第5話 硝子の少年と泡の朝

 彼を初めて見たのは、夏の終わりの朝だった。プールの水面には、薄く泡が浮いていた。夜明けの風が水面を揺らすたび、泡は静かに、だが確実に壊れてゆく。その中に、ひとつだけ壊れない泡があった。私は目を凝らした。


 ――その泡の中に、少年が立っていた。


 

 ***


 

 その町の郊外には、廃園になった学校があった。戦後に建てられた平屋造りの木造校舎。子どもたちの声はもう響かず、ただ風が抜けるだけの場所。私は写真家志望の大学生で、廃墟を巡っては“時間の残像”を撮っていた。

 その日、朝もやの中で偶然辿り着いたそのプールは、ガラスのような静けさをたたえていた。


 そして、泡の中にいた“彼”――


 彼は、全身が透けるように白く、目の奥だけが、まるで深海のような濃い碧を湛えていた。

 

 「……きみは、生きてるの?」


 私がそう尋ねると、彼はかすかに笑った。


 「どっちでもないよ。泡の中にいるからね。このプールが干上がるまでは、きっと“存在していられる”んだと思う」

 

 私は、彼の姿をカメラに収めようとした。しかし、シャッターを切っても、フィルムには何も写っていなかった。


 「それでいいんだ」と彼は言った。



 「君の目の中だけに、僕が残っていれば」


 

 ***


 

 その日から、私は毎朝プールを訪れた。泡の中の少年は、日によって少しずつ姿を変えていた。ときには水面の奥に沈みかけ、ときには泡の縁に手を置いて外を見つめていた。

 私は彼に尋ねた。


 「なぜ泡の中にいるの?」


 「消えたくなかったから」



 彼はそう答えた。


 「ある朝、目覚めたら、僕のことを誰も思い出せなくなってた。名前も、家も、教室の椅子さえも、なかったことになってた。でも僕自身だけが、覚えていたんだ。
“ここにいた”ってことを」


 「それって、死んだってこと?」


 彼は黙った。


 「……それすら、わからない。だから、せめて泡の中だけでも、“僕が僕だった”ことを、残していたかったんだ」

 


 ***


 

 八月の終わり。プールの水は干上がり始めていた。最後の泡が弾ける朝、私は彼に最後の言葉をかけた。


 「君のこと、忘れないよ。たとえ誰にも知られてなくても、私が、ちゃんと“君を見た”ってことを覚えてる」


 彼は、ふっと笑った。


 「その言葉があれば、泡が弾けても、僕は大丈夫だと思う」

 

 そして、彼は光の粒となって消えた。

 


 ***


 

 帰り道、私はカメラのフィルムを確認した。すべての写真には何も写っていなかった。


 ただ一枚、最後の一枚だけに――


 誰もいないプールの真ん中に、小さな泡がひとつ、静かに浮かんでいた。

 その泡だけが、柔らかな朝の光を反射して、まるで、誰かの瞳のように見えていた。

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