壁を抜ける

眞山大知

第1話

 仙台センダイの色は鈍色だ。特に死の灰フォールアウトの混じる雪が降る日は景色が鈍色一色に染まる。――雪はすべてに等しく降りそそいだ。太平洋沿いの平野に幾重にも連なる、打ち捨てられた塹壕とバリケードに。空爆で破壊された廃墟群に。広大な水田を占領軍が潰し設営した空軍基地と、滑走路から飛び立つF22戦闘機に。連邦自治区のネオゴシック様式の政府庁舎と、屋上にたなびく星条旗に。そして、大企業ハゲタカどものこしらえた、鉛の地金のような外貌の公共団地プロジェクトに。啓嗣ケイシはこの故郷ふるさとの冬が嫌いだった。

 なにもかも戦争のせいだった。戦争に負けたこの国は分割され、東北も分割された。仙台を貫く新幹線の高架は、占領軍が下部をコンクリートで塞ぎ、街を分断する壁にした。

 鈍色の壁のせいで仙台はさらに鈍色に染められた。



 雀でなくて銃が鳴いた。

 早朝、旧仙台駅東口・宮城野大通りミヤギノ・アベニューの戦傷治療者支援公共団地プロジェクト。寝起きの啓嗣は二日酔いでズキズキ痛む頭を抑え、四階の、コンクリート打ちっぱなしの部屋の窓を開けた。外にはめられた格子の間から、粉雪と冷気が部屋に流れこんできた。

 窓の外に公共団地プロジェクトが密集し、それらの隙間から、高さ十二メートルの壁と検問所――旧仙台駅の駅舎をそのまま流用した、茶色がかった地上四階建て――が顔を覗かせている。

 壁の真上には監視塔たちが規則的に配置され、探照灯が地面を舐めるように照らし、同時に警備兵はM4カービンを下に向け、野太い銃声を鳴らさせていた。

 監視塔につけられた大きいスピーカーからサイレンがけたたましく響きだし、それに続き誰かの断末魔が重なった。壁を越えようとして殺されたのだ。検問所は滅多に通行を許可せず、壁を超えるには非合法的な手段しかなかった。

 啓嗣はキャメルのメンソール入りを咥えて火を点けた。

 煙が風にたなびくと、アッシュグレイのウルフカットも揺れた。啓嗣は鈍色の壁の下へ醒めた視線を向ける。目を細めてよく見ると壁のたもとに赤い肉が転がっていた。壁の鈍色と肉の赤とのコントラストを観ながら、啓嗣はキャメルをひと口吸った。唇を煙草から離すと虚無を凝縮させた鈍色の故郷へつぶやいた。

 ――ざまあみろ。

 壁を超そうとする故郷の人間に恨みなんてないが、自分たちをないがしろにする人間がひとりでも減ればいい。お前らも電子密林で戦えばいいのにと啓嗣はいらだった。

 すべて戦争が悪い。八年前の春の日曜日、突然トレンド欄のハッシュタグが開戦の字で埋めつくされ、スマホの画面のなかの官房長官は強張った面持ちで宣戦布告を発表した。戦争の起きる気配は中学三年生だった啓嗣もひしひしと感じていて、不思議と混乱はしなかった。

 夏の終わり、全校生徒が校庭に集められた。給食で残したままのミルメーク入りの牛乳を気にかけて啓嗣が歩くと、朝礼台の傍らに、保護者たちが見たこともない服に身をつつみ並んでいた。啓嗣の父親も硬い表情でそこに立っていた――父の最後の記憶だった。

 秋に特別措置法で可決。翌日から卒業式まで授業は消滅して軍事教練で埋められた。体力錬成。射撃訓練。電子密林への精神転送コンセントレーション訓練。卒業生たちが海上で、陸上で、電子密林で飛翔するたび、全校生徒が校庭で八九式五・五六ミリ小銃を掲げ、黙祷した。

 軍事教練は卒業式の前日まで続き、卒業式で啓嗣たちは校長から卒業証書とともに軍の辞令を授与された。啓嗣の配属先は電子軍の歩兵部隊だった。十五歳の啓嗣は、辞令を見た瞬間に、二十歳まで生き伸びるという淡い希望をすぐさま絶った。

