第7話 その影、わたしに似て

 私は昔から、自分の影を見るのが少し苦手だった。夕暮れ時、アスファルトの上にのびる細長い影。それがなぜか、わたしではない“別の誰か”のように思えることがあったのだ。

 ときどき、影の方がほんのわずかに遅れて動くような気がした。あるいは、自分とは違う表情をしているのではないかと、ふと背筋が冷たくなる瞬間も。

 


 ***


 

 そんな感覚が再びはっきりとよみがえったのは、二十五歳の春、実家の整理のため、久しぶりに郷里へ帰ったときだった。

 家は静かだった。両親は数年前に亡くなり、兄も遠方で家庭を持っていた。誰も住まなくなった木造の家は、床が少し傾き、ガラス窓には煤けた日差しが斜めに入り込んでいた。

 

 子ども部屋の押し入れの奥から、埃をかぶった姿見が出てきた。それは、私が小学校に入った頃に使っていたもので、いつしか“使わなくなった理由”さえ忘れていた鏡だった。それを廊下に立てかけたその夜、私は不思議な夢を見た。

 


 ***


 

 夢の中で、私はあの家にいた。そして、古びた姿見の前に立っていた。だが、鏡の中の“私”は、微笑んでいなかった。口元はわずかに歪み、目の奥に何か言いたげな気配があった。それは、まるで「もう一人の私」が、そこに存在しているかのようだった。


 「……わたし……?」


 そう問いかけると、鏡の中の影は、ふと動いた。私の動きと、ほんの半瞬だけずれたタイミングで。


 「あなた、ずっと忘れてたのね」


 その声は、私とまったく同じ声だった。けれどその響きは、どこかもっと幼く、傷ついたような寂しさを孕んでいた。

 

 「わたし、あなたが閉じ込めた“影”だよ」

 


 ***


 

 目が覚めたとき、額には汗が滲んでいた。でも奇妙なことに、少しだけ胸がすっきりしていた。私は幼い頃から、人と深く関わるのが苦手だった。言いたいことを飲み込み、相手の顔色をうかがってばかりいた。泣きたくても泣かず、怒っても口にせず、
 そうして“感じたこと”を、どこかに閉じ込めてきた。


 ――もしかすると、そのたびに“影”が、私の中に置き去りにされていたのかもしれない。

 

 帰り際、私はあの姿見をもう一度見つめた。そこには、私の姿が映っていた。だが今回は、完全に同じ動きをしていた。まるで、わたしとわたしが、ようやく歩幅を揃えたように。


 「ありがとう」


と、私は小さくつぶやいた。誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。けれど、そのとき確かに、影が、わたしに似ていた。

 

 そしてそれが、私が“わたし”になった、最初の瞬間だったのかもしれない。

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