると二人の姿は既にそこにあった。何やら得体の知れないざわざわ感が胸に押し寄せてくる。

「おはよう」

 平静を装って声をかけたが、二人は目を合わせないまま「おはよう」とだけ言うと、そそくさと教室を出て行った。私は何事もなかったふうを装い自分の席に着いたが、教室に漂う異様な空気を感じ取ってはいた。すると、「森下ぁ」と呼びながらクラスで一番大人びている女子が近付いてきて、私の耳元で囁いた。

「アンタ、万引きして捕まったんだって?」

 私は驚きのあまり否定するタイミングを逸してしまった。それはそのまま私が認めたこととなり、更にその場の空気を淀んだものにした。

 でも、私はすぐに察した。その事実はもうクラス内に浸透していて、否定したところで誰も信じてくれないのだろうということを。あの日の父親と同じように。

 その時、私の心の奥底に健司と隼人への憎しみがふつふつと湧き上がってきた。二人が謝ってくれさえすれば、私を置いて逃げたことは端から許すつもりだった。健司と隼人の悪事を口外するつもりだってなかった。

 だけど、この仕打ちは何だ? 到底許すことなどできない。

 その日は担任の話も頭に入ってこなかった。放心状態のまま私は帰宅した。家で一人でいると時間の経過と共に二人に対する憎しみがじわじわと膨らみ広がっていく。今まで誰かを恨んだり憎んだりしたことはなかった。心に巣食った初めての感情に戸惑いながら、私は二人に反駁する気概も自尊心ももたず、学校に行かない選択をする勇気も大胆さももち合わせていなかった。

 翌日から私は一人で登校した。いつも独りだった。クラス内では既にグループが出来上がっていたから、私が入り込む余地はなかった。

 公文の教室へは足が向かなくなり、親に頼んで辞めさせてもらった。案の定、父親には怒られた。

「何でお前は何をやっても長続きしないんだ! そんなことでは将来ロクな大人にならないぞ」

 針の筵のような状況に身を置きながら公文を続けたからといって、立派な大人になれるとは思えなかった。父親に私の気持ちなどわかってたまるものか。私は心の中で精一杯の悪態を吐いた。

 五年生のクラス替えで健司とも隼人とも別々のクラスになった時は、心の底から安堵した。もちろんあれ以来、二人とは口をきいていない。私の中でなかったことにするにはあまりに惨い仕打ちだった。健司と隼人に対する憎しみはマグマのように熱くドロドロとうごめいたまま、私は卒業を迎えた。


 やっと娘が学校から帰ってきたようだ。既に制服から普段着に着替えている。台所で冷蔵庫から何か出してコップに注いでいるのが見える。

 しばらくすると、娘の友人らしき女の子が二人訪れた。二人とも娘より体格もよく大人びた顔つきに見える。イマドキの中学一年生というのは、こんなに大人っぽいのか。娘と一緒でなければ、大人の女性に見紛うほどだ。三人は居間のソファに並んで座り、娘が抱えてきたコミック本を読んでいる。観察対象がじっと動かないと、見ていても面白くない。

 私がぼんやりしている間に、三人はゲームを始めていた。よほど楽しいのか、笑顔が弾け、ソファの上の身体も時々飛び跳ねている。私は彼女らの友情が永く続くことをひっそりと祈った。

 うとうとして気が付くと夜になっていた。居間では家族三人が食卓を囲んでいた。平日に家族三人が揃って夕食をとるのは珍しい。父親の帰宅がいつも遅いからだ。今日は何かお祝い事でもあるのか。誰かの誕生日か。一瞬そんなことが頭を過ったが、居間に立ち込める空気は私の思いを真っ向から否定し、重くどんよりしている。これまでに見たことのない空気感だ。食事が済むと、娘はさっさと自分の食器を台所に下げそのまま居間を出て行った。

 そこからは重かった空気がどす黒く染まり、父親と母親の形相は険しいものに変化していた。母親は眉を吊り上げ大きな口を開けて怒鳴っているようだ。以前から母親が不機嫌そうな顔をしていることはあったが、あからさまな夫婦喧嘩らしきものを目にしたのは初めてだった。

 母親が父親に箸を投げつけた。それは父親の額に当たってからバラバラに床に落ちる。母親は泣いているのか、顔がぐしゃぐしゃに歪んでいる。クッションやボックスティッシュなど手当たり次第に父親に向かって投げつけた。無抵抗な父親にコップやお皿を投げないのは、まだ欠片ほどの理性が残っているからだろうか。私はそんな考察を展開した。

 この夫婦に一体何があったのだろう。結婚生活を経験しないまま、人間としての生を終えた私には想像がつかない。男が浮気でもしたか? そんな安易な発想しか浮かばず、苦笑が漏れた。

 いつの間にか父親の姿は見えなくなっていた。母親は食器が載ったままのテーブルに顔を伏していた。まだ泣いているのだろうか。母親のことは心配だし気にはなるが、そもそも私にできることは何もない。私は大きく伸びをした後、いつもと変わらぬ深い眠りについた。