 電子密林――科学文明の基底に生い茂る、網路ネットワークの密林。人類の欲望と技術の造りだした、無限の空間と永遠の静寂。無数の通信コレスポンデンスの蔓が生えた森林には乱雑に光るノイズの雨が常時降りそそぎ、密林に埋没するように、国家や技術巨頭ビッグテックの、白色に輝く、神殿サーバーと、それを守るセキュリティサービスの兵士、潜伏する民兵ハッカーと敵対国の兵士。すべてがじっと息を潜めて森に溶け混じっていた。

 十六歳の誕生日、啓嗣の部隊はよりによって激戦地のアメリカ電子密林へ送られた。

 空爆で揺れる作戦棟。啓嗣はほかの特別少年兵とともに集められ、大人たちに有無を言わさず、脳と網路ネットワークを接続された。精神転送コンセントレーションが完了すると、電子輸送船に搭乗する。啓嗣はほかの特別少年兵たちと一緒に、遺言を残して送付した。

 海底ケーブルはとうの昔に切断されていた。啓嗣たちは人工衛星を経由して太平洋を超えた。テキサス州の電子密林へ降り、神殿サーバーを破壊するため敵兵と戦った――電子世界で飛翔すれば、当然、物理世界でも飛翔する。

 啓嗣の部隊は奇襲を受けて殲滅。電子歩兵の同期で生き残ったのは、片手で数えられるほどで、啓嗣は高度精神戦傷病棟に入院し、硬いベッドのうえで敗戦を知った。啓嗣の直感は外れて、生き延びてしまった。

 死ねば英霊、生きたら国辱。電子兵崩れに生きる価値はなかった。故郷の人間は特に啓嗣たち電子兵を死に損ないと見下した。就職面接は落ちつづけ、復活の機会をつかめず、貧困層へまっ逆さまになり、市の担当者からこの公共団地プロジェクトを紹介された。

 啓嗣が煙草を吸い終わって窓を閉めると、手元の網路突触ネットシナプスから通知音がした。戦前まではスマートフォンと呼ばれていたそれは、すでに電話なんて機能は消滅していたし、画面を見なくても手に埋めたチップをかざせば、脳内で想像できることならなんでもできる。

 電子密林上で起きる犯罪は取り締まる警察も裁く法律も存在しえない。そもそも地球上に分散する網路ネットワークに国境線など引けず、平常時の電子密林へ一般人が直接立ち入ることは国際条約で禁止され、技術巨頭ビッグテックどものつくった網路突触ネットシナプスがなければいけない。

 画面を見ずとも手のひらからの信号が脳に送られる。通知が二件入っていた。啓嗣は「朝っぱらから買うなんてどんな中毒者ジャンキーだよ」と悪態をついて、そのまま脳内でディスコードを開くことを想起した。

 承認欲求に脳を支配されたティーンエイジャーが、お母様のクレジットカードをこっそり盗んで買い、モンスターかドクターペッパーを飲んでオンラインゲームをする。世の中を舐め腐った子どもへチートツールを売るのは屈辱でしかったが、啓嗣が糊口をしのぐ手段はこれぐらいしかなかった。

 軍事教練で教官から怒鳴られ覚えた電子手榴弾の製造方法よりチートツールのそれははるかに簡単で、電子兵崩れにとってチートツール販売は手っ取り早いビジネスだった。――ゲーム内のコインを異常増殖させたり、目をつぶっても百発百中の精度でヘッドショットをさせたり、ありえない移動速度でフィールドを駆け巡ったりすることができる。

 最近の流行りはウォールハックだった。ゲーム内の壁やオブジェクトを透過させ、本来見えるはずのない敵の位置や情報を表示させる。奇襲が好きな卑怯なティーンエイジャ―に人気。だが啓嗣はウォールハックが好きでなかった。――啓嗣のいた部隊は野営地で寝るとき、電子障壁を使って外部からの識別を遮断していた。アメリカ電子軍はその障壁をいともたやすくウォールハックし、啓嗣たちの野営地へ、精神侵入型自動小銃の暴力的な雨を叩きつけた。

 今回の注文も二件ともウォールハックだった。啓嗣は冷たい文体で形式的なメッセージを返すと、すぐに五千ドルが入金されたのを感知。ダウンロード先のリンクを送付。これで二日間の治療費を稼げた。画面を消す。啓嗣は部屋のコンクリートの天井を仰いた。

