Act.9-2

 蒼子が病院へ行った日、晴海は、創立記念日で学校が休みだった。


「よし!」


 小さく息を吐きながら呟くと、自転車のハンドルを握りしめ、ペダルに力を込めた。風を切るように坂を下り、まっすぐ海岸へ向かう。太陽はすでに高く昇り、アスファルトがじんわりと熱を帯びていた。潮風が頬を撫で、髪を揺らす。


 自転車を停めると、海岸沿いの道路には、陽光を浴びた海の輝きが映り込んでいた。 白い波が砂浜へと柔らかく這い寄り、その度に光の破片が砕けては消えていく。 階段を下りながら、晴海は少し深く息を吸った。


  磯の香りがツンと鼻を刺激し、潮騒の音が微かに耳に届く。少し見上げたところに、国立A病院が見えていた。


(蒼子は今、病院の白い壁の中にいて、この音を聞けないでいる……)


 ふと、その悲しみが、晴海の心に吹き込んできた。


 だから……。


 晴海はここへ来たのだった。 砂浜に足を踏み入れると、柔らかい感触が足元に広がる。靴底が少し沈み、さらさらとした砂粒が僅かに舞った。


 波の音に合わせて、晴海は浜辺をゆっくりと歩き出した。視線は地面へと落ちている。晴海はずっと俯きながら、砂の上を歩き続けた。目の前には無数の貝殻が散らばっていたけれど、彼の求めるものはそのどれでもなかった。


 波が引くたびに、細かな泡が砂に消え、また違う模様を刻んでいく。白く砕けた貝殻は波に洗われ、ほんのわずかな光を反射していた。晴海は、1歩ごとに深い足跡を刻みながら、足元だけを見つめて歩き続けた。


 探し物のイメージは頭の中にはっきりとあった。けれど、それがなかなか見つからない。それでも晴海は諦めることなく、延々と浜辺を丹念に歩き回った。

 

  つま先で砂をどけては、屈んで小さな貝殻を拾う。けれど、違うとわかると、首を横に振り、それを後ろ手に放った。それを、何度も何度も繰り返した。


拾っては見つめ、違うと判断すれば、迷わず投げ捨てる。時間の感覚が曖昧になっていった。たった1つを見つけるために繰り返される、わずか1秒の常道行動が、晴海の時間を止めていた。


 潮騒の音だけが耳に響いている。手のひらには、ほんの僅かに潮の匂いが残った貝殻の感触。だが、どれも彼の求めているものと合致しない。晴海の眼は、砂しか見ていなかった。次第に靴の中に砂が入り込んできた。


 ふと、不快感を感じる自分に気がつき、砂浜に腰を下ろした。スニーカーを脱ぎ、逆さに持つと、中に溜まった砂をぽんぽんと払い落とした。しかし、靴下にも細かな粒が入り込んでいて、指の間をくすぐるようなざらつきが不快で、ちょっと顔をしかめた。


 靴下も脱いで砂を軽く叩き、指の間に入り込んでいる砂を、指先で払っていると、潮風の冷たさを感じた。


 いつの間にか、夕刻が近づいていたのだった。


 慌てて靴を履き直し、立ち上がった。まだ探すべきものは見つからない。彼は顔を上げ、海を見つめた。静かに波が這い寄る浜辺。その向こうには、空と海の境界がぼんやりと溶け合っていた。


 尻についた砂を払って、再び貝殻を探し始める。やがて、砂の中を走らせていた晴海の視線が、ぴたりと止まった。次の瞬間、心臓が跳ねるように鼓動した。


(あの形、あの色……。あった!)


 晴海はもつれるように走り寄り、手を伸ばして掴んだ。手の中に収まったそれは、白くてなめらかでしっとりとした感触の、卵大の巻貝だった。陽の光を浴びて、ほんの僅かに淡い輝きを纏っている。


「見つけた……!」


 声にならない呟きが、潮騒の音にかき消された。その瞬間、頬にえくぼが刻まれ、笑顔が弾けた。まるで空に見せびらかすかのように、腕を伸ばして高く掲げた。


 陽の光を透かしながら、それは優しい風を受けていた。晴海は笑い声をあげ、掲げた巻貝を中心にして、くるくるとその場で地面を蹴るように旋回していた。


 嬉しい……。


 探し続けた時間も、重く足を取られて転びそうになったことも、全部が「嬉しい」という気持ちで消えていた。気づけば、西の空がほんのり赤く染まり始めていた。


 陽は傾き、波の筋が淡い茜色を映して揺れている。遠くで海鳥が鳴き、風はわずかに冷たさを増していた。晴海は、その風に吹かれるまま、巻貝をそっと胸の前に抱え込み、軽やかな足取りで埠頭へ向かった。そして、先端に座った晴海の目の前で、空はゆっくりと変化していく。


