アイヴィー・ベル作戦

わんし

オペレーション・アイヴィー・ベル

ここは冷戦期のアメリカ。


俺たちはアイヴィー・ベル作戦に参加した。


1971年10月。

世界は二つに裂けていた。資本主義と共産主義。自由と管理。信頼と疑念。


そして俺たちはその裂け目の、さらに奥深くに潜っていた。


俺はUSSハリバット(SSGN-587)の艦長、ジェームズ・マクニッシュ少佐。


かつては巡航ミサイルを搭載する戦略潜水艦だったが、今は改造され、特殊任務に従事する水中のスパイだ。


冷戦の闇が世界を覆う中、俺たちの潜水艦はオホーツク海の冷たい深海に潜む。


任務はアイヴィー・ベル作戦――ソ連の海底通信ケーブルに盗聴器を仕掛ける、極秘のミッションだ。


ここはソ連の庭だ。

オホーツク海、ソ連太平洋艦隊の心臓部――ペトロパブロフスクとウラジオストクを結ぶ、一本の海底ケーブル。


それは通信の大動脈。艦隊の動き、指令、核戦略、そのすべてがここを通る。


奴らはこのケーブルが安全だと信じている。

暗号化もされていない会話が流れているらしい。


だが、俺たちがそれを盗聴するなんて、ソ連は夢にも思わないだろう。


音響センサー、ソナー網、監視衛星。

奴らが張り巡らせた“耳”をくぐり抜けるのは至難の業だった。


海底400フィート、敵の音響探知網の下、俺たちは息を潜めて進む。


潜水艦が水をかく微細な音すら、ソ連の警戒網には引っかかる可能性がある。


「深度安定、速力維持。音響反応ゼロ。順調です」


ソナールームから若い士官の報告が届く。


「よし、指定ポイントまであと1,000ヤードだ。静かに進め」


俺は口を動かすたび、自分の声すら騒音に思えた。


ハリバットは特殊任務用に大規模な改造を施されている。


偽装された深海救難艇(DSRV)、潜水士のための減圧室、補助アームを備えたロボットアーム。


まるで科学実験室と軍艦を合わせたような怪物だ。


だが、機体の性能よりも重要なのは、人間の意志だった。


この任務に必要なのは、勇気と沈黙。そして絶対的な冷静さ。


クルーには任務の全貌を知る者はほとんどいない。


表向きは、ソ連の対艦ミサイルの残骸回収任務だ。


だが、真実はもっと危険だ。


潜水士たちは氷点下の海底で、20フィートもある盗聴装置をケーブルに巻きつける。


ケーブルを傷つけず、電磁誘導で通信を記録する。

この装置は、AT&Tベル研究所が開発した、まるで魔法のような代物だった。


設置中にケーブルが引き揚げられた場合は自動的に外れるよう設計されている。


万一を想定した、完璧な隠密性。それが俺たちの命綱だ。


発令所の空気は重く、沈黙が支配する。

計器の針が少し動くだけで、皆の目がそこに集中する。


1ミリの異常が、命取りになる海域だ。


「艦長、右舷300度方向、弱い反応あり」


「距離と種類は?」


「正確には不明ですが、潜水艦の可能性あり。シグネチャーが既知のMiG-660型に近いです」


「……観測継続。警戒態勢を維持」


それが敵か、魚の群れか、あるいは自然音なのか、判断は容易ではない。


だがこの深海では、最悪を前提に動くしかない。


1962年のキューバ危機を思い出す。

あの時、世界は本当に終わる寸前だった。


核のボタンに指をかけたまま、各国の指導者たちは夜を越えた。


今の俺たちの状況も、あの延長線上にある。


ソ連の核戦略、艦隊の動き、ICBMのテスト情報――すべてがこのケーブルを通って流れている。


