第9話 泡に影さす夢の路地裏

 その路地は、地図にない。駅から三分、商店街を一本外れた先。つる草が絡まり、電灯もない細い路地――
 そこには、“見えない店”がひとつ、存在している。

 看板もない。けれど、その路地を「迷って」入った者だけが、店の前に辿り着くという。

 

 私は、その店で働いている。店の名前はない。客が呼ぶときは、それぞれ勝手な呼び方をする。


 「夢売りの路地」
 「影の茶屋」
 「泡の喫茶室」
 「幻灯の書庫」


 どれも、間違いではない。


 

 ***


 

 店には、メニューがない。客はただ、席につき、静かに「何か」を待つ。そして、**自分でも気づかぬうちに置き忘れていた“何か”**が、そっと目の前に差し出される。

 あるときは、泡立つコーヒーの香り。あるときは、古いノートの切れ端。またあるときは、忘れかけた子守唄の旋律。

 誰が淹れているのか、誰が運んでくるのか。店の“主”が誰なのかさえ、客にはわからない。

 けれど、彼らは皆、帰るときにこう言う。


 「……なんだか、夢を見ていたようだった」と。


 

 ***

 


 私がこの店に来たのは、ある夜、夢の中だった。夢の中で、泡のような白い道を歩き、影が壁から這い出して手招きをし、見えない声が、「こちらへ」と告げた。

 目が覚めたとき、私は知らぬうちに、この路地に立っていた。扉を開けると、そこにはもう席が用意されていた。そして今では、私は給仕として、夢の中の記憶を客に届ける側になっている。

 

 不思議なことに、ここで働きはじめてから、自分の影が以前より濃くなった気がする。それは、怖いことではなかった。むしろ、ようやく“わたし”という存在が、光だけではなく、影としても輪郭を持ち始めたということだった。

 


 ***


 

 ある晩、年老いた女性が来店した。彼女は何も言わず、ただ一杯のカップを手にしていた。その中には、淡く泡立った銀色の液体が入っていた。


 「これは……何ですか?」


 私が尋ねると、彼女は目を細めて微笑んだ。


 「これは、若い頃に私が見た夢よ。もう覚えていないけれど、それでも、わたしの中には、今も泡のように残っているの」


 カップを口に運ぶと、彼女の目に、かすかな影がさした。それは悲しみではなく、やさしい思い出の影だった。

 

 その夜、彼女の席の上には、一枚の紙片が残されていた。


 「ありがとう。夢も、泡も、影も、すべて美しかった」

 


 ***


 

 今夜もまた、誰かがこの路地を“偶然”通りかかるだろう。泡立つ夢の香りの奥で、
 影の声がささやき、幻の記憶が一杯の飲み物になる。

 私はそっと、扉を拭き、灯を点ける。この店に“現実”はない。でも、すべてが確かに“あった”と、心が知っている。

 

 夢幻泡影。それは、いつか消えてしまうものの名前――
 でも、たしかに今、この路地の片隅に、在る。

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