琴葉の矢
小乃 夜
第一話:不器用少女、運命の出会い
四方を緑の山々に囲まれた、のどかな盆地に広がる伏見ヶ丘高校。春の陽光が校庭の桜並木を優しく照らし、舞い散る花びらが新生活の始まりを祝福しているようだった。真新しい制服に身を包んだ森山琴葉は、その桜並木の下を一人、ゆっくりと歩いていた。周囲の新入生たちが、これから始まる高校生活への期待に胸を膨らませ、楽しそうに談笑する中、琴葉は一人、希望……よりもむしろ不安でいっぱいの溜息をこっそり吐き出した。
(あぁ、始まるんだ……私の、ドタバタ高校生活が……)
琴葉の「ドタバタ」には、確固たる理由があった。それは、彼女の生粋のドジっ娘体質だ。廊下を歩けば自分の足に引っかかり、給食のトレーは必ず何かを巻き込み、体育の授業に至っては、ボールが友達、いや、むしろ天敵だった。球技大会は、琴葉にとって年に一度の公開処刑イベント。そのたびに「ごめんね、みんな……」と心の中で平謝りするのが常だった。
その才能(?)は入学早々から遺憾なく発揮された。張り切って新品のローファーを履いた初日、見事に側溝の蓋の隙間にヒールを挟み、盛大に転倒。幸い、通りかかった親切な先輩が助けてくれたものの、膝には早くも青あざが勲章のように輝いていた。
「はぁ……この先、大丈夫かな……」
制服のスカートについた土埃を払いながら、琴葉はこぼした。
部活動勧誘の喧騒と弓道との出会い
そして始まった部活動勧誘。体育館は熱気ムンムン、各部活の先輩たちが、あの手この手で新入生を勧誘しようと必死だ。威勢の良い声が飛び交い、琴葉はまるで巨大なアメーバに飲み込まれる小魚のように、その喧騒に圧倒されていた。
「ねえねえ!うちのテニス部、イケメンいっぱいだよ!」
「バスケやろうぜ!青春の汗を流そうぜ!」
「軽音楽部でギターかき鳴らさない?ボーカルも募集中!」
キラキラした笑顔で迫ってくる先輩たちを、琴葉はひたすら「すみません、ちょっと……」「あ、はい……」と曖昧な返事を繰り返しながら逃げ回る。運動神経に自信がないのはもちろん、文化部もなんだかレベルが高そうで、自分の居場所はない気がしたのだ。
(どこもすごいなぁ……私には、もっと地味で、目立たない場所がいいんだけどな……)
そんな時、ひっそりと体育館の隅に陣取る一団を見つけた。「弓道部」と書かれた幟が、微風に揺れている。袴姿の先輩たちは、他の部活のような騒がしさはなく、静かに、しかし凛とした佇まいで新入生を見つめていた。その姿は、まるで絵画のようだった。
(弓道……? 球技じゃないし、激しく動き回ることもなさそう……それに、あの袴姿、ちょっとかっこいいかも……)
運動音痴の琴葉にとって、「動かない」「ぶつからない」というのは、部活選びにおける重要なキーワードだった。何より、その静謐な雰囲気に、琴葉の心は不思議と落ち着きを覚えた。意を決して弓道部のブースに近づくと、優しそうな女先輩がにこやかに声をかけてくれた。
「よかったら、ちょっと体験してみませんか?」
その笑顔に弱い琴葉は、またしても断ることができなかった。
初めての弓、予期せぬ事故
弓道場に連れて行かれた琴葉は、生まれて初めて弓というものを手にした。それは、しなやかな光沢を放つグラスファイバー製のものだった。木製の弓に抱いていた古風なイメージとは少し違うが、それでもその凛とした姿に、琴葉はかすかな期待を抱いた。
「弓を持つと、なんか心が落ち着く……かも?」
先輩に教えられながら、見よう見まねで弓を構えてみるが、これがなかなか難しい。腕はプルプルと震え、弓を支えるだけで精一杯だ。弦を引こうにも、指が震えて力が入らない。的に狙いを定めるどころではない。
「的に集中して、ゆっくり息を吸って……」
顧問の鴨川龍玄だろうか、白髪の男性が優しい声でアドバイスをくれた。先輩の声に合わせて、琴葉はぎこちなく呼吸をする。深呼吸して、集中して、指の力を抜いて――
「は、離れ!」
先生の声と同時に、琴葉の指が弦から離れた。
「ヒュッ!」
空気を切り裂くような音がして、矢はあらぬ方向へ飛んでいった。的に向かうどころか、大きく左に逸れ、壁に貼られた的にかすりもしない。
ドスッ!
