死へと向かう僕らの

不乱慈(ふらんじ)

死へと向かう僕らの

 蝉の声が遠く聞こえる。あの耳を突くような鳴き声は、いつからか心地よくさえ思えるようになっていた。夏の始まり、陽射しはどこまでも強い。

 学校の窓から差し込む光は、教室の床をオレンジ色に照らしている。


 僕は――窓際の席に座って外を眺めていた。大きな入道雲に、風に揺れる木々、校舎を後にする生徒たち。それを見ていると、何もかもが変わらないように思える。

 でも、それが嘘だってことを僕は知っている。否、知ってしまった


「すべては終わるんだ」


 僕はそれを知ってしまった。ある日、何の前触れもなく突然、頭の中にその感覚が押し寄せた。人は死ぬ。それも不可逆的なもので、避けられない絶対の運命だと。


 たまに、嫌な行事を仮病で休むことがある。例えばそう、ドッヂボールのクラスマッチなんかはやりたくない、だから嘘の言い訳で回避する。

 だけれど、死ぬという現象にそれは通じない。どれだけ言い訳をしても、体の不調を訴えたとしても、命の終わりは待ってくれない。容赦がないんだ。

 それに気づいてしまった瞬間から、日常のすべてが少しずつ色を失って、何もかもが意味のないものに見え始めた。いや、意味がないわけではない。


 ただ少し――切ないのだ。


 下校準備中の生徒たちは、何も知らないで笑い合っている。彼らにとって、今日も明日も永遠に続いていくものだろう。まるで無限に時間があるかのように。

 でも、そうじゃない。時間は有限だ。僕らは毎日、少しずつ確実に死へと近づいているんだ。それなのに、どうして誰もそれを気にしないんだろうか。


 そんな孤独が怖くなったとき、ふと、隣席の瑠璃が声をかけた。


「礼、帰らないの?」


 瑠璃は微笑んでいる。彼女もまた、命の終わりなんて気にしてないのだろう。

 それが普通だ、普通のことだ。頭のおかしい僕だけ、こんなことを気にしている。


 ――そこで昏い感覚が湧き上がって、彼女に訊いてみたくなった。


 避けられない死を意識したとき、僕と同じように怖がってくれるだろうか。


「なぁ、瑠璃はさ、死ぬことについて考えたことある?」

「え?」


 瑠璃は目を大きくして僕を見つめる。


「急に……どうしたの?」

「え……いやいや! 思い詰めているとかじゃない」


 そうか、これではまるで自殺相談じゃないか。

 少し笑って、僕は言葉を続ける。


「ふと思ったんだ。死んだら生き返れないし、きっと死後の世界なんてのもないと思う。死んだらずっと真っ暗で、それすらも認識できない。夢を見ずに眠っているときのようにね。ずっとずっと、何もない『無』ってものが続くんだろうと思う」


「……うん、私も天国とかは信じてないよ」

「同じだ。……でさ、それで死ぬのって、怖くない?」


 彼女はしばらく僕を見つめていた。

 やがて少し困ったような笑顔を見せる。


「怖い、と思う」

「だよね。でも僕たちは死ぬと言うことを、絶対に経験しなくちゃいけない。僕にはそれが、受け入れられないんだ。死にたくない、ずっと生きていたい……」


 僕の言葉に、彼女は少し暗い顔をして俯いた。

 ――しまった、と思った。何かこう、気味の悪いこと言ってしまったか。

 何か取り繕う言葉を考えていると、彼女は再び顔を上げて言った。


「考えたことなかった。でも、考えなくていいことだと思う」

「……は?」


 瑠璃の答えに、僕は思わず聞き返していた。

 それは到底受け入れがたい、乱暴な答えだったからだ。


「それって、現実逃避じゃないか」


 言葉が少し強すぎた。だが、口から出てしまったものは戻らない。

 ずるいと思ったから、そう言った。けれども瑠璃は怒りもしなかった。

 代わりに、彼女は少しだけ目を細めて、ゆったりとした声で言った。


「そうかもね。でも、死んだ後なんて、私たちの手の届かない所の話でしょ」

「まあ……。そうだな、そうだ」

「だったら、そんなこと一瞬でも考えるのは意味がないことだと思う」


 蝉の声が、一瞬だけ遠のいたように感じた。


「礼はさ、死ぬ瞬間が……怖いんだよね?」

「誰だってそうだろ」

「でも、礼が言った通り、どれだけ怖くっても死ぬんでしょ」


 彼女の言葉に、僕は返す言葉を失った。


「そのとき、あがいてもいいし、泣き喚いてもいい。受け入れられなくったって、勝手に死ぬんだから、そんなこと考えてても……疲れちゃうだけだと思うよ」


 彼女の声は、どこまでも優しくきこえた。

 諭すようでいて、押しつけがましくもない。

 ただ重たい心の芯に触れてくるようだった。


 僕は窓の外をもう一度見た。高くそびえていた入道雲は、少し形を崩していた。陽はまだ高いけれど、時間は確実に流れている。ゆっくりと、しかし止まることなく。


「……疲れる、か」


 繰り返していた。確かにそうかもしれない。

 考えはどこかで終わりを失って、ぐるぐると同じ場所を回るだけになる。そして気づいたときには、何一つ進めていない自分に絶望して、いまや疲れ切っていた。


 そんな堂々巡りの渦に連れ込もうとした彼女は、ただの一言で抜け出した。


 自分という人間が急に矮小わいしょうな存在に思えて、恥ずかしくなる。

 僕は校庭を見る振りをしながら、顔を背け続けた。


「礼は頭がいいから、疲れちゃうよね」

「煽るな。頭がいいってわけじゃない、ただの妄想癖だ」


 ――僕らは死に向かっている。着実に、時間の流れと共に。

 心臓が脈打てる回数にも、脳の細胞分裂にも限界がある。

 この世界だって、いつかは太陽に呑まれて無くなるかもしれない。


 それは僕ひとりで、どうにかできる問題ではなくて……。


 だからこそ仕方がない。ようやく決心がついた気持ちだった。

 溜め息と共に肩の力を抜いて、机に向かっていた体を起こす。


「帰るよ、ありがとう」

「うん……また明日」


「ああ。な」

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死へと向かう僕らの 不乱慈(ふらんじ) @frangi

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