Act.12-1

 蒼子は自室で晴海からもらった貝殻を耳に当て、潮騒と晴海の鼓動を聞きながら痛み止めの医療用麻薬を投与していた。投薬量も、春から比べると格段に増え、間隔も狭くなってきた。食欲も落ち、梅雨に入りかけた季節は湿気が身体にまとわりついて、その細かい水滴すらも重く感じられるようになってきた。


「時間がない……」


 蒼子はボトルを見上げながら呟いた。点滴が終わると、若干痛みも軽くなる。ケアチームが帰った後、蒼子はそっと家を抜け出した。向かった先は、当然美術館だ。もう十日とうか近く行ってなかった。空を見上げると、珍しく快晴だった。


「今日、行かなかったら、二度とあのS灘の風景を見られないかもしれない」


 呟くと、重い足を引きずりながら坂道を登っていった。


「それに……」


 蒼子は、そこに晴海がいると確信していたのだった。最近の蒼子には、なぜかわかるのだった。自分がこの大気の中に溶け込んでいるような感覚を持ち始めていた。自分の中に晴海の魂がいるような、そんな感じだった。


 蒼子は通常だったら10分もかからない道のりを、倍の時間を使って辿り着いた。入り口を見ると、予想どおり晴海がいた。


「わかってたわ……」


 呟いた瞬間、足に麻痺がきた。ピ-―――ンとつっぱって平衡感覚を失った。


「晴海く――――ん!」


 蒼子はあらん限りの声で叫んだ。その声に晴海が振り返るのと、蒼子が倒れるのが同時だった。


「蒼子ぉ―――――!」


 晴海は猛然と走って、蒼子に飛びついた。


「大丈夫か!」


 晴海は片膝をついて蒼子を抱き上げたが、意識がなくなっていた。軽く頬を叩いてみたが、反応がなかった。晴海は素早く蒼子のポシェットを持ちヘルプマークを見、すぐさまスマホを取り出して119番通報をした。


「事件ですか? 事故ですか?」


 相手の問いかけに、晴海はヘルプマークを見つめながら声を発した。


「急患です。ここは、M美術館入り口です。末期がん患者、星野蒼子。16歳女性です。国立A病院まで、搬送をお願いします」


「了解です。あなたのお名前は? この番号はあなたですか?」


「はい。自分のスマホからかけてます。僕は七瀬晴海と言います」


「すぐに向かいます」


 晴海は電話を切ると、消防署の位置を思い出していた。おそらく10分ほどで到着するだろう。次に、蒼子の自宅へ電話をした。しかし、いくらかけても応答がなかった。ほどなくして救急車が到着した。


「七瀬晴海です。彼女とは友人ですので、同行させてください」


「乗ってください」


 晴海は蒼子に付き添って、救急車に乗りこんだ。国立A病院の救急搬送口に到着すると、医師や看護師が待機していた。ストレッチャーに乗せられた蒼子の後を追って、晴海も救急処置室の待合室までついていった。


「付き添いの方は、こちらでお待ちください」


 看護師に言われ、晴海はベンチに座ると、再度蒼子の家に電話をかけた。今度はつながった。


「あの! 七瀬晴海です」


「蒼子がいないの! 蒼子がいないのよ! あんな体で……。どこを探してもいないの!」


 母親は半狂乱になって叫んでいた。


「蒼子はここにいます。大丈夫です!」


 晴海も叫んだ。


「え? 蒼子? 蒼子は無事なの?」


 蒼子の母親の息が止まったことを、晴海は感じ取った。心配しただろう。こんな状態の蒼子だ。母親が半狂乱になってもおかしくないと思った。


「え……と……」


 やっと少し、冷静さを取り戻したようだった。


「七瀬晴海です」


「ああ、晴海君。なぜ、あなたが家の電話番号を知ってるの?」


 母親が、安どの深い溜息を吐いたのがわかった。


「蒼子が常に持ち歩いてる『ヘルプマーク』に記載されてたので。蒼子。20分ほど前に、M美術館の前で倒れて意識を失ったんです。たまたま僕もそこにいて、『ヘルプマーク』に書かれてるとおりに対処しました」


「つまり今、国立A病院なのね」


「はい」


「ありがとう。蒼子を助けてくれて……。15分ほどで着くわ。それまでいてくれる?」


「ええ。もちろんです」


 晴海が電話を切ると、医師が処置室から出てきた。


「状態は安定したよ。君は? お兄さん?」


「いえ、違います。友人です。彼女の母親とは、今、連絡が取れました。後15分ほどで到着するそうです」


「そう。的確な対処をありがとう。彼女の場合、10分でも命とりだからね。お母さんが到着されたら、主治医から説明があるから、行くように伝えてください」


(え?)


 晴海は立ち去る医師の言葉に、脳が反応できなかった。何かものすごく重要なことを言われたはずだが、「〇とり」と、その部分の言葉を拒否したのだった。呆然と立ち尽くしていると、女性が足早に近付いてきた。それが蒼子の母親だと、晴海は瞬時に悟った。


「蒼子は?」


 母親の顔は真っ青だった。当然だ。晴海だって、今の今まで頭の中は真っ白だった。ただ、「蒼子を救わなければ!」と、その一心で身体が勝手に動いただけだ。


「先ほど医師が出てきて、状態は安定したそうです。説明は主治医からあるそうなので、そちらへ行くようにとことづかりました」


「本当にありがとうございました。電話でちらっとお顔を見ただけで、初対面よね。蒼子がお世話になりました」


 母親は深々と頭を下げた。晴海は、彼女が放った言葉の語尾に違和感を持った。


(なりました?)


 過去形が何を意味するのか、晴海には理解できなかった。しかし、その理由はいとも簡単に告げられた。

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