俺たちが盗むのは、単なる情報ではない。

それは、未来の戦争を左右する、見えない火薬だ。


「設置作業、開始」


俺は息を殺す。


深海に降りた潜水士の一人、エドワード・ケイン軍曹の声が無線に入る。


「視認、ケーブル発見。問題なし……作業開始します」


あと一歩。あと一歩で、俺たちはソ連の心臓に触れる。


成功すれば、アメリカは一歩リードする。

失敗すれば――第三次世界大戦の引き金を引くかもしれない。


「固定完了。装置はケーブルと正常に接触。誘導記録、開始します」


潜水士ケインの報告は淡々としていたが、その背後にある緊張は無線越しにも伝わってくる。


ハリバットの艦内には、深い安堵と警戒が同時に流れた。


作業は順調。だが、帰還するまでが任務だ。

そして何より、装置の存在がソ連に悟られてはならない。


俺はモニター越しに、ケインの映像を見ていた。

深海の闇の中、ヘッドランプがケーブルを照らす。


そこには人工物とは思えない静けさがあった。

まるでこのケーブルが、人類の過ちと野心をそのまま飲み込んでいるようだった。


「ケイン、酸素残量を確認。あと8分以内に戻れ」


「了解。装置のカバー固定中……よし、完了。帰還します」


彼の姿がゆっくりとケーブルから離れていく。

黒い海の中に溶けていくように、静かで慎重な動きだった。


その瞬間、ソナー室がざわめいた。


「艦長、東方向に動きあり。速度はゆっくり。パッシブソナーに断続的な反応」


「敵か?」


「断定はできませんが……通常航行の音ではない。潜水艦の可能性が高いです」


俺の背筋が冷たくなる。

ソ連のパトロール潜水艦だろうか。


この深さ、この場所で出会えば、偶然では済まされない。


「ケイン、急げ。敵の接近を確認。回収体勢に入る」


「了解、上昇中……あと30フィート」


艦内が一気に緊迫した。

一秒ごとに、敵の距離が詰まってくるような錯覚すら覚える。


音はない。目に見えるものもない。

だが、確かに“気配”が海を満たしていた。


「DSRV開口、ケイン帰還を確認」


「ハッチ閉鎖、減圧開始」


「全乗員、戦闘配置。静粛態勢を維持。バラスト微調整、ノイズ最小化」


ハリバットは音もなく姿勢を調整し、深度を10フィート下げた。


この小さな変化が、生死を分けるかもしれない。


敵潜水艦らしき影は、東からゆっくりと近づいてくる。


ソナーの波形は不鮮明。旧型のK級か、それともヴィクター型か。


いずれにせよ、彼らは“誰か”がこの場所にいることを、うすうす感じ取っているのかもしれない。


「艦長、こちらにはまだ感知されていないようです」


「スクリューを完全停止。バッテリーのみで静止」


「了解、全停止」


俺たちは海底の一部になった。

音を立てず、動かず、ただ沈黙を守る。


この状態で何時間も耐えることは不可能だ。だが、今は数分が命綱だ。


やがて、ソナーに映る反応が徐々に薄れ始めた。

敵は別の方向に興味を移したのか、それともただの巡回だったのか。


いずれにせよ、今回は“運”が味方した。


「潜水艦反応、遠ざかっています」


「……ふう」


艦内に誰かが息をついた音が漏れる。

そして、それすら誰かに睨まれて止まる。

静けさは、恐怖と同義だ。


減圧が終わり、ケインが艦内に戻る。

全身が冷え切っていたが、目だけは冴えていた。


「よくやった」


俺は短く言う。