                  *

 昨夜は一睡もできなかった。

 積年の不満や恨みや憤りが一気に爆発してしまい、感情が昂ぶってしまった所為だ。思えば結婚して十五年、喧嘩らしい喧嘩をしてこなかった。それがよくなかったのかもしれない。夫は何をしても私が怒らないと勘違いしていたようだ。お前は俺の判断を尊重してくれると思っていた、ですって! はぁ? そんなことあるわけないでしょ! ちょっと考えればわかることではないか。男というのは、想像力を仕事以外に使うことを知らない生き物なのか。とっくに気付いてはいたが、私は昨夜そのことを改めて確信した。

 挙げればキリがない。美香を妊娠した時だって、悪阻が酷くて仕事から帰って横になっている私の顔を見て、第一声が「今日の夕飯何?」だった夫。ほんの一ミリでいいから悪阻というものを、悪阻と戦っている妻の辛さを想像できなかったのか。

 美香が生まれてからだってそうだ。泣くのは赤ん坊の仕事だ。なのに、夜中に起こされると翌日の仕事に差し支えるからと別室でのうのうと寝ていた夫。私はどんな状況だって朝から家事育児に振り回されるというのに。「美香と一緒に昼寝すればいいじゃないか」。睡眠不足への不満を愚痴った時、夫はこともなげにそう言った。ふざけないでよ! そんな心の叫びはいつだって声にできず、発声の機会を逃したそれは、私の胸の奥底にどろどろと沈殿していく。

 子どもが生まると、どうして女は生活パターンを変えなくてはならないのか。美香のことは可愛かったが、乳母と家政婦に徹することの理不尽さに耐えられず、私は美香が一歳になるのを待たずに職場復帰した。幸い保育園は自宅から二番目に近いところに入れたが、毎日の生活に保育園生活が加わることでやることは想像以上に増えた。

 毎朝、紙おむつやエプロンなどの持ち物を準備し、起床時の検温、そして連絡帳に子どもの食事内容や様子を記入する。検温だけは額に手を当てて済ませることは度々あったが、どれもサボるわけにはいかない。夫はそれが正解だと信じているかのように、一切手伝おうとしなかった。確かに一つひとつはどれも大して時間のかかる話ではない。でもそれが毎日の義務に化すと、途端に負担感は増すというものだ。

 保育園に美香を預け会社に着くと、私は疲労と安堵の入り混じった溜息を吐く。仕事に行けば保育園から呼び出しの電話がかかってこないことを祈りながら昼休みも惜しんで働き、仕事が終わらなくても定時で退社する。保育園のお迎えに間に合わないからだ。必然的に残った仕事は家に持ち帰るしかなかった。「保育園の迎えがあるから残業しなくて済んでいいじゃないか」。夫にそう言われた時は、腹立たしさを通り越して虚脱感に襲われた。

 そんな夫でも子どもが可愛いという感情はあったらしい。二歳頃になると片言で喋るようになった美香を、夫は気が向くと可愛がった。膝に乗せてあやしたり、休日はお風呂に入れたりしたが、それだけでドヤ顔をされるのだから、余計にイラつく。

 あぁダメだ‥‥次から次へと頭に巡るのは、何もしない夫と、夫に何も言えなかった自分に対する怒りと後悔の渦。でも過去のことに目を向けている場合ではない。私はぶるぶると頭を振った。

 昨夜、珍しく早い時間に帰宅した夫は夕食後、美香が二階に上がって行くと、ボソッと言った。「会社辞めたよ」

 えっ? ご馳走さまと同じトーンで発せられた言葉の意味は、すぐに理解できなかった。

「どういうこと?」

「前に話しただろ。希望退職を募っているって」

それは覚えている。三ヶ月ほど前だっただろうか。会社の事業縮小に伴って希望退職者を募っている、でも自分は慰留されるだろうと夫はエラそうに言っていた。それを鵜呑みにしたわけではないが、その後その話題にはならなかったから、敢えて確認することもしなかった。それが妻である私に何の相談もなく会社を辞めるなんて、ない、ない、絶対にあり得ない!

「それは聞いたけど、あなたが辞めるなんて話は聞いてないわよ!」

「先週、部長から呼ばれて打診されたんだ」

「それでハイわかりましたって辞表を出してきたの? 私に相談もしないで」

「お前は俺の判断を尊重してくれると思っていた」

 長い年月をかけて沼に沈めてきた私の叫びは、もはやキャパオーバーで勢いよく溢れ出す。

「はぁ? これから美香の高校・大学進学にお金がかかるのよ。家のローンだってまだ残ってるし、これからどうするつもりなのよ! 私の給料だけでやっていけるわけないでしょ!」

「取り敢えず退職金は来月出るし、お前に負担をかけるつもりはないよ。俺だって失業保険をもらいながら、すぐに再就職先を見つけるつもりだから」

「何甘いこと言ってるのよ! 資格も大したキャリアもない五十歳のオジサンを採用してくれる企業があると思ってる?」

「だからハローワークに行って‥‥」

「まさか今までと同じ収入を得られる企業に再就職できるなんて思ってないよね?」

「いや、今までと近い額を稼ぐように頑張るよ。当面は退職金もあるわけだから‥‥」

「稼げるわけないでしょ! それに退職金、退職金ってエラそうに何言ってるの? 早期退職といったって、どうせ一、二割増し程度でしょ? そんな退職金をあてにして生活するなんてあり得ない! 大体あなたは自分勝手で想像力がなさすぎるのよ!」

