Act.12-2

「助けていただいた、しかも初対面のあなたに、こんな非道なことを言おうとしている私を、きっと蒼子は激怒して、また家を抜け出すかもしれない。それでも、自分の娘だから……。私は守らないといけないの。M美術館で倒れたってことは、あなたに会いに行ったのよね。今朝は痛み止めの麻薬を打ったばかりだった。おそらく、あまり痛みがなく動けると思ったから、家を抜け出したんだわ。あなたに会いたくて……。S灘を見下ろせる空と海の青を、あなたと一緒に見たくて……」


 母親は晴海を見上げて、しっかりと視線を合わせてきた。それに対して晴海は否定できなかったけれど、肯定したら何かが崩れるような気がして黙っていた。


「晴海君。お願い。もう蒼子には会わないで。電話もやめて。可能なら、あなたから『さよなら』を言ってほしいの……」


「んな! さよならなんて、絶対に言えません! そんなこと知ったら、蒼子が余計に悲しみます」


 拒否しつつも、晴海は心の中で呟いた。


(崩れた……)


 晴海はこの答えを予感したから沈黙したのだが、沈黙は「肯定」だった。


「あの子の命はもうほとんど残ってない。それでも、あなたに会いたくて、またM美術館へ行こうとするわ。行きたいと絶対に言い出すわ。私がいけなかったのよ。『魂の片割れ』なんて話をしちゃったから……」


 母親が、本気で後悔していることは明らかだった。


「まさか、あの子が再発するとは信じてなかったし、治療を拒否するとも思わなかった。『魂の片割れ』があの子に現れてくれたら、その人と輝く未来を手にしてくれると思ってた。万が一再発しても、その存在とずっと一緒にいたいと願って、辛い治療にも立ち向かってくれると思ったのよ」


 彼女は両手に顔を埋めた。しかし、蒼子は違った。無駄に命を伸ばすより、思いのまま生きることを選んだのだった。そこにたまたま、晴海が割り込んできただけだ。


 晴海は自分を、神様が現世の蒼子が最期まで幸せでいられるようにとつかわせたのだと思っていた。しかし、それは2人だけにしかわからない感覚だった。


 蒼子の母親にとって、今はもう晴海は、蒼子の命を喰らうわざわいでしかなかったのだ。


「お願い。蒼子の前から姿を消して。これ以上、蒼子の命を削らないで。蒼子はもう、ベッドから起き上がることも難しいの。細くても切れそうでも、1秒でも長く……、あの子には生きていて欲しいの。あなたは、蒼子の命を縮めるだけの存在なんだって、理解してください」


 蒼子の母親は泣きながら深々と頭を下げた。自分が蒼子を殺そうとしていると言われて、晴海はショックを受けたし、否定だってしたかった。でも、理解してもらえるはずがないこともわかっていた。涙が溢れそうになったが、ぐっとこらえて蒼子の母親を見つめた。


「はい。わかりました。でも、僕は蒼子に向かって『さよなら』は言えません。その時点で、蒼子の命が尽きる気がするから。だから、細い絹糸くらいは繋がったままでいさせてください。僕からはもう会わないし、電話も……」


 そこまで言って、晴海は言葉を切った。脳裏に「生存確認」という4文字が浮かんだのだった。でも、こんな表現は絶対にできなかった。蒼子とは、こんな言葉で言い表せるような関係ではないと確信していた。


「本当なら『着信拒否』して欲しいのだと思いますが、それだけは許してください。僕からは絶対に連絡しませんし、かかってきても出ません。でも、かかってこなくなるまでは、蒼子は生きてるってわかるから……。それだけは許してください。お願いします」


 晴海は深々と頭を下げると、病院を後にした。


「僕には、蒼子に会えるだけの資格も理由もないんだった……。『最期まで一緒にいる』なんて偉そうに言ったくせに、僕は他人。そう……、『縁もゆかりない』赤の他人でしかないんだった」


 自分の立場が悔しかった。意思とは関係なく、大粒の涙が下瞼の上に湧き上がってきた。それが落ちそうになるのを、晴海は右腕でぬぐった。それでも次から次へと大粒の涙が流れ続けていた。肩がひくひくと動き、嗚咽が漏れそうになった。それを止めることもできないまま、顔を右腕で隠して無我夢中で走った。


 蒼子は「またね」と言ってくれたのに……。当然また会えると思ってたのに……。それは、蒼子の母親の一言で、断ち切られたのだった。


 気がついたら、晴海は美術館に来ていた。やっぱりここへきてしまう自分に、晴海はさらに悲しくなった。


「蒼子。海が見たいだろう? 空の青が見たいだろう? それすらも、もう叶わないのか? 風に魂を乗せて『あの青に溶けていきたい』って、願っちゃいけないのか?」


 晴海は呟いた。そしてそのまま膝をつき、うずくまったまま泣き続けた。

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