第33話 覚悟

 扉に手をかけて、息を整えた。自然と心音が高まってくる。この扉を開ければ、もうこれまでのように桜絵とは接することはできない――。かもしれないではなくて、確信だ。それでもオレは――。グッと拳を固めた。

 今、室内に誰もいないのは、確認済みだ。ノックを二回する。はーい、という声が、扉一枚隔てた分、くぐもって返ってきた。

「……オレだけど、入るよ」

 言いながら、引き戸をゆっくり開く。自分が一晩入院した部屋よりも、明らかに広い室内だった。開きっぱなしのカーテンからは、たっぷりの光が射し込んでいる。手前に設えられたベッドの上に、上半身を起こした桜絵みくがいた。お馴染みのポニーテールをぴょこりと動かせて、

「親ちゃん!」

 声を弾ませる。その様に、思わず頬がゆるんだ。

「思ったよりも、元気そうだな。これ……見舞いにと思ったが、食いもんはもういらなかったか……」

 ベッドの横にある白いテーブルは、物でいっぱいだった。オレが今日用意してきた〈和富〉の紙袋もいくつかあるし、和富のライバル、〈コルケ・トルテ〉の物もあった。

 菓子や食料が入っていそうな袋の隣に、これまた山と積まれたコミック。その隣には、見覚えのあるボストンバッグがあった。おそらく、外泊用品が入っているのだろう。窓際に置かれた簡易冷蔵庫の中にも、きっと飲料や食料は詰まっているだろうことが、容易に予想できた。

 桜絵は目を細めると、口角をあげて、自分の隣に座っているくまの一匹を抱く。

「ううん。ありがとう。食べきれなかったら、持っても帰れるし、うれしいよ!」

 ベッドの上には、他にも彼女の母親が持ってきたであろうぬいぐるみが溢れていて、もはや自室の部屋と化している。

 ここの患者は愛されている――。

 誰もがそう疑わない部屋だった。

「今日で二週間だが、気分はどうだ?」

 冷蔵庫と対面に置かれているテレビの前には、丸椅子が二つ並んでいた。その内の一つをベッドに引き寄せると、オレはそう声をかける。まずは、当たり障りのない会話から――なんて思っているが、桜絵みくは人気者だ。いつ次の見舞い客が来るともしれない。早く切り出した方がいい。

 どくんどくん、と心臓の音が頭の中にまで響いてきた。

「うん。もうすっかりへーき! なんだけど、熱が少しあるんだよねぇ。だから、まだ退院はダメって言われてる……。親ちゃんも、通院してるんだよね。まつりから聞いた。経過観察だっけ? 大丈夫そ?」

 そう言うと、くまを自分の前に掲げ、手を左右に動かした。

「オレか? ああ、オレはもう大丈夫だよ。二日前に後遺症もないって認められた。その……ごめんな」

「ほ?! なんで、謝るの?」

 くまと桜絵とが、同時に首を傾げる。

「なんでって、ちゃんと言ってなかったな、と思ったからだよ……。あの時、お前がオレを庇ってくれたから、オレは死なずに済んだ。だけど、お前は大怪我を負って、今も退院出来ないでいる。だから、改めて、ほんとにごめんと思って……」

 突如、白いものがオレの眼前に現れる。かめだった。正確には、かめのぬいぐるみの腹だが。高速で目を瞬く。

『ありがとう』

 かめの腹がしゃべる。すぐに桜絵が顔をひょこりと出した。

「親ちゃん、そういうときは、ごめんじゃなくて、ありがとうでいいんだよ」

 そう言い切ると、かめに向かって「ねー」と言う。いつの間にかくまも加わり「ねー」が増えた。

 ふっと詰めていた息が吐き出される。

「そうだな……ありがとう……」

「ん。よろしい!」

 満足そうに微笑む姿に、胸の音が復活する。くそぅ。何から切り出せばいい。何から――。

「……梓ちゃん、大丈夫だったかな」

 降り出した雨滴のような声だった。くまを胸に抱きながら、表情を曇らせる。

 自分がこんな状態になっても、相手を想える――。

 いや、そうだよな。は、そういう人だ。

 オレは、自分の言いたいことを一旦脇に置き、大庭梓に関する顛末を話す。

「大庭は――」

 大庭はあの後、自首した。校内で起こった名指しの誹謗中傷事件と、それに伴う殺人未遂事件――の責任をとるために。

 オレもこれは後から聞いた話だが、どうやら救急車と同時に警察にも連絡をしたらしく、次の日にはもう学校には来なくなったそうだ。「迷惑をかけた人たちには、心から申し訳ないことをしたと思っている」と話していると聞いたので、精神状態は比較的安定してきたのだろう。