 ハッと気づいたら手に持っていた箸が宙を舞って夫の額に当たった。パラン‥‥箸が床に落ちた音で私の中で眠っていたスイッチが入ってしまった。

 私は傍にあったクッションやBOXティッシュを夫に投げつけ、その勢いのまま十五年間溜まりに溜まった沈殿物を、初めて言葉にして夫にぶつけ続けた。

 夫はさすがに神妙な顔をして項垂れていた。どのくらいそうしていただろうか。大きな声で喋り疲れた私が特大の溜息を吐くと、夫は目も合わせずに「悪かった」とだけ言って席を立った。

 私は一人になって初めて泣いていたことに気が付いた。気を取り直して食器を片付け、お風呂に入ってから二階の寝室に行くと、夫は寝息を立てていた。いい気なものだ。あんな話をした後に眠れるなんて。私はベッドに入っても脳の興奮状態がなかなか鎮まらず、カーテンの隙間から白んでいく空を見ながら朝を迎えたのだった。

 睡眠不足、というよりほぼ一睡もしていない状態で、集中して夕方まで仕事ができるほど私は若くなかった。四十を過ぎてから疲労回復に時間がかかるのを感じる。幸い急ぎの仕事もなかったので今日は早退して帰ってきた。

 本当に疲れた。これからのことを考えると気が重い。すぐに家に入る気になれず、縁側に腰をかけた。大きく息を吐く。一瞬頭の中が空っぽになった。考えることを脳が拒否しているような気がする。

 ボーッとしたまま庭の紫陽花を眺めていたら、目の端に白い小さな塊が飛び込んできた。ブロック塀の上でカタツムリがのっそりと動いている。アリエルより随分と小さい。まだ子どもなのか、種類が違うのかわからない。

 思えばアリエルを飼い始めてから四年が過ぎていた。美香が小三の時、庭にいたアリエルを捕まえて家の中で飼いたがったのだった。

「ぜったい自分でお世話するから、おねがい! 犬はダメなんでしょ。カタツムリは散歩しなくていいし、あたしが毎日ごはんあげる。おうちのおそうじもするから」

 そう言いながらお定まりの三日坊主で、私の仕事が一つ増えただけだった。飼ってみてわかったことだが、確かにカタツムリは手がかからなかった。犬や猫のように散歩や予防接種は要らないし、食べ物も少量で済むから余計なお金もかからない。しかも一年を通してよく食べるのは春~初夏だけで、秋は少々、冬はほとんど食べないでじっとしていることが多いのも、飼ってみてわかったことだ。

 そして、カタツムリといえども毎日世話をしていると情が湧いてくるのだから、自分でも笑ってしまう。忙しく動き回っている時にゆったりした動きを見せつけられると、「そんなに忙しくしなくてもいいんじゃない? 少しのんびりしなよ」と心配してくれているようでほっこりした気持ちになる。葉の上や枝を這う動きやヌーッと触角を伸ばす仕草は愛嬌があって何とも愛らしい。

 私はご飯をあげながら、或いは飼育ケースの掃除をしながら、よくアリエルに話しかけた。

「おはよう。元気にしてる?」

「今日の胡瓜は美味しいよ、たくさん食べてね」

 アリエルに私の声が聞こえる筈もましてや言葉を理解できる筈もないが、会社で上司から褒められた日は真っ先にアリエルに報告したし、夫に対する不満が溜まってくるとアリエルに愚痴をこぼすことで平常心を保った。そんなアリエルには感謝の気持ちすら抱いている自分がまた可笑しい。 

 そうだ、アリエルだって仲間がいた方が楽しいかもしれない。私の愚痴を聞いているより仲間と遊びたいかもしれない。一匹が二匹になっても仕事は大して増えない。私はブロック塀に近付き白いカタツムリをそっと摘まみ上げた。

「こんにちは。今日からあなたのお家はここよ」 


 いつもより早い時間に帰宅した母親は、居間に入ってくるとバッグを持ったままマイハウスの屋根を開けた。ご飯や掃除の時間でもないのに一体何だろうと見上げると、母親の指が何かをつまんでいるのが見えた。それは私より二回りは小さく全体的に白っぽいカタツムリだった。母親はニコニコしながら、それをそっとマイハウスの湿った底に置いた。

 白いカタツムリは状況が飲み込めないようで、おどおどしている。私にも経験があるからよくわかる。いきなり違う環境に連れて来られて不安でいっぱいなのだろう。私は突然目の前に現れた同胞にどう向き合うべきかわからず、周囲をうろうろしていた。

 すると、不意にどこからか声が聞こえた。

(こんな狭いところで俺は飼われるのか)

 聴覚をもたない私に聞こえる筈がなかった。でも私の脳に人間の男の声がすっと入り込んできたのだから驚く。キョロキョロと見回すと、白いカタツムリがこちらを見ていた。

(オマエが喋ったのか?)