 負けたら自己責任。ただ生きることを許されず、誰も助けてくれない。

 治療プログラムの実施は昼からで午前中は何もやることがない。啓嗣は、ひびわれた鈍色のコンクリートの床をのそのそと歩き、ベッドへ向かった。

 ベッドは柔らかかった。絶対に高度精神戦傷病棟の簡素で硬い病床を思い出さないよう担当者が配慮してくれた。

 そのベッドに飛びこもうとした瞬間、啓嗣は目を疑った。――女が寝ていた。素っ裸の女だった。

 女はうつぶせで寝っ転がりながらマイクロソフトの網路突触遊技端末ネットシナプスゲームデバイスを操作していた。端末の画面のなかは戦場だった。素早く正確なエイム。射撃。その繰り返しがテンポよく繰り返された。啓嗣のいた歩兵部隊の誰よりも銃の扱いに慣れていた。表示されたアカウント名は、二月永劫フェブラリー・エヴァーラスティング

 啓嗣はほっと安堵して女に声をかけた。

「どこのビッチかと思ったら久遠クオンかよ。一声ぐらい声かけてくれよ」

「妹に向かってなによ、その言いかたは」

 久遠――二月永劫――は返事すると端末から手を離し、ベッドから起きる。細身の肉体。アッシュグレイのボブ。淡いグレーの瞳。丸縁のメガネ。久遠の降り立った床にはアメリカ電子軍募集司令部eスポーツ部隊の制服と長いブーツが転がっていた。

「妹じゃなかったらいまごろ護身撹乱銃を撃っていたぞ」

「わたしが大会で優勝したからって勝手に酒を飲んで、わたしを泊まらせたのはお兄ちゃんでしょ。特別休暇が出ていたからよかったけどね」

 久遠は床に落ちた服を拾い上げて、いそいそと着替えはじめた。

 啓嗣の頭がさらにズキズキと傷んだ。合成擬似酒で二日酔いするほど飲むなんて久しぶりだった。煙草がまた欲しくなった。地獄のように熱いシャワーを浴びる前に。

「早く帰れよ。昼前には宿舎にいなきゃいけないんだろ? ああ、煙草が欲しい」

 啓嗣がつぶやくと久遠がからかった。

論理煙草アルゴリズム・シグズを吸わないなんておっくれってるー」

「うるせえな。煙は物理煙を肺にがーって入れるに限る。さっさと宿舎に帰れ」

 そこから二人でくだらない言い合いがはじまった。お互いの網路突触ネットシナプスのメーカーでも争った。啓嗣はグーグル派、久遠はアップル派だった。子どもの喧嘩のような言い合いの最中でも、窓の外からはまだM4カービンの銃声が響く。

 結局は、啓嗣も久遠も、この荒んだ仙台に慣れてしまっていた。

「もう、俺は物理煙草を吸い続けるからな」

 啓嗣は妙にムキになって、窓を再び開けた。銃声、閃光。朝日が壁と検問所を照らす。啓嗣は網路突触ネットシナプスを持つと、ふとカメラを壁の方角へ向けた。カメラをズームさせる。脳裏には目で見ている光景と並行して、カメラが見ている映像も流れる。監視塔のなかで顔を真っ赤にさせて射撃する警備兵たち。検問所の窓越しに見える内部は、生物がいないかのようになにも動かない。壁の前には射殺された人間の腸と赤い肉塊と白い骨との混合物が、壁面と地面にへばりついていた。

 壁が建設されたのは住人の保護のためだった。戦後、東北はアメリカとロシアに分割されたが、両国とも互いの国と直に接することを嫌がり、ある案が策定された。山形県、秋田県はロシアが支配。青森県、岩手県、宮城県、福島県のうち、東北新幹線の線路より東側はアメリカが支配し、西側は米露間の緩衝地帯とした。両国は緩衝地帯に軍事拠点を置かないと信じさせるため、その広大な土地から住民を追い出し、核の炎で徹底的に焼き尽くし、文明のあった形跡を地上から根こそぎ消し去った。

 このアメリカ合衆国日本連邦自治区東北郡トウホク・カウンティ仙台センダイ市ではこんな噂話が流れていた。壁の向こうにあるはずのない街が存在し、死んだ人間が生きて生活しているという話だ。

