第6話 名もなき灯台、最後の海

 その灯台には、名前がなかった。地図にも載っていなかったし、港の案内板にも記されていなかった。漁師たちはただ、「あの光の岬」と呼んでいた。

 それは、誰も来ない入り江の果てに、ひっそりと佇んでいた。

 私は、その灯台を探して、北の海へ向かった。

 


 ***


 

 父が若い頃、嵐の夜に乗った船が遭難しかけたことがあるという。羅針盤は壊れ、星は雲に隠れ、誰もが「終わりだ」と覚悟したそのとき、海の彼方に光が見えた。
 それは地図にない場所から伸びる、一筋の灯だった。


 「命拾いしたよ」


と、父は言った。



 「だがな、不思議なことに――その光を誰も覚えていないんだ。
船員たちの中でも、俺以外は“なかった”って言うんだよ」


 その話を聞いたのは、まだ私が子どもだった頃。以来、私はその灯台に取り憑かれるように惹かれた。

 


 ***


 

 大学を卒業し、仕事を辞め、私は旅に出た。東北の海沿いを、バスと徒歩で移動する。観光地でも名所でもない、ただ波と風の音しか聞こえない場所を求めて。

 そしてついに、霧の濃いある朝、私はその灯台を見つけた。岩場の先端に、ぽつんと建つ小さな白い塔。扉もなく、柵もなく、ただ、灯だけが回っていた。

 名もなき灯台。何の登録もない、記録にも残らぬその存在が、なぜか、心の奥の何かに触れた。

 

 私はしばらく、灯台のそばでテントを張り、寝泊まりした。
夜になると、灯はゆっくりと回転し、海面をやさしく撫でるように照らした。

 それはまるで、世界の端で、誰かをそっと見送っているようだった。

 

 数日後、ひとりの老婆がやってきた。


 「あなたも、探しに来たの?」


 老婆は、かつて恋人をこの海で亡くしたという。名も墓も残らなかったその人の魂を、この灯台が“照らしている気がする”のだと。


 「何も残らなかった人たちのために、この灯はあるのよ」



 「誰にも覚えられず、誰の名前にもならずに去っていった人たちの――」


 

 ***


 

 私は、その言葉に頷いた。そして、持っていたスケッチブックに、灯台の絵を描いた。描き終えたとき、ふと風が吹いた。

 灯台が、一瞬だけ、瞬きをしたように見えた。光が、やさしくこちらを向いた気がした。

 

 「ありがとう」



 誰の声とも知れぬ声が、風の中に溶けた。 

 その夜、灯台は、なぜかひと晩だけ、七色に輝いたという。そして翌朝、灯は消え、塔は跡形もなく姿を消していた。

 


 ***


 

 今も私は、絵の裏に小さく記している。

 **「名もなき灯台、最後の海にて」**と。

 それは、泡のように現れては消えた、けれど確かに“誰か”のために灯った光の、物語である。

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