(見ればわかるだろう。他に誰もいないじゃないか)

(そうか、オマエも人間だったのか)

(よりによって、こんな下等な動物に生まれ変わるとは。我ながら情けない)

 そう言うと、白カタツムリはマイハウスの隅に移動し、殻に身を縮めた。眠ったようだった。

 翌朝目覚めると、ハウスの中には母親が切ってくれたであろう胡瓜が置いてあった。いつものように胡瓜を縦半分にして、白い方を上にして置いてくれていた。今までは一本の四分の一程度の長さだったが、いつもより長めに切ってあった。

 見るとそこに白カタツムリが乗り、むしゃむしゃと既に半分ほど食べ尽くされているではないか。

(おい、一人で食べるなよ。まだ俺はひと口も食べていないんだぞ)

 初めが肝心だ。私は新入りに注意をした。

(フン、人間みたいなこと言うなよ。早いモン勝ちに決まってんだろ)

 シロ~私は小さい白いカタツムリをそう呼ぶことにした~は荒々しく息を吐き、抗戦的な態度を崩そうとしない。四年もここで暮らしている身としては、昨日来たばかりの新参者にエラそうな態度をとられ、苛立ちを抑えられなかった。この四年間ですっかり家の中の暮らしが定着してしまった私は、自然界に身を置いていた頃の食糧確保の厳しさを思い出した。

(あっちへ行け!)

 私はシロを突き飛ばし、胡瓜の残った白い部分にかぶりついた。力では圧倒的な差がある。そっちがその気なら容赦はしない。

(何するんだ、ひどいじゃないか!)シロが気色ばんで突っかかってくるが、力では叶わないと悟ったのか、もう十分食べて満足したからか、くるりと向きを変えてハウスの隅に身体を寄せた。

(譲り合いを拒否したのはオマエの方だろ)

 ざまぁみろ。私は涼しい顔で食事を続けた。それでも、私はシロが低姿勢で謝ってくれば仲良くしてやるつもりでいた。同じ前世人間だった者同士、分かり合えることもあるだろうし、快適に暮らすためには余計な神経を使いたくなかった。

 ところがシロはしぶとかった。翌日になっても決して頭を下げようとしない。

(これはお前だけの食糧じゃない筈だ。母親が用意してくれる量は、お前ひとりの時より多いんじゃないのか? つまり俺の分も含まれてるってことだ)

 そんな理屈を滔々とこねてみたり、

(それじゃ、こういうのはどうだ? クイズを出し合って勝った方が食べる権利を得るというのは)

 などと何とか自分のペースに持ち込もうと提案してきたりした。昔の自分だったらうまく相手のペースに丸め込まれていたかもしれない。私はブルブルっと首を振り、ひたすら胡瓜を齧り続けた。

 シロは私が胡瓜をひとり占めして白い柔らかい部分を食べてしまっても、残った緑色の固い部分を齧り、時間をかけてエキスを吸っているようだった。対等に戦っても負けるため、シロは私が寝ている隙を狙って食事にありつこうとしていた。

 そんなシロとの食糧争奪戦は日課となり、退屈だった私の生活にハリをもたせることとなった。おちおち昼寝もしていられない緊張感のある暮らしは、私の生命力を喚起し、私はあと五年も十年も生きられる気がしていた。

 シロがやって来て一週間ほど経った頃、私はシロの振る舞いを見ていて既視感に捉われた。シロが人間だった時どんな奴だったか、それは一つ屋根の下で暮らす内、段々わかってきた。シロを見ているとひとりの男の顔が浮かぶ。そういう目で観察すると、数日でそれは確信に変わった。

(オマエ、健司だろ? 飯坂健司)

 私はシロに話しかけた。シロは一瞬ギョッとしたように触覚をピクリと震わせた。やはり間違いない。

(そういうお前は誰だ?)

(わからないか。玲だよ、森下玲)

(玲? そんな奴、知らねぇよ)

(そうか、覚えていないのか)

 平然と言うシロに、私は逸る感情を抑えて静かに言う。

(小四の夏休みにオマエに万引き犯にされた気の弱い同級生、そう言えばわかるか?)

(玲‥‥お前、玲だったのか)

 シロ、いや健司がやっと思い出した瞬間、私の憎しみは当時のままくっきりと蘇った。真新しい感情のように、それは鮮度を保ったまま私を支配していった。


 我々カタツムリは基本的に何でも食べるのだが、この家に初めて来た時に提供された胡瓜があまりに美味くて、白い部分を完食したことで母親は胡瓜が好物だと思ったようだ。こちらとしてはお腹が空いていて何でも美味しく食べたのだと思うが、以来、毎朝提供される食事は胡瓜となった。時々キャベツの葉やカルシウム源の卵の殻も入れてくれたが、齧った跡がわかりずらいキャベツや卵の殻は食べていないと思われたのか、やがて胡瓜のみとなった。

 たまには胡瓜以外の物も食べたいと思ったが、そんな要求を伝える術はなく、私は毎日ひたすら胡瓜を消化した。自然界で暮らしていた頃は、野菜は腐りかけたものしか食べる機会がなかったので、新鮮な胡瓜はそれだけで最高級のご馳走だったのだ。

 それに私の身体を覆う殻は既に強固に出来上がっていたから、多くのカルシウムを必要とはしなかった。身体が欲することはあったが、それがないと生きられないということではなかった。

 いつの間にか居間のカレンダーは七月に替わっていた。昼間、家族が出かけている時間帯は室温が高くなり、動くのが億劫な季節になっていた。

健司は相変わらず、私の目を盗んで食事にありつこうともがいていた。だが、それをさせないことに生きがいを感じていた私は、健司が胡瓜の上に乗ろうとすると、全身で振り落とすことを繰り返した。

(少しでいいから、食べさせてくれよ)

 或る日、健司は初めて私に懇願した。いよいよ空腹と体力の衰えが限界を感じるようになったか。

(何で俺がオマエの言うことを聞かなきゃいけないんだ)

(頼むよ、玲。お腹が減って死にそうなんだよ)

(ヘン、馴れ馴れしく呼ぶな)

(お願いだよ。どうすれば胡瓜を分けてくれるんだ?)