「あ……すみません!」
琴葉は顔を赤らめて謝ったが、矢が壁に突き刺さった音があまりにも豪快だったため、周囲の部員からは堪えきれずクスクスと小さな笑いが漏れた。琴葉の心はズンと沈んだ。
「そんなもんだ、ドンマイ!」
先生がひょうひょうとした声で琴葉の肩をポンと叩いた。「初めてで当たる方が珍しいさ。気にすることない」そう言ってくれたが、その言葉も琴葉の耳には届かなかった。
(やっぱり、私には無理だ……弓道も、見た目よりずっと難しいんだ……。みんなに迷惑かけちゃう……)
すっかり自信をなくした琴葉は、早々に退散を決意した。
「今日はありがとうございました!あの、ちょっと私には難しそうなので……」
運命の急転、そして古の魂
お礼を言って弓道場を後にし、トボトボと下校する。今日の入学早々、散々な一日だった。明日、どうやって部活を断ろうか。もう入部届を出す前に逃げ出してしまおうか。そんなことを悶々と考えていると、彼女はいつもよりさらに俯き加減になっていた。
伏見稲荷の朱色の鳥居が夕日に照らされ、幻想的な光景が広がっている。琴葉が歩いていたのは、その近くにある即成院へと続く静かな道だった。夕焼けに染まる石畳の道は、観光客もまばらで、ひっそりとしている。境内からは、時折、読経の声が聞こえてくる。その静けさが、琴葉の沈んだ心をいっそう重く感じさせた。
その時だった。背後からけたたましいブレーキの音と、甲高いクラクションが聞こえた。振り返る間もなく、琴葉の視界に、一台の小型トラックが急カーブを曲がりきれず、まるで大きく傾く船のように左に車体を傾けながら迫ってくるのが見えた。同時に、その荷台に積まれていた、いくつもの巨大な大海袋が、固定が甘かったのか、ガシャァァァン!と凄まじい音を立てて崩れ落ちた。中には、摘み取られたばかりの鮮やかな新茶葉が大量に詰められているらしい。大海袋は破れ、甘く爽やかな香りをあたりに撒き散らしながら、まるで巨大な緑の波のように琴葉のいる方向へと押し寄せてくる。
「きゃあっ!」
琴葉は声を上げる暇もなく、その巨大な崩落物に飲み込まれた。鈍い痛みが全身を走り抜け、視界がぐるぐると回り出す。温かく、しかし息苦しい新茶葉が、琴葉の全身に降り注ぎ、あっという間に彼女を埋め尽くしていく。手足を動かそうにも、重い茶葉の塊に押しつぶされ、身動きが取れない。最後に感じたのは、首元にかすかに触れる、硬くて冷たい感触――それは、恐らくトラックから跳ね飛んだ何かの部品だろうか。そして、夕焼け空に浮かぶ即成院の屋根と、そこで力強く枝を伸ばす老木のシルエットが、ぼやけて消えていった。
(まさか……こんなところで……ドジを踏むなんて……。せっかく、高校生になったのに……何もできないまま、終わっちゃうのかな……)
意識が完全に途絶える直前、琴葉の耳に、どこか遠い、古めかしい男の声が聞こえた気がした。その声には、長きにわたる疲弊と、どこか諦めのような響きが混じっていた。
「ふむ……なかなか面白い娘よのう……。この身もまた、安らぎを求めん……」
それは、戦場の風の音に紛れるような、微かで、しかし確かに響く声だった。琴葉は、その意味を理解する間もなく、深い闇へと落ちていった。そして、その闇の中で、古の弓の名手の魂が、静かに彼女の心に宿り始めていた――。
(二話へ続く)
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琴葉の矢 小乃 夜 @kono3030
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