「……そっか。梓ちゃん、少しでも、自分を責めなくなっていると、いいね……」

 話を聞き終えた桜絵が、顔を伏せる。オレも俯いた。

「……ああ」

 大庭が味わった悲しみと屈辱は、永遠に消えないし、蛮行の罪もまた、絶対に消えることはない。それでも、桜絵のことは「殺さずに済んだ」と、思うことが出来ていたら。「助けることができた」と考えられていたら――。そう、願わずにはいられない。

 血を分けた存在を亡くす――。それは、どんなに苦しいことだろうか。兄弟のいないオレには、想像がつかない。

「……お前は、どうだった?」

 そんなことを考えていたからか、言葉は自然と口をついて出た。はっと顔を上げる。

 しまった――。

 暴れ出す心音を悟られないよう、少し顔を背ける。直前、桜絵が目を丸くしたのが見えた。

「……えと、それは……りっちゃんのときの、こと?」

 少し戸惑いながら、だけど確実にその名を口にする。心音が誤魔化しきれなくなる。固まっているオレを見やると、ふっと微笑み、

「……辛かったよ」

 針が落ちるような、僅かな声だった。

「すっごく辛かった……。でも、笑ってなきゃいけないって、思ったんだ」

 ぎゅうっと、胸の奥に忘れようと努力した――だけど、忘れられるわけのなかった傷みが、蘇る。心音がどんどん速くなる。

「……みんなを心配させたくなかったし、色んな人が、気を遣ってくれているのが分かったし、何よりも、ママを悲しませたくなかったしね」

 いつもと変わらない笑顔を見せる。

 を――。

 眉間に、ゆっくりと皺が寄っていくのが、自分でも分かった。

「それに、あたしはりっちゃんの双子の妹だから。だからりっちゃんは、いつだって、ここに、あたしの胸の中にはいるから。あたしが、悲しんでたら、りっちゃんだって、苦しむ。あたしが笑わなきゃ、りっちゃんが悲しむ。だからもう泣かないでいようって、そう決めたの。だってほら、いっつも元気なあたしがうじうじしてたらさ、りっちゃんだって、安心してお空で眠れな「お子様ランチ」

 ほとんど無意識に、遮っていた。

 桜絵が半開きの口で動きを止める。握りしめた拳が汗ばんでくる。耐え切れずに、顔を伏せた。

 これから言おうとしていることが、今更すぎるなんて、そんなもの分かっている。それでも、言わなければ。

 あの日、から預かった言葉を伝えなければ。その覚悟はしてきたはずだろう? 

 自分に言い聞かせ――顔を上げる。

「ほ? お子様、らんち?」

 桜絵が黒黒とした瞳を瞬く。なんのこと? と書かれているかのような顔に、オレの表情は再び険しくなる。

「どしたの? 食べたいの?」

「あの日……止血出来るものが何もなくてさ、とっさにお前のハンカチを拝借したんだ。その時、間から落ちたんだよ」

 なおも、不思議そうな顔をする桜絵に、

「小さなジップロックの中に入っていた……お子様ランチの旗が」

 息を整えようと肩を持ち上げる。酸素が足りない。

「……へぇ。そうなんだ」

 心なしか声が小さくなった気がした。

 オレは大きく息を吸い込んで、吐き出す。顔を背けたい気持ちを誤魔化すかのように、声は少し震えた。

「大庭の話を聞いたあと、泣いていたお前に違和感はあった……だけど、そんなはずはないと思って、自分に言い聞かせたんだ。でも――」

 真正面から見る顔に、微かな動揺があった。一度、唇を噛みしめる。

「お前のポケットから出てきたハンカチには、確かに、お子様ランチの旗が挟んであったんだよ。大事に、ジップロックに入れられた……アメリカ国旗の旗が……」

 磨き抜かれた黒御影石のような目をまっすぐに見つめ、心の中で続きを口にする。

 ――それが何を示すのかは、たぶんこの世で、オレときみにしか分からないはずだ――。

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