(オマエがどうなろうと俺の知ったこっちゃないんだよ)

(そんなこと言うなよ。前世では同じ人間だった者同士じゃないか)

(だからさ、その前世でオマエは俺に何をしたか、よく考えてみろよ)

(わかったよ。ゴメン、あの時は悪かったよ)

(それで済ませるつもりか?)

(うちの両親すごく厳しくてさ。逆らうと殴られるし、あの時は何もできなかったんだよ)

(そうなのか‥‥って納得すると思うか? 俺は父親に殴られたんだぜ。それだけじゃない。クラス全員から万引き犯って後ろ指を指されて、口も利いてもらえなくなった)

(‥‥ゴメン。本当に悪かったよ。だから‥‥)

(だから何?)

(少しでいいから胡瓜を‥‥)

 私は触角で思い切り健司を突いた。過去は変えられない。そんな簡単なことを健司はわかっていないのか。私は増幅した憎しみを噛みしめるように胡瓜を齧り続けた。白い部分はあっと言う間になくなり、固い緑色の部分も齧れるだけ齧った。そして、その上で眠った。

 健司は少しずつ動きが鈍くなっていったが、しぶとく生きていた。確かにしばらく食べないからといってすぐに死に至るわけではない。ハウスの床に薄く広がる水までひとり占めすることはできなかったから、健司は水だけでその生を維持していると思われた。まぁ、いい。苦しみながらじわじわと弱っていくがいい。

 或る日の朝、私は健司を横目で眺めながら、これ見よがしに胡瓜を食べていた。健司の身体を覆う殻は透明感を増し、ひと回り小さくなったように見えた。次の瞬間、脳裏に浮かんだ閃きに、私は心が躍った。

 そうだ! 私はこんな素晴らしいアイデアを何故今まで思い付かなかったのだろう。私は胡瓜を食べ終えると徐に健司に近付き、その背中によじ登った。

(何するんだよ)

 健司は文句を言うが、既にその声は力なく掠れていた。私は無視して、その真っ白な殻にかぶりつく。むしゃむしゃむしゃ。

(や、やめろ!)

 今度はさっきより大きな声が出たようだ。さすがに命の危機を感じたのだろう。必死さが伝わる。私は執拗に白い殻を齧る。既に薄くなっていた白い殻は思いの外齧りやすかった。健司は身を捩って抵抗するが、力で私に敵うわけがない。こんな身近に貴重なカルシウム源が転がっていたことに今まで思い至らなかった。そのことを健司には感謝してもらいたい。

 カタツムリにとって命綱ともいえる殻。次の日も私はカルシウムの塊を貪り齧った。健司は既に動く体力も残っていない様子で、ただされるがままだった。

 三日目の朝。いつものように母親がハウスの屋根を開けて、つと手を止めた。母親の指が健司をつまみ上げる。健司の身体を覆っていた殻は既に原形を止めておらず、ピクリとも動かなかった。

 こんなことであの時の恨みを晴らした気にはならない。あいつにはもっともっと大きな苦しみを与えてやりたかったのだが、カタツムリになった所為なのか、何の感慨も湧かないのはいささか虚しくはあった。

 ハウスの外側に貼られていた「アリエルの家」というテープが視界に入った。テープは剥がれかけ、文字は掠れていた。私は母親が入れてくれた胡瓜をじっと見つめる。心置きなく食べられると思ったら、潮が引くように食欲が失せていった。


 ジャスミン。ひそかにそう命名したカタツムリは、アリエルと違ってひと月ほどであっと言う間に死んでしまった。身体が小さくまだ子どもだったから栄養が足りなかったのだろうか。卵の殻などをあげればもう少し長生きできたのだろうか。最後の数日で動きが鈍くなり身体を覆う殻がみるみる崩れていった。

 昨日、私は庭の紫陽花近くにジャスミンを埋めて掌を合わせた。せっかく友だちができたのに、アリエルには可哀想なことをした。

「アリエル、ごめんね」

 私がしゃがみ込んで飼育ケースのアリエルに謝ると、いつの間にか娘の美香が居間にいて、「きもっ」と呟いたのが聞こえた。この手のことでいちいち反応するのは疲れるので、私は聞こえない振りをする。

 最近の美香は絶賛反抗期中といったところだ。父親とは小学校高学年頃からろくに口を利かなくなり、中学に入ると私ともあまり喋らなくなった。それにしても自分が望んで飼い始めた生き物の世話を全面的に母親に押し付けておいて、その態度はないだろう。自分だって以前は散々アリエルに話しかけていたではないか。