 噂を否定するため占領軍が発表した写真では、壁の向こう側には寒々しい原野が広がっているだけで、当然街なんてあるわけがなかった。

 あんな噂なんて信じてしまって。啓嗣は心のなかで死体を馬鹿にし、二本目のキャメルを口に咥えた。

 ――その瞬間、啓嗣の脳裏は、のを感知した。

「は?」

 啓嗣は唖然とした。カメラをズームすると、目の前で信じられないことが起きた。

 壁から何かがすり抜けてきたのだ。

 それは手だった。腕だった。足も出てきた。胴体も出た。洒落たスーツを着ていた。

 そして全身が出てきた。男はよたよたとよろめくが倒れなかった。顔を見た瞬間、啓嗣は息を飲んだ。男は啓嗣と久遠によく似ていた。啓嗣は思わず口が開き、キャメルは落ちていった。

 紛れもなく男は啓嗣の父だった。中学の校庭で出征を見送ってから、一度も見たことがなく、中国の電子密林のなかで飛翔したはずの父がたしかにそこにいた。

 男――啓嗣の父は、驚いた顔であたりをキョロキョロと見渡す。監視塔からも、検問所の入口に立つ警備兵も、誰も気づかない。

 男はすぐに壁のなかへ、身を躍らせるように体をねじこんだ。刹那、その姿はあっという間に壁のなかに、吸いこまれるように消えていった。

 啓嗣は言葉が出ず、網路突触ネットシナプスも床に落としてしまった。

「どうしたのお兄ちゃん?」

 久遠が駆け寄ってくる。

 久遠は啓嗣の網路突触ネットシナプスを持つと、共有機能で情報を吸いだしたのだろう、目を見開いて顔が一気に青ざめ、かすかな声でつぶやいた。

「なんで――?」



 雪は昼すぎになっても止まず、分厚い雪雲のせいで街は朝よりも暗くなった。

 啓嗣を乗せた送迎用のバン・フォードのトランジットは、仙台平野の東端、海辺をただまっすぐ南へ走る。啓嗣はバンの右後方に座っていた。治療プログラムの職業訓練を受けるため、仙台港すぐそば、アマゾンのフルフィルメントセンターで作業を終えたところで、これから啓嗣の住む東口公共団地プロジェクト群へと戻る。

 外は枯れ草の覆う原野が広がっていて、ところどころ、空爆でできたすり鉢状の穴が見える。空爆を受けて崩壊した廃墟は、枯れたつたが絡まっている。その寒々しい原野の西の果てには小さいながらも文明が見えた。郡庁舎、空軍基地、占領民の住む、白くて清潔な居住地、啓嗣たち被占領民の詰めこまれた公共団地プロジェクト。そしてあの忌々しい、やたら大きく見える壁がそれらのいちばん奥にそびえる。

 網路突触ネットシナプスが小刻みに震えだした。すぐさま啓嗣が握ると脳内の濃く黒い意識へ明瞭なイメージが表象された。

 儚げな顔つきの少年がパーカーを着て、ポケットに手を突っこんでいた。

 元戦友の小野輪廻オノリンネだった。啓嗣と同じ部隊にいて、電子密林でともに負傷。高度精神戦傷病棟では隣同士のベッドだった。啓嗣は二年で退院できたが、小野は重症で退院できる見込みがない。すでに肉体は動かなくなり、網路突触ネットシナプス越しでなけば会えない。

 小野は病が治癒しないかぎり十六歳の姿を永遠に留めるだろう。

「なんだ、また仕事の依頼か?」

 啓嗣は小野に聞いた。もちろん現実では口を一切動かさずに。でないと、隣のシートに座るジジイが嫌そうな顔をして睨みつけるだろう。

 小野の姿が突然、細切りに分断され歪んだ。グリッジが起きた。小野の真っ白な髪と皮膚はRGBのどぎつい三色に汚染させられたが、またすぐに元の姿に戻った。

「いいや。この前の空軍基地のクラッキングでだいぶ体をやられた。傷が治れば依頼するよ。しかし今日はお前の姿が妙にデカく見える」

 小野は口を微動だに動かさずに返事した。

 小野はポケットから両手を出した。右手は戦時中のモデルの網路突触ネットシナプスが握られていた。――小野は啓嗣のいる現実世界が網路ネットワークだと思いこんでいる。だから網路ネットワーク上の存在なのに、仮想的な網路突触ネットシナプスを使っていつも啓嗣と通信している。

