Act.11
その日を
「3か月」。よく聞く余命の単位だ。次が「半年」。そのくらいのことは晴海も知っていたが、あえて目を逸らした。だが、蒼子の余命が、出会った時点で、後3か月だったのではないかと、晴海は感じていた。感じていたけれど、決定ではないと自分に言い聞かせていた。
「3カ月経ちましたから、もう蒼子の寿命は尽きます」
そんなことは誰にも決められない。蒼子が生きている限り、その命は蒼子のものだ。まだ輝きを失っていない。蒼子はまだ大丈夫だ。晴海は、彼女の生命力を信じていた。そして少なからず、その生命力に晴海自身の命を注いでいるという、理由のない確信もあった。
「そいつ馬鹿なんだよ。今日は遅刻したんだ」
「どうして?」
ベッドに横たわった蒼子が、目を輝かせて聞いた。
「なんでだと思う? 遮断機に自分の荷物をかけたのさ。電車が通りすぎるのをぼんやりと見てたら、遮断機が上がっちゃったんだよ」
「えっ、それで荷物は?」
「するするっと遮断機の根本まで滑って行っちゃったのさ」
「うっそ―――!」
蒼子にしては大きな声で叫んだ。
「だからそいつ、次の電車が来るまでそこで待っていて、遅刻したんだよ。完全に自業自得ってやつだ」
晴海も楽しそうに笑った。
「……で、結局どうしたの? 荷物は回収できたの?」
「うん。でも、駅員さんに『なんでこんなところに荷物あんの?』って聞かれて、説明するのが一番めんどくさかったらしい。駅員さんと一緒に、5メートルもそびえたつ遮断機の棒を見上げて、2人ともただ大きなため息をついただけだったってさ」
「くっくっくっ! 想像しただけで、その光景が目に浮かぶわ。そりゃそうよね。遮断機が下りてこないと荷物は取れっこないもん」
蒼子は笑いながら、枕に顔を埋めた。
「ちょっと変わった奴でね。屋上にいたとき、何を思ったのか、突然屋上のフェンスを乗り越えようとしたんだよ」
「えっ! 危ないじゃない!」
蒼子は今度はちょっと頭を上げた。
「あのときは慌てたね。みんなで必死にすがりついたよ。でも、そっちの方が危なかったな。危うくバランスを崩して、あいつを落としてしまうところだった」
「それで?」
「みんなで、『おまえ、何をする気だったんだ!』って怒ったら、『フェンスの向こう側に立ってみたかった』って答えたんだぜ」
蒼子は一瞬言葉を失い、それから吹き出した。
「何それ! そんな理由で? ちょっと怖いけど、面白すぎるわ!」
晴海も肩をすくめた。
「ほんと、何を考えてるんだか、全然わからないよ。あと、テストのときもやばかったな」
「テストのとき?」
「うん、数学のテストでさ、問題の意味が分からなかったらしく、答案用紙の端っこに『この問いの意味が分かる人は心が清らかです』って書いて提出したらしい」
「えぇぇ―――! 何それ!」
蒼子は抱き枕をガシッと握って真剣な表情だ。
「で、先生に『結局お前は、何を言いたいんだ?』って聞かれて、『僕はこの問題の意味が分かりません。つまり僕の心は濁っています』って答えたんだよ」
蒼子はもう笑いをこらえきれず、抱き枕を抱えて揺れた。
「楽しい友人がいるのね。でも、ちょっと抜けすぎてなぁい?」
「あと、これも笑ったな……。数学つながりなんだけど、スピーチの授業で、みんなの前で発表があったんだよ」
「うんうん、それで?」
「そいつ、しっかり原稿を握りしめてて、堂々と話し始めたんだ。『私は、このテーマについて話したいと思います』って」
「うんうん、普通じゃない?」
「と、思うだろ? でもな、途中で『え? あれ?』って小声で言いながら、急に黙って原稿めくりだしたんだよ」
晴海は、ちょっと上目遣いになってにやっと笑った。
「えっ、何があったの?」
「原稿、間違えて持ってきてたんだよ。しかも、それが数学の宿題の解答用紙だった」
「ちょっと待って! スピーチじゃなくて、数学?」
蒼子はもう我慢できず、ベッドの上で肩を震わせながら笑った。
「そうそう! みんなポカーンとしてたよ。で、そいつさ、誤魔化そうとして『えーと、これは私の計算の記録です』とか言い出してさ」
「計算の記録? もう何を言ってんのかわかんないわ!」
「先生も『違う違う! スピーチの原稿はどこだ!』ってツッコんで……。結局、全員が、『もういい、お前のことはよくわかってる!』って言って、教壇から降ろした」
「もう、その人、本当に大丈夫なの?」
女学校在籍の蒼子には、こんなにすっとぼけた男の子は聞いたことも見たこともない。晴海が「ぽよ――ん」な男の子で、こんなにも可愛らしい男の子っているんかな? って思ってたのに、晴海が話してくれる子が、完全にそれを上書きしていた。
「うーん……まあ、楽しいやつではあるよな。って、つながるエピソードがもう一個あった」
「え? つながるって数学? じゃないわよね。さっき数学つながりだったんだから」
蒼子は首を傾げた。それに対して、晴海はまたまたおかしそうに笑った。
「忘れ物。そいつ、まじで忘れ物がひどくてさ……。授業中に突然『あっ!』って叫んだんだよ」
「何? 何を忘れたの?」
もう多少のことでは笑わないと決めた蒼子は、歯を食いしばって笑いを堪えて訊ねた。
「先生も驚いて、『どうした?』って聞いたら、そいつさ、『僕、体育の授業のとき靴脱いで、そのまま履き忘れて帰ってきました』って言ったんだ」
蒼子は数秒、意味を理解しようとして目を丸くした。完全に想像を超えていた。
「え? ちょっと待って、それって、つまり……?」
「そう。靴下のままで廊下歩いて、教室に戻っちゃったんだよ」
「それって、ありぃー――――!」
晴海が見ている画面がプルプル揺れている。蒼子は枕に顔を埋めて笑った。
「しかも、その日って雨だったんだよ? 靴下、びしょびしょでさ……先生も唖然としてたよ」
「もう、それはさすがに天然すぎるでしょ! 私、多分数年分笑っちゃったわよ!」
蒼子は涙を拭きながら舌を出して笑ったが、やがて静かに目を閉じ、大きく深呼吸をした。
「疲れた? 笑わせすぎちゃった?」
晴海が、ちょっと後悔した表情をした。
「ううん。楽しかったわ。こんなにも面白い学校生活ってあったのね。私、学校ってあんまり行ってなかったから、同じ年くらいの子たちが、こんなに奇天烈だって、知らなかったわ。でも、笑いすぎちゃって、少し疲れたかな……」
蒼子は目を閉じたまま呟いた。
「でも、蒼子が笑ってくれて嬉しかったよ。じゃあ、そろそろ切るね。ゆっくりとお休み」
「ありがとう。またね」
晴海は優しく声をかけると、電話を切った。
「またね」
呟いてみたものの、再び会える日が来るとは、もう確信できなくなっていた。
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