 腹は立つし𠮟るべきかと考えることもあるが、大人になるために多くの人が通過する儀式と思って、私はやり過ごすことにしている。叱りつけたところで反抗に拍車がかかるだけなのは、想像に難くない。中三が近づき高校受験を意識するようになれば自ずと収束するのではないか。そんな根拠のない娘への信頼感がある。社会に迷惑をかける行為さえしなければ、親に悪態つくくらい大目に見て、余計なエネルギーを消費しないのが賢明な気がする。そうでなくたって、夫のことでは要らぬエネルギーを費やしている。これ以上勘弁してほしい。

 今日は雨の日曜日。美香は卓球部の練習試合で学校に出かけて行った。夫はあれから毎日が休日の筈なのに、朝出かけて夕方まで帰ってこない。仕事を辞めてからひと月が経つのに、新たな就職先についての報告はない。今日も何も言わずに出かけて行った。ハローワークは日曜日休みではないのか。時々携帯に電話がかかってきている話の様子から、一応就活はしているようだ。でも働いていないのなら、せめて家事の分担くらいしてほしい。あれ以来、夫は食べた食器をキッチンに運ぶようになった。でもそれだけだ。流しに置いておけば自然に綺麗になるとでも思っているのか。そんな皮肉な問いかけが頭を過るが、声にできない私も変わっていない。

「たまには洗ってよ」

 十文字にも満たないひと言がどうして口に出せないのか。私も夫だけを責められないと思うようになった。今まで言わないから伝わっていなかった。それだけのこと、とまでは思えないが、言わなくても想像してよ! というのは或る意味私の傲慢だったのかもしれない。

 自分しかいない居間はしんと静まりかえっている。美香が中学生になって一人の時間ができたのはもっと喜ぶべきことなのだろう。私は職場の同僚にもらった高級な珈琲豆を挽いた。芳醇な香りが鼻腔を刺激する。手動ミルのカリカリという音と香しさだけで、こんなにも優雅な気分になれるのか。それは新鮮な驚きだった。

 ソファで珈琲を飲んで寛いでいると、外が明るくなってきた。窓ガラス越しに見上げると、雨はまだしとしと降っているが空を覆う雲の色がグレイから白に変わっている。私は縁側から庭に出た。紫陽花の葉が雨に濡れてキラキラ輝いている。

 そうだ! 雨の日は庭にカタツムリがいるかもしれない。ジャスミンの代わりにアリエルに新しい友だちを探してあげよう。ジャスミンを見つけたブロック塀にその姿は見つけられなかったが、しばらく探していると、いた! タチアオイの葉の裏に薄茶色の渦巻きを発見。

 私はそっとそれをつまみあげる。アリエルよりは小さいがジャスミンよりひと回り大きい。指の感触からも殻がしっかりしているのがわかる。この子ならアリエルのように長生きできるかもしれない。今度はしっかりカルシウムもあげよう。

「あなたは何ていう名前にしようかな」

 掌に乗せてじっと見つめていると、もう可愛い。自然と笑みがこぼれる。

「ベルはどうかしら?」

 私はアリエルやジャスミンと同じように、ディズニーのキャラクターからそう名付けた。


                  *

 そういえば最近、父親の帰宅時間が早くなった。ほぼ毎日家族揃って夕食をとっている。休日もゴルフクラブを持って早朝から出かけることはなくなった。あの激しい夫婦喧嘩はやはり父親の浮気が原因だったのかもしれない。浮気がバレた父親が母親に謝罪して、行いを悔い改めるために早く帰宅するようになったということか。家庭が円満なのは私の生活の安定にもつながるので何よりである。

 ただ父親が居間にいる時間が増えた分、娘を見る時間が減ったのはつまらない。一番変化の大きい娘の観察機会が減ってしまうのは、刺激がなくて退屈に過ぎる。あ~ぁ、今日もすることがない。昼寝でもするか。

 ん、なんだ、なんだ! 食事時間でもないのにいきなりマイハウスの屋根が開いた。見上げると、母親の指がカタツムリをつまんでいるのが見える。せっかくマイペースな生活を取り戻せたというのに、また誰か連れてきたのか。母親はそいつをキャベツの葉の上に置いた。

 健司の死後、母親は何を思ったか、胡瓜の他に時々キャベツや人参、卵の殻も入れてくれるようになった。何も知らない母親は健司の死の責任を感じているのかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちで一杯になるが、私としては歓迎すべきことだったから、ちゃんと齧ったことがわかるよう痕跡を残すことで感謝の意を示すことにした。

(やっと会えた)

 キャベツの上から聞き覚えのある声が脳裏に響いたので、私はギクッとした。見るとたった今やって来た新入りがこっちを見ている。

(お前が喋ったのか?)

(そうだよ)

 人間の言葉が通じることにもう驚くことはなかったが、意味がわからない。

(やっと会えたってどういう意味だよ)

(ずっとキミのことを探していたんだよ、玲)

 いきなり名前を呼ばれて私はのけぞった。

(俺のこと知ってるのか?)

(もちろんだよ。わからないかい?)