「じゃあなんで呼び出した」

「気になることがあったんだ」

 小野は左手の人差し指で首をかいた。あまり出っ張りのない喉仏のあたりには、六角形のタトゥーが彫られていた。六角形の頂点には、天使、人、武人、獣、妖鬼、悪魔の禍々しい絵があり、その六角形の中心には「?」とだけあった。

 小野の背後の暗闇にニュースサイトが展開された。今朝、仙台で発生したのニュースが流れた。東口公共団地プロジェクトの複数の住人が朝方の銃撃を網路突触ネットシナプスのカメラで撮影したところ、壁を人が通り抜けてきた様子が撮影され、動画サイトやSNSに動画が多数投稿された。昼前に連邦自治区の行政府と通信会社は網路突触ネットシナプスの誤作動で起きたカメラ機能の不具合だと断定。すぐに公共団地プロジェクトの住人たちへ修正パッチを送ったと発表した。

 電子軍広報部の報道官は記者に向かって「本来ならば対策費を公共団地プロジェクトの利用者に請求するところだ。敗北者を甘やかすほど我々はナイーブでない」と発言した。

 中年男性の報道官の横には、制服姿の久遠が立っていた。――久遠の大会優勝の会見があり、その直後に、記者がこの問題を質問してきたのだ。久遠は報道官が発言し終えると、睨みつけるような険しい視線を送った。

「軍の司令部も本音がうっかり出たんだろうな」と啓嗣はつぶやいた。

 マスコミは軍の発言をしばらくつっつくだろう。ただでさえ、ルサンチマンが溜まっている。軍が何かを隠していることはわかっている。

「お前のところからも見えたか」

 小野が聞く。

「ああ」

 啓嗣は少しためらったあと、言葉を続けた。

「死んだはずの親父が、壁から出てきた」

「じゃあ、あの噂は本当ってことか? 壁の向こうの街と、死んだはずの人間。まさか壁をすり抜けてくるとはね」

「物理的にありえないだろ。量子力学のトンネル効果じゃあるまいし、あんな分厚い壁をどうやってすり抜けてくるんだよ」

 啓嗣は今朝見たことを治療プログラムの担当者へ一言も言わなかった。言ったところで、投与される電子精神安定剤の量が増えるだけだ。

 啓嗣の乗るバスは交差点に侵入して、右折した。その交差点を曲がらす、まっすぐ行けば啓嗣の生まれた荒井地区にたどり着く。そこが生まれた場所だということは頭で理解しているだけで、心では納得していなかった。

「今日も思い出せそうにないか?」

 小野が啓嗣に聞いた。啓嗣はいつもどおりの解答を返した。

「ああ、全然思い出せない」

 啓嗣は荒井で生まれ、中学校を卒業して電子軍の宿舎に出頭したその日まで暮らしていた。なのに、啓嗣には荒井の記憶がほとんど存在しない。父の記憶は治療プログラムを受けてようやく思い出せたものだったし、戦争以前の記憶がまったく欠落していた。



 電子密林症――電子戦から帰還した戦傷病者の患う、特殊な複雑性PTSDである。長期間にわたる精神転送コンセントレーションのせいで、自己の精神と肉体が剥離し、その結果、自己が認識するあらゆる境界線が脆弱になる。啓嗣の場合は自分の過去・現在・未来の境界線が弱く、医師の見解では過去の記憶が未来のものと誤認しているため昔を思い出せない。重度になると小野のように現実世界と網路ネットワークの境界線を脳が間違えて設定してしまう。

 もし戦争で勝ったら電子密林症の治療を日本政府がしてくれたのだろうが、配線で国家自体が消滅してしまったため、啓嗣の治療はアメリカの医療制度に基づき実施される。つまり医療費が天文学的数字になる。チートツールの販売額は一年で四十五万ドルだがその金は治療プログラムにほとんどが溶けた。ツールを使うくそったれたティーンエイジャーと同じ歳のころ、啓嗣は国のために戦っていた。戦後、啓嗣は戦争の苦しみを癒すため、ティーンエイジャーへツールを売る!