彼は頷き、「次は、あんたの番かもしれませんね」と笑った。


冗談のようで、本気のような、妙な響きだった。


俺たちはこの作戦を、月に一度、繰り返す。

敵の庭に忍び込んでは、情報を盗み、息を潜めて帰還する。


繰り返すたび、確率は下がる。

だが、国家はそれを承知で俺たちを送り出す。


ワシントンのNSA本部では、俺たちが持ち帰るテープを専門家たちが解析する。


テープには、ソ連海軍の高官の声、艦隊の運用計画、時には政治家同士の生々しい会話が録音されている。


俺たちは情報ではなく、“生活”を盗んでいるのかもしれない。


「艦長。次の回収は1か月後でよろしいですか?」


通信士が声をかけてくる。

俺は考える。

この作戦を続ける意味。この命の綱渡りに、どれだけの価値があるのか。


「1か月後だ」


俺は答える。


「だが、もし敵に気づかれたら……その時は引き返せ。命が第一だ」


士官たちは黙って頷いた。

その目には、命令への服従ではなく、覚悟が宿っていた。


艦は再び深海を離れ、静かにアメリカの海へと帰還を始めた。


その背中には、ソ連の“心臓の鼓動”が録音された磁気テープが眠っていた。


1972年2月。

冷たい風がワシントンD.C.の街を吹き抜ける。


マクニッシュ少佐は、厚手の軍用コートを翻しながら、NSA(国家安全保障局)の匿名の建物へと足を踏み入れた。


手には黒いアタッシュケース。

中には最新の磁気テープが5巻。


そのうちの一本は、音声技術者たちの間で「ベルの巻」と呼ばれていた。


そのテープには、奇妙な会話が録音されていたのだ。


軍の作戦会議ではない。

誰かが、電話のように軽い調子で話していた。

内容は断片的だったが、こんな言葉が含まれていた。


「……アイヴィー・ベルが鳴れば、全てが始まる」


NSAの通信解析官・ハロルド・レヴィンは、眼鏡の奥で目を細めた。


「この“ベル”とは何か……ソ連の新しい核指令コードか、あるいは作戦名か……」


マクニッシュは黙って聞いていた。

NSAの研究者たちは言葉を切り取り、コードのように解読しようとしているが、現場の感覚は違った。


「……声の調子が妙だ」


彼はぽつりと言った。


「本当に軍人の声なのか?あまりに――軽すぎる」


ハロルドは首を傾げる。


「ソ連の軍高官の私的な通信かもしれません。家族、恋人、あるいは……」


「諜報員か」


マクニッシュは言った。


「意図的に流された“雑音”の可能性もある。俺たちの存在に気づき始めているとしたら、どうする?」


ハロルドは口をつぐんだ。

情報戦とは、静かなる戦争だ。

相手がこちらに気づいているかどうか、それを確かめる術はほとんどない。


その夜、マクニッシュはペンタゴンの地下にあるブリーフィングルームへ呼び出された。


そこには、CIA、NSA、海軍情報部の幹部たちが顔を揃えていた。


「少佐」


中央に座る国家安全保障担当補佐官が口を開く。


「“アイヴィー・ベル”の件だが、我々はこのコードがソ連の極秘潜水艦作戦と関連している可能性が高いと見ている。」


「君の部隊には、今後もオホーツク海での情報収集を継続してもらう」


「了解しました」


「ただし――」


補佐官の声が低くなる。


「今後、作戦は二重構造になる。通常の通信傍受に加え、“アイヴィー・ベル”に関する情報の優先収集だ。対象が軍人ではなく、KGBやGRUのエージェントである可能性もある」