 そいつの声を聞いていると、懐かしいような思い出したくないような複雑な思いが去来した。

(‥‥隼人か)

 しばらく考えた末に辿り着いたその名前を口にすると、苦い汁が口の中に広がった。

(よかった、思い出してくれて)

 隼人はホッとしたように言う。心底嬉しそうだった。私の中に釈然としない思いが広がっていく。

(何で俺を探していたんだよ)

(会って謝りたかったし、これからの人生一緒に生きていけたらって思ったから‥‥あ、カタツムリは人生とは言わないか)

 隼人はそう言って自嘲気味に笑った。私は狐につままれたようだった。

(俺、カタツムリになってすぐの頃、玲と会ってるんだよ。話しかけようとして近付いたら、キミが交尾しようと迫ってきたんだ。さすがにそれは違うなって思って離れたら、そのままはぐれてしまった)

 私が交尾を試みた相手は一匹しかいない。あの時のカタツムリが隼人だったというのか。

(あの時、すぐに玲だってわかったんだけど、何だか声をかけられなくて‥‥)

 私は何年も前のその光景を思い出そうとしたが、うまく記憶が呼び起こせなかった。

(それより、小四のコンビニでのこと、本当に悪かった。ごめんなさい)

 隼人は触角が下に付くほど深々と頭を下げた。

 そして、あの時のことを訥々と語り始めた。

 玲は知らなかったと思うけど、健司の家はお母さんが食事に厳しい人でね。身体に悪いからって健司は小さい頃からお菓子を一切食べさせてもらえなかったんだ。誰にも言うなと口止めされていたから玲にも言わなかったけど、それで時々万引きをしていたのを俺は知っていた。俺は家にあるお菓子をこっそり健司に分けてあげたりしていたんだけど、健司のお母さんにバレてうちの親も注意されて、それもできなくなってしまった。

 あの日、コンビニから走って逃げた俺と健司は、玲のところに戻ろうとしていたんだ。ところが途中で買物帰りの健司のお母さんとバッタリ会っちゃって……。健司は慌てて隠し持っていたお菓子を俺に押し付けてそのまま家に帰っていったよ。

 どんな事情があったって万引きはしてはいけないし、玲一人に罪を着せるつもりなんてなかった。それは俺も健司も一緒だよ。嘘じゃない。だから玲のお母さんから家に電話をもらった時はドキドキしたけど、玲が俺たちのことを庇ってくれたのを知って、心から申し訳ないと思った。

 翌日、俺と健司は相談して親に本当のことを話そうということになったんだ。怒られるけどそれを覚悟の上で話して一緒にコンビニに謝りに行ってもらおうと。

 でも健司のお父さんは、万引きの証拠を押さえられたわけではないのだから、今更謝罪になんて行く必要はない! と逆に怒られたんだって。健司のとこお父さんも厳しい人で、よく殴られていたみたい。うちにも電話があって、話を蒸し返してくれるなと言われたようなんだよね。うちの親は一緒に謝罪に行くつもりになっていたんだけどそうもいかなくなって……。俺は「二度とこんなことはするな」とキツく叱られたけど、結局それまでになってしまったんだ。

 その後、玲に謝りたかったけどきっかけが掴めないまま二学期になってしまった。始業式の日は親が用事で学校の前を通ると言うから、車で送ってもらっていつもより早く着いた。教室に入ると、同じクラスの高木京子覚えてる? すごく大人っぽい女子いたでしょ? あいつが耳打ちしてきたんだ。

「アンタ森下と仲いいんでしょ? アイツ万引きして捕まったんだけどサ。アンタたち一緒だったんじゃないの?」

 俺は青ざめたよ。玲には悪いと思ったけど、「知らない」と否定するしかなかった。本当のことを話したら健司がお父さんから何をされるかわからないと思ったから。

 どうして高木がそのことを知っているのか、その時はわからなかったけど、後からあのコンビニの店長が高木の親戚の伯父さんだということがわかったんだ。たぶん伯父さんから聞いたんだと思う。高木も酷い奴だよ、クラス中に言いふらしていたんだから。

 本当にごめんよ、玲。俺も健司も本当のことを言う勇気がなかった。気まずくて玲とも距離を置くようになって、そのままクラスも分かれてそれっきりになっちゃったね。でも俺、大人になってからも忘れたことはなかったよ。いつか会って謝りたいとずっと思ってたんだ。

 隼人はじっと項垂れていた。

(そんな昔の話、改めて聞かされても信じられないよ。俺は健司の家の事情とか知らないし、ずっとお前たちを恨んできたんだから)

(‥‥そうだよな。許してくれって言うのは虫がいいと思うよ。でも俺たちはこうしてカタツムリとして生きていかなくちゃいけないんだ。運命共同体というか、一緒に前世を背負っていくというか‥‥だから俺は健司と玲を探してたんだ)

 隼人が言っていることはまたも意味不明だった。

(健司もカタツムリになったって何でわかるんだよ? 運命共同体ってなんだよ)

 そう言うと、隼人は驚いた様子で触角をめいっぱい伸ばした。

(えっ、玲はもしかして気付いていないの? 俺たちがどうしてカタツムリになったのか)

(理由なんて考えたこともなかったけど、そもそも俺たちがカタツムリに生まれ変わったのに必然性があるのか)