 茜色から、オレンジへ。そして、紫へ……。


 水平線の向こうに、太陽がゆっくりと沈んでいく。光の断片が波間にきらきらと散らばり、海はまるで金色の粒を抱いたように輝いていた。晴海は目を細め、全身で心地よい潮風の冷たさを受け入れながら、その光景をじっと見つめていた。


 やがて、胸に抱いた巻貝を、そっと手のひらで包み込んだ。その滑らかな表面は、ほんのりと温かく、彼の手に静かに馴染んでいた。


「ほら、見える? 君がいた海の中の記憶がよみがえってきてる? 音は覚えてる?」


 彼は心の中で問いかけるように、巻貝を握りしめながら、夕陽が映る水面へとそっと持ち上げた。その貝殻の内側にまで、今この瞬間の光景を見せていた。そして、途切れることがない潮騒も、記憶を呼び起こさせるように聞かせていた。


 遠くでは、小さな漁船がゆっくりと帰港していく。金色の道のように輝く水面の上を、影を落としながら静かに滑っていく。晴海は、静けさの中で息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。聴覚だけが研ぎ澄まされ、潮騒の音と鳥の鳴き声が、ゆっくりと心に沁み込んでくる。晴海も、その音たちの仲間だった。


 晴海は、そっと巻貝の口の部分を自分の心臓に当てて抱え込んだ。貝殻の滑らかな表面が、彼の手にぴたりと馴染む。ほんのわずかに冷たい潮の感触が、指先からじんわりと伝わってきた。


 波の音が静かに寄せ、引いていく。彼は目を閉じたまま、そっと息を吸った。


(聴こえてる?)


 晴海は、潮騒の音と自分の心臓の音で和音を奏させるかのように、胸の前で貝殻を抱き続けていた。


(君が奏でる潮騒の中に、僕の鼓動も住まわせてね)


 貝殻の奥から聞こえてくる波の音は、彼の心臓と響き合い、もうひとつの鼓動となって、優しい和音を奏で始めた。


(僕は生きてるよって、蒼子に伝えるために、君の潮騒と僕の心臓の音を、くるりと巻き取ってね)


 夜が侵食してくる。空はすでに紫を帯び、水平線の向こう側には最後の橙色の光が名残惜しそうに広がっていた。


 晴海は、巻貝をそっと撫でた。


(蒼子の毛先がくるっと巻いてて、そこに天使が住んでいるように、君の奏でる潮騒は僕の鼓動をくるっと巻きとって、瞬時に海の青と空の青を蒼子に見せてくれるんだろう?)


 手の中の貝殻が、その言葉を静かに飲み込むように、微かな鼓動を返してくるような気がした。


(僕の鼓動も、その仲間に入れてね。蒼子に聴いていて欲しいんだ)


 晴海は静かに目を閉じて、言葉を続けた。


(僕も蒼子も、ちゃんと生きてる)


 遠くから、1羽の海鳥が低く鳴く声がした。その声は風に流され、波音に溶けていき、落日の静寂がどんどんと広がっていった。


(この潮騒の中で、僕らの心臓はちゃんと動いてるんだ。『とくん』『とくん』って、意味ある声で歌ってるんだ)


 巻貝の奥で、波の律動が彼の鼓動と混ざり合う。


生きてるよとくん。って事実を語ってる。生きていたいとくん。って、強く願ってる。生きていくんだとくん。って決意を叫んでる)


 晴海は再び巻貝を指でなぞった。


(蒼子と一緒に、僕は生きていくんだって、強い気持ちを持ち続けるから、蒼子も頑張れ! 僕の命のありったけを、この巻貝に込めるよ)


 空の最後の光が沈み、夜の色が濃くなり始めた。晴海は何度も何度も巻貝を握りしめて呟いていた。


(だから『またね』って、蒼子言い続けてくれるように……。力を貸してね)


 貝殻をぎゅっと握りしめると、耳に当てた。潮騒の音がいっそう深く響いた。


 晴海は、その巻貝に自分の命と想いの全てを託したのだった。

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