「つまり、軍からスパイへ標的が変わるということですか」


「そうだ。加えて――この任務が露見すれば、アメリカは全てを否定する。君たちが存在したという記録すら残らない。わかるな?」


マクニッシュは頷いた。

冷戦とはそういうものだ。


英雄も死者も存在せず、ただ記録にすら残らない“作戦”が歴史を動かす。


その数週間後、ハリバットは再びオホーツク海へ潜入する。


今回の任務は、録音装置の定期交換に加え、追加で設置されるマイクロセンサーによる周囲の水中音環境の記録だった。


海底の“雑音”の中に、“ベル”の痕跡を探すのだ。


潜水士たちはいつものように作業をこなし、慎重に装置を設置する。


深海の冷たさは変わらず、音もなく全てが進んでいく。


だが、作業完了の直後――

艦内ソナーが異常を検知する。


「艦長、南西方向に金属音。断続的な“鐘のような”高周波……これは……」


「録音開始。今すぐその音を記録しろ」


「はい!」


マクニッシュはその音をモニター越しに聞いた。


……カン……カン……カン……


まるで海底から鳴っている教会の鐘のような音。

だが、自然のものではない。


何か、意図を持って鳴らされている――。


彼の脳裏に、NSAで聞いたあの言葉がよみがえる。


「アイヴィー・ベルが鳴れば、全てが始まる」


今、確かに“ベル”が鳴っている。

それは単なる音ではない。


挑発か、警告か、あるいは――開始の合図か。


ハリバットが録音した“鐘の音”は、NSA本部で緊急解析にかけられた。


その音は、単なる金属の共鳴ではなかった。

極めて規則的な周期。明らかな人為的構造。


さらに、音の波形を高速フーリエ変換すると、そこに“埋め込まれた”信号が浮かび上がった。


「これは……データパルスだ」


ハロルド・レヴィンが声を上げた。


「アナログの音響信号の中に、極小のデジタルビットが埋め込まれてる。……誰かが“音”を使って通信してる」


「海底でか?」


マクニッシュは驚いた。


「潜水艦の中から?」


「いや――恐らく、海底の固定施設だ。信号が一定方向からしか来ていない。移動していない証拠だ」


これは、思わぬ事態だった。

ソ連がオホーツク海の海底に“基地”を構築している?


それとも、こちらの装置が感知し得なかった、さらに深部の施設があるというのか。


マクニッシュは顎に手を当てた。


「つまり、“ベル”は通信拠点……いや、“装置”そのものかもしれん」


「あるいは罠かもな」


ハロルドが口をつぐんだ。


「気づいてるんですよ、彼ら。“誰か”が盗聴してることに」


次の作戦では、ベル音の発信源そのものを探ることが任務となった。


装置の交換、そして新たな機材を使った海底スキャン。


危険は大きくなる。

だが、それを避けるという選択肢はなかった。


出航の前夜、マクニッシュは自室で手紙を書いていた。


相手は妻ではない。母でもない。

軍に入る前、共に育った弟宛のものだった。


「俺たちがやっていることは、“平和”のためだと信じている。」


「だが時々、それが“戦争の種”になってる気がしてならない。」


「俺は、もう後戻りできないところまで来てるみたいだ。」


「もしこの手紙が届いた時、俺がいなかったら――」


「それは、俺が“正しい間違い”を選んだってことなんだと思ってくれ」


ハリバットは再び深海へ潜った。

その夜、作戦は順調に進んでいた。


ケインら潜水士が装置の交換を行い、新しい音響センサーを設置。


その直後だった。


「艦長、ソナーに反応。北西、距離500ヤード――速度急上昇」


「敵か?」


「識別不明……だが高速。潜水艦のスクリュー音ではありません」


マクニッシュは眉をひそめた。


「無人機か?」


「それとも魚雷……?」


その言葉に艦内が緊張に包まれる。

しかし数秒後――反応が突如、消えた。

消えるというより、“切断された”という感じだった。


「……何が起きてる」


その時だった。

通信室のモニターがちらつき、非常灯が点灯。

艦内通信が一時的に途切れた。


「艦長、内部システムに不明なアクセス信号!」


「どういうことだ」


「誰かが――艦内から通信を試みている。通常では使用しない周波数帯で!」


マクニッシュは一気に血の気が引いた。

内部からの信号?

これは――裏切りか。


「全乗員、セキュリティ・コード・レッド。すぐに全端末のログを確認しろ」


「はい!」


次の瞬間、ハリバットの中で銃声が響いた。

その音は、小さく鋭かった。


あまりにも突然で、あまりにも静かだった。


犯人は――ケインだった。


通信室に侵入し、手動で外部にデータを送信しようとしていた。


発見した兵士とのもみ合いの末、取り押さえられたが、銃を抜いて発砲。


だが逆に制圧され、胸を撃たれて即死した。


「……信じられん」


マクニッシュは血の付いたケインの遺体を見下ろした。


男は、長年の仲間だった。

訓練を共にし、酒を飲み、家族の写真を見せ合った男だった。


その男が――スパイだったのか?


