第8話 ひとつまみの夜の底

 夜の底には、音が沈んでいる。

 それは、耳を澄まさなければ聞こえないような音。誰かが飲み込んだ言葉のかけらや、誰にも届かなかったささやきが、静かに降り積もる。私は、そういう“沈黙”を集める仕事をしていた。

 


 ***


 

 わたしの職業は、影聴き(かげきき)である。表向きは夜警の仕事をしているが、本当の役目は、“影の声”を拾うことだ。

 たとえば、誰にも打ち明けられなかった思い。心の奥底で凍ってしまった嘘。深夜のバス停でぽつりと落ちたため息。そういうものは、決して消えない。ただ、夜の底へ静かに沈んでいくだけだ。

 そして、十分に冷たく、重くなったそれらは――
 “影”になる。

 

 私は毎晩、決まった時間に出かける。旧市街の裏路地、使われなくなった駅のホーム、夜勤明けの病院の裏庭。そういう場所に、よく“沈黙の影”は棲みついている。

 耳を澄ませ、呼吸を止め、ゆっくりと問いかける。


 「きみの声を、拾いにきたよ」

 

 ある晩、とても深い影に出会った。公園のベンチに腰かけた、黒い影。それはまるで人の形をしていたが、顔も輪郭も定かではなかった。

 私は、声をかけた。


 「君は、何を落としたの?」


 影は、しばらく黙っていた。やがて、とてもかすかな声が返ってきた。


 「……ひとつまみの希望……かな」


 「どんな希望?」


 「忘れられたくない、って思ったこと。でも、それすら贅沢だと思った。だから……夜の底に、沈んだ」

 

 私は、そっと懐から小さなガラス瓶を取り出した。中には、ほのかに光る粒が入っている。それは、私がこれまで拾ってきた“沈黙たち”だった。


 「これ、少しだけ分けてあげるよ。ひとつまみの光でいいなら」


 影は黙って、うなずいた気がした。その瞬間、まるで空気が震えたように、影の輪郭がふわりとほどけ、風に溶けていった。

 


 ***


 

 帰り道、瓶の中の光は、ほんのすこしだけ強くなっていた。それはきっと、あの影が“声”として残った証だった。

 夜の底には、今日も沈黙が降り積もっている。けれど私は、それらの中から、ほんのひとつまみの希望を探している。拾った声は名もなく、姿も持たない。でも確かに、誰かが生きた証として、夜の底に灯るのだ。

 

 影は闇ではない。光があったという、静かな記憶である。

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