 ――数時間前は虚ろな巨大倉庫にいた。公共団地プロジェクトのそれと変わらない灰色の床からは密林のように巨大な棚たちが生えて、その棚たちの根本あるサーバールームで、啓嗣たちグリーンバッジをつけた治療者がコクーンに投入させられていた。

 職業訓練も兼ねた治療プログラム。治療者たちは脳を計算サーバーにして働かせていた。電子密林症の治療には、人間の精神構造の枠を固定化する方法が取られる。すなわち単純作業を膨大に繰り返させることで、治療者のなかに精神上の境界線、つまり壁をつくりあげ、徹底的に叩き込ませる。この治療はあくまで労働でない。だから啓嗣たちは最低賃金を下回る給料で、アマゾンの仕事をこなしている。

 今日のタスクは中国の技術極客ギークどもが生み出した美少女ゲームのローンチ対応。配信からたった四日間で一千万ダウンロードを超える。また配信開始時に百二十ヶ国に一斉配信。技術極客の大博打に啓嗣の脳が使われたのだ。全世界への一斉ローンチを実現し、また、計算負荷に耐えうるインフラを短期的に構築せねばならない。

 コクーンのなかで啓嗣は目を瞑る。瞼の裏に見えるのは電子密林の鳥瞰図であった。アメーバのように伸びる網路ネットワークの足。その足を、極彩色のパルスが星の回転のように循環していて、ときどきノイズの細やかな信号が流星のように現れて消える――。コクーンのなかに警告音が響く。啓嗣は歯を食いしばる。深圳のフルフィルメントセンターの負荷が急上昇し応援要請が届いた。

 一瞬にして瞼の裏が緑に染まった。啓嗣の意識は無数のフローチャートと、それらを彩る美少女に混濁させられた――売脳。脳内を演算機械として流用する。普通は自分の脳をサーバーにして貸し出すのに訓練が必要だが、電子兵崩れはすでに精神転送コンセントレーションで経験を積んできたので人気がある。

 慣れない人間なら意識をすべて持っていかれるが、啓嗣は自分で訓練した結果、左脳の八分の五の領域だけを貸し出せる。残りの右脳と八分の三の左脳を使い、啓嗣はアマゾンの電子密林を探索していた。

 啓嗣は左目を開ける。コクーンのなかは緑色だった。左脳の八分の三の領域が無事に仕事を成している証拠だ。仕事の処理が遅いと赤く点灯し、一定時間赤になると再教育。二時間の作業時間の間、緑の割合が九十五パーセント以上を保ち続けるとボーナスがもらえる。だが、啓嗣にとってボーナスなどどうでもいい。啓嗣が欲しいもの――フルフィルメントセンターの弱点。

 ハッキングできれば、センターをぶっこわしたい。ハッキングして銃殺されるようなヤバいものだったら、近寄らなければいい。情報を仲間に流して、そいつにクラックさせる。

 幸いなことに職業訓練者はパート社員と違って荷物の持ちこみが許されている。啓嗣はポケットからスマホを取りだした。

「よう、どうだい」

 仲間の小野の声が脳内に響く。

「もう少し待ってくれ」

 電子密林の奥を進む。ユーザーの個人情報が守られた神殿を探しているがなにも見つからない。扉に手をかける。エントロピーの熱が瞬時に広がる。

 繭が赤になる。脳を切り替える。神殿が目の前から消え、美少女との登校シーンに映る。繭はすぐ緑になった。

「せめて中に何があるかわかれば……」

 小野の寂しそうな声。

「ウォールハックしてみるか」

 啓嗣はうなずいた。

「明日な」

 たちまち終業のベルが鳴る。



 バスは旧国道四号線との交差点を直進する。ここまではジョージ・W・ブッシュ通りで、ここから先はドナルド・トランプ通り。片道四車線の大きな道路だった。敗戦直後、この周辺の通りの脇には、コナカ、洋服の青山、東京靴流通センター、ブックオフ、パチンコ屋、業務スーパー、そして数え切れないほどのくすんだ色のオフィスビルの廃墟が立ち並んでいたが、占領軍があっという間に撤去し、もともと名前のなかった通りに歴代大統領の名前をつけていた。

 通りの右、旧陸上自衛隊仙台駐屯地の敷地は、すべてアメリカ合衆国日本連邦自治区東北郡トウホク・カウンティの政府庁舎になっている。外観はネオ・バロック様式で、中央のドームの先端には星条旗が掲げられていた、連邦自治区は合衆国の一部であるが、連邦を構成する州でないので連邦議会に議員を送れず。アメリカの市民権を持つ住民も大統領選挙の投票権がない。知事は公選ではなく連邦政府によって任命される。植民地と全く変わらなかった。