(‥‥玲、キミという人は‥‥)隼人が呆れたような憐れむような目で私を見る。(本当に忘れてしまったのかい? 俺たちがしたことを)

 俺たちが、したこと‥‥そうゆっくり心の中で反芻した時、私の脳裏に閃光が走った。それは今まで思い出さなかったのが自分でも信じられないくらい強烈な出来事だった。

 あれは小四の一学期、六月のことだった。放課後、俺たちはいつものように一緒に校門を出た。寄り道は禁止されていたが、公文がない日は探検と称して遠回りして帰るのが常だった。よく川向こうの裏山に登ったり、隣の学区にある神社まで行ったりした。

「遠回りしてはいけません、なんてオババは言ってないからな」

 担任の小幡先生のことを「オババ」と呼び、揚げ足をとる子どもっぽい狡さも身に付けていた。どんなルートで帰るかは大抵健司のひと声で決まった。

「今日は神社を通って帰ろう」

 隼人も俺も反対する理由はない。俺たちは学校から二十分ほどのところにある神社まで他愛もないお喋りをしながら歩いた。鳥居をくぐり石段を駆け上がる。雨上がりの神社の境内は普段より鬱蒼と緑が生い茂っているように感じられた。地面もじめじめしていて少し歩いただけで運動靴が泥にまみれてしまう。ヤバイ、お母さんに怒られる。俺は足下に目をやり身を縮めた。すると、

「オイ、あれは何だ?」

 健司が境内の奥の方を指さしている。湿った草が緑の絨毯のように見える場所に、茶色っぽい石ころみたいなものがいくつも転がっているのが見えた。何だろう、と言いながら俺たちは近付いた。

「もしかして、カタツムリ?」

 隼人が真っ先に気付いた。屈んで見ると、それらは間違いなくカタツムリだった。二十匹近くのカタツムリの大群が濡れた草の上を這い回っている。

「わぁっ!」

 俺たち三人はびっくりして思わず後ずさった。その光景は何とも言えず不気味だった。カタツムリの大群はじりじりと俺たちの方に向かってくるように見える。

「やらないとヤラれるぞ!」

 健司が足元にいたカタツムリを踏み潰した。一匹潰したら抵抗感がなくなったのか、健司は次々に足を振り下ろしていく。俺は怖くて必死に足をバタバタさせた。靴底にいやな感触があったが無我夢中だった。

「もうやめようよ!」

 隼人の声で我に返ると、目の前には悲惨な光景が広がっていた。俺たちは逃げるように神社を後にした。いつもはグリコをやりながら降りる石段を、我先にと駆け下りていった。

 その日、家までどんなふうにして帰ったか覚えていないが、その晩巨大なカタツムリに襲われた夢をみたことを、私は急に思い出した。

(思い出したようだね)

 隼人が神妙な声で語りかけてきた。

(ああ、思い出したよ)

 私は内臓がぎゅっと絞られるようだった。隼人が言う。

(俺は自分が死んでカタツムリに生まれ変わった時、すぐにあの日のことが蘇ったよ。どうしてあの時あんな残酷なことをしてしまったのか。子どもだった俺たちには恐ろしい光景に見えたけど、でも小さなカタツムリじゃないか。あそこまでした理由が未だにわからない。ずっと後悔していたんだ。こうしてカタツムリになったのは、あの時のカタツムリたちの怨念なんじゃないかと思っていた。復讐と言った方がいいかもしれない。そうだとすると、きっと健司や玲も同じことになっているんじゃないか。そう思ってキミたちのことを探していたんだよ)


 それから数日間、私たちは口をきかなかった。隼人は話したそうだったけれど、私は自分の頭の中を整理する時間がほしかった。健司のことはまだ話せていない。

 これからどう生きるべきなのか、私は考えていた。隼人と二人、いや二匹で生前の行いを懺悔し、カタツムリとして粛々と生きていくほかないのだろう。それだけではない。私は健司の命を奪ってしまった罪をどう償えばよいのか。

 思えばカタツムリとして生を受けて以降、私は一00%それを受容し、ただ生きるために生きてきた。この家に来てからは家族のことを観察しながら、娘の成長を喜び、母親を案じつつ、あくまでもカタツムリとして生きてきたのだった。

 健司との再会によって、歯車が狂ってしまったように人間だった時の感情に捉われてしまった。健司に責任転嫁するつもりはない。ただただ悔いるばかりだ。

 カーテンの外は既に明るくなっている。もうすぐ食事の時間だ。母親はこのところ表情が穏やかになったような気がする。何か良いことがあったのだろうか。そうなら嬉しい。

 ハウスの屋根が開くと、母親の笑顔が見えた。私と隼人は一旦プラスチックの容器に移され、ハウスが綺麗になったところに、新鮮な胡瓜とキャベツと共に戻された。この季節の野菜は瑞々しい香りがして美味しそうだ。私は心の中で母親に、「いつもありがとう」と感謝の意を伝えた。

 ふと見ると、剥がれかかっていた「アリエルの家」と書かれたテープは、真新しいものに貼り替えられていた。「アリエルとベルの家」と書いてある。私は隼人に呼びかけた。

(ベル、一緒にご飯を食べよう)             

                                   (了)                                               

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リベンジラプソディ 志麻乃ゆみ @shimanoy

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