「ケインの個人端末から、複数の暗号化データを確認。目的不明ですが、我々の装置の設置位置、任務計画の概要が記されていました」


「彼は……KGBの人間だったのか?」


「恐らく“協力者”です。金か、脅し、あるいは……思想でしょう」


艦内は沈黙に包まれた。

誰も言葉を発せなかった。

この作戦は、敵だけでなく“内側の敵”とも戦っている。


その現実が、艦の空気を重くしていた。


「アイヴィー・ベルは、ただの音じゃない」


マクニッシュは低く言った。


「これは“誘い”だ。俺たちを試してる。

内側に、どれだけの弱さがあるかを――」


ケインの死から数時間後、ハリバットは最後の任務地点に達していた。


海底ケーブルの“ベル”と呼ばれる異音源を中心に、周囲の地形を高精度ソナーでマッピングする。


ハロルド・レヴィンは、暗い艦内でヘッドホンをかけ、無音に近い録音に神経を尖らせていた。


「……あった」


かすかなパルス。低周波の“ノック”。

規則的に続く“音のサイン”が、海底施設から発信されていた。


「信号源の位置、確定」


副官がスクリーンを指差す。

そこは、自然地形に紛れた海底のくぼ地だった。

人工的な構造物はソナーには映らない。


だが、地磁気のわずかなゆらぎがあった。


「そこに何かがある」


マクニッシュは目を細めた。


「……行くぞ」


再び、潜水士が出動した。

だが今回は、通常の装置交換ではなかった。


特殊なセンサーユニットと短時間接続型の音響送信機を使用し、“ベル”の正体そのものに接触する。


水温は摂氏0.5度。

水圧は人間の骨を数秒で砕くほど。


そこに降り立ったのは、若き潜水士のノア・グリーンだった。


彼はケインの後任として数ヶ月前にチームに加わったばかり。


だが任務に迷いはなかった。

彼の目は、冷たく揺らがぬ決意に満ちていた。


「信号、安定」


「ベルまでの距離、あと5メートル……3……1……接触!」


その瞬間、ハリバット艦内の全モニターが乱れた。


ソナー、通信、照明――すべてが一瞬、ブラックアウト。


直後に異常警報が鳴り響く。


「艦長、艦外から強い磁気干渉波を感知!通信が遮断されます!」


「ノアとの通信は!?」


「……切れました!」


船内は騒然となった。

誰もが、海底に広がる“見えない力”の存在に戦慄していた。


何かが、“意志”を持ってそこにある。

そして――それが我々に気づいた。


数分後、奇跡的に通信が回復した。


「……こちらグリーン、聞こえるか……」


かすれた声がスピーカーから漏れる。


「ノア!無事か!」


「……見たんだ、艦長……“あれ”は……人の手じゃない……」


「どういう意味だ?」


「構造が違う……材質も……これは、“海底施設”じゃない。」


「もっと……古くて……作ったのは人間じゃない。」


「これは……“残されていた”んだ」


通信は再び切れた。

その後、ノアの信号は完全に消えた。


マクニッシュは、顔を覆った。

ノアは戻らなかった。


数時間後、ハリバットはオホーツク海域から離脱し、日本海を経てグアムへ向かった。


その航海の間、艦内ではノアのことが一切語られなかった。


彼の記録も削除され、任務報告書には“事故死”の一文があるのみだった。


だがマクニッシュは、ノアの最後の言葉を忘れられなかった。


「これは、“残されていた”んだ」


冷戦という言葉では片付かない何か。

人間が持ち込んだものではない“音”と“構造”。


ソ連とアメリカの戦いのその背後で、さらに古い“戦い”が横たわっていたのかもしれない。


帰還後、ハリバットは任務終了と共に退役が決まった。


表向きには老朽化のためということになっていたが、実際は“それ”に触れてしまったからだと、マクニッシュは確信していた。


それでも、彼は一枚の録音テープを手元に残した。


ノアが最後に送ったパルス。

“鐘の音”ではなかった。


ゆっくりと、何かを叩くような音――それが10秒間、続いていた。


コン……コン……コン……


一度止まり、再び――


コン……コン……コン……


ハロルド・レヴィンはそのパターンを聞いて、こう呟いた。


「モールス信号じゃないか……“S”だ。3つの短いパルス。」


「……そしてまた“S”。」


SOS。


ノアの最後の叫びだったのか。

それとも、あの“もの”が、発していたのか。


マクニッシュは、録音されたその音を数秒聞き、再生を止めた。


そして、深く静かに言った。


「アイヴィー・ベル作戦――任務完了。」


「だが、まだ何も終わっていない」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイヴィー・ベル作戦 わんし @wansi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