 負けたら尊厳を根こそぎ奪われる。才能があって努力をしても這い上がれない。久遠は才能があったが、占領地の住民との友好を世界に見せようだなんていう、軍の偽善に乗っかることでしか生きることができなかった。久遠の本来の業務は、軍へ募集する人材の確保だが、課せられたノルマを絶対に達成しなかった。表向きはeスポーツの大会で忙しいという理由。久遠はかつて、啓嗣に「占領者に若者を貢ぐ仕事なんて嫌だ」と言った。だが、啓嗣としては、もっと仕事に邁進してほしかった。搾取される側で一生社会の底辺で這いつくばるぐらいなら、搾取する側に回ったほうが幸福な人生を送れる。

 啓嗣はトランジットの硬くて跳ねるサスペンションの振動に揺さぶられながら、今朝見た光景を脳内で反芻していた。――父は死んだはずだ。父はグアムの空軍基地の電子密林で部隊ごと玉砕した。戦争の末期になると嘘だらけの発表しかされなかったが、死亡通知だけはまったく驚くほどの正確性を誇っていた。絶対に嘘はないはずだった。

 だったら父は生きていたのか? まったくの謎だ。それに謎といえば、壁もそうだった。朝、気が動転しながら久遠とともに壁の前に行ったが、国境警備兵がだれも発砲してこなかった。

「なあ、今度はどこを攻めようか。検問所とかどうだ?」

 小野の誘いに啓嗣は即答して断った。

「嫌だね。あそこに攻めたら一発で飛翔されるぞ。久遠も死んでしまう。金持ちだったら、話は別なんだろうけど」

 金持ちたちはアメリカに媚びる。金も人脈もない啓嗣のような貧困層は地べたを這いつくばって、虫のように蠢き、死んでも誰にも気づかれない。人生は自己責任。誰も助けてくれない。誰も助けてくれない冷酷な世界に復讐しても罪は無いだろう。

「つまんねえヤツだな」と言うと小野の姿はたちまち啓嗣の脳裏から消え去った。

 やがて壁の近くを通る。バスは信号で停まった。検問所を囲むように、検察の毒々しい緑青のような車が止まっていた。その車から、若者たちが列をなしてでてきた。みな、結束バンドをつけられる。啓嗣は彼らのなかにぽつりぽつりと見知った顔があるのに気づいた。みな、同業者だった。啓嗣と小野は参加しなかったが、郡庁所への不正アクセスで逮捕された連中だった。

 啓嗣はすぐ顔を背けた。あれは追放刑だ。この連邦自治区に死刑制度はないが、代わりに、懲役十年以上の受刑者は追放刑に処される。壁の外の、街もなにもかも消された原野に解き放たれ、二度と帰れない。壁を越して戻ろうとする人間はたちまち銃殺される。

 啓嗣の目に、ふと、一人の少女の顔が目に入った。――眼の前の光景が信じられなかった。少女は五年前、啓嗣の出征を見送った、十四歳の久遠に瓜二つだった。

 少女は啓嗣を見ると悲しげな顔をした。結束バンドをさせられた少女は警備兵たちに怒鳴られ、引かれていった。

 ここでバスを無許可で降りたら発砲されても文句は言えない――だが啓嗣はバスを降りた。啓嗣は駆けだした。壁の前にある、幅三十メートルほどの空き地を啓嗣は走る。警備兵たちは怒鳴り散らすが、なぜかM4カービンに手をかけなかった。

検問所の建物のなかに侵入。仙台駅としてこの建物が使われていた時代は、高さ・幅十六メートルの巨大な自由通路だった。その空間をコンクリートの壁が塞ぎ、その下部にシャッター式のゲートがあった。ゲートがきゅるきゅるとした音を立てながら、上に上がっていった。啓嗣はゲートの奥を見て驚いた。――ゲートの奥にあるべき原野は一切見えずただ、虚ろな真っ暗い空間だけがそこにあった。

 少女は、その虚ろな暗黒に身を溶かしていった。



 二日後、啓嗣は郡庁の北、ロナルド・レーガン通りを挟んだ向かいにある電子軍の基地へ向かった。基地といっても、傍からみたらただのオフィスビルの脇に、むかしの団地のような宿舎が数棟並んでいるだけで、どっちみち鈍色だった。

 その宿舎には二月永劫の垂れ幕がいちめんに貼られてれた。

【未完】

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壁を抜ける 眞山大知 @Sigma_koukyou

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