愛の静寂

ファントム

愛の静寂

健一の意識は、途切れかけのフィルムのように明滅していた。何日も続く空腹と、体を芯から蝕む冬の雨。彼のねぐらである新宿西口の地下通路の硬いコンクリートの上で、命の火は消えかけていた。現実の感覚はとうに麻痺し、アスファルトを叩く無数の雨粒の音だけが、かろうじて意識をこの世に繋ぎ止めている。


その冷たい音が、不意に懐かしい旋律へと変わった。ぼやけた視界の向こうに、人影が立つ。


「あなた、そんなところで寝ていたら風邪をひくわよ」


五年前に病で失ったはずの妻、美咲が、あの頃と少しも変わらない柔らかな笑顔で立っていた。濡れたアスファルトに反射するネオンの光が、彼女の輪郭を淡く彩っている。衰弱しきった健一の脳には、それが幻であるという認識すらなかった。ただ、愛する人が迎えに来てくれた。その事実だけが、彼の世界のすべてだった。


「美咲…」


声にならない声で名を呼ぶと、彼女は悪戯っぽく微笑んで手を差し伸べた。

「行きましょ。一番、素敵な場所へ」


健一は、まるで糸で引かれるように立ち上がった。その体はすでに彼の意志ではなく、ただ美しい思い出に導かれるままに動いている。汚れたコートも、道行く人々の視線も、何も感じない。彼の現実は、もう美咲と共にあった。


二人は、夜の東京を彷徨う。それは現実の散歩ではなく、健一の記憶の回廊を巡る旅だった。肩を寄せ合って歩いた並木道、初めて食事をした小さなレストラン、くだらないことで笑い合った映画館。彼の脳裏に、幸せだった日々の断片が次々と浮かび上がっては、雨の景色に溶けていく。


「僕だけが、あなたを守れると思っていたんだ」

健一が、夢うつつに呟く。

「でも、守れなかった…」


「ううん」

美咲の声が、優しく響く。

「あなたはいつだって、私を見ていてくれたわ。それで十分よ」


その言葉に、健一の心は温かい光で満たされた。無力感も罪悪感も、今は遠い。


やがて二人は、見覚えのある交差点にたどり着いた。そう、ここだ。この場所で、雨宿りをしていた彼女に、健一が傘を差し出したのが全ての始まりだった。記憶の中の景色が、今、目の前で完璧に再現される。初めて言葉を交わした時の、彼女の少し驚いたような、それでいて嬉しそうな顔。その瞬間の美しさが、彼の思い出の頂点だった。


「ねえ、覚えてる?」


美咲が、あの日のままの表情で振り返る。健一は、ただこくりと頷いた。もう何もいらなかった。この瞬間が永遠に続けばいい。


「もう二度と目覚めなくていいのよ」


彼女は囁き、その体を健一に預けた。忘れていた夢の続きを呼び覚ますように、甘い香りが彼を包み込む。美咲がゆっくりと顔を近づけてくる。その唇が、触れるか触れないかの距離で止まった。


「もういいのよ。このまま、二人だけの静寂に溶けていきましょう」


健一は、誘われるままにうっとりと目を閉じた。全てを委ね、彼女の唇を求めようと、無意識に一歩、前に踏み出した。そこが深夜の車道の真ん中であることなど、知る由もなかった。


その瞬間、大型トラックのヘッドライトが幻を白く焼き消し、世界を切り裂くような甲高いブレーキ音と、肉が潰れる鈍い音が響き渡った。


美しい幻想は、唐突に断ち切られた。アスファルトの上には、もう誰の目にも留まらない男が横たわっているだけだった。冷たい雨が、その亡骸から流れ出る赤を、静かに洗い流していく。

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