ダウンヒル

あきかん

第1話

 佐藤悠斗はロードバイクを疾風のように駆り、鬼哭坂の急勾配に挑んでいた。17歳の高校生、汗に濡れた額をサングラスが覆い、レンズ越しに坂の頂が牙を剥く怪物のごとく睨みつける。

 隣を走るのは兄の旧友、彩花。ショートカットの髪が風に踊り、彼女の笑顔は挑発の刃のようだ。

「悠斗、楽しめよ! 遅かったら置いてくからな!」

 その声は風を切り裂く矢のように鋭い。2年前、鬼哭坂で事故を起こし、夢半ばでバイクを降りた兄から譲り受けたこのロードバイク。かつてレースなど夢のまた夢だった悠斗が、今、血と汗にまみれて初のレースに身を投じている。

 悠斗の心臓は爆発寸前だ。車輪がアスファルトを貪り、10度を超える急斜面を下る。重心を後ろにずらし、サドルから腰を浮かせ、猛獣を御するように低く構える。前輪が浮き上がるのを膝で抑え、7割の力で後輪ブレーキを人差し指で引き、速度を緻密に制御する。だが、風がヘルメットを叩きつけ、視界を揺さぶるたび、首筋に鋭い痙攣が走る。彩花が左から抜き去り、鮮烈な赤いバイクが砂塵を巻き上げ、炎の尾を引く彗星のようだ。

「置いてくよ!」

 彼女の声は風に溶け、挑発の残響を残す。最初のコーナー、右へのヘアピン。悠斗は視線をコーナーの出口に縫い付け、アウト-イン-アウトのラインを魂に刻む。外側から滑り込み、体を内側に傾け、バイクと一体化する。外側のペダルを下げ、ホイールが軋みながら加速する。だが、前の選手が内側を詰め、ラインが狭まる。咄嗟に前ブレーキを軽く引き、速度を落とす。彩花は内側を鋭く突き、前方の集団に吸い込まれる。その背中は悠斗を嘲笑う幻影のようだ。

 歯を食いしばり、悠斗はダウンヒルの真髄を噛み締める。度胸が全てを決するこの世界。身体を折り畳み、彩花の背中を追う。視野がトンネルのように狭まり、彼女の完璧なライン取りだけが頼りだった。

 悠斗も続く。肘を曲げ、腕を畳み、空気抵抗を削ぎ落とし、風を切り裂く。時間が粘つくように伸び、後輪が地面を叩くたび、車体が悲鳴を上げる。太ももの筋肉が針で刺されるように疼き、膝の関節が軋む。

 コーナーで前輪がわずかに滑り、体が左に傾く。

「くそっ!」

 体幹で立て直そうと力を込めるが、腹筋に電撃のような痛みが走り、息が詰まる。ペダルから靴を外し、路面を蹴る。踝に鋭い衝撃が響き、大きく膨らんだせいで前方の集団から置き去りにされる。  中盤、連続コーナーゾーン。左、右、左と、蛇の牙のようにカーブが襲いかかる。悠斗はライン取りに全神経を集中させ、視線を数メートル先に固定。バイクは目線の先を忠実に追う。リーンアウトを試み、体を外に傾けつつバイクを内側に倒す。アスファルトの砂利がタイヤを滑らせ、グリップが悲鳴を上げる。前の選手がコーナーで膨らみ、隙が生まれる。悠斗は内側を突き、加速。後輪ブレーキを繊細に引き、滑りを抑える。だが、握り続けたブレーキレバーに指の腱が焼けるように悲鳴を上げ、掌が痺れる。彩花の姿は依然として遠く、差は絶望的に開いている。


 視界が開けた。軽い登りの直線だ。悠斗は重心を前に移し、膝を柔らかく保つ。一心不乱にペダルを回すが、太ももとふくらはぎが溶岩のように燃え、筋繊維が引きちぎられるような激痛に襲われる。この直線を抜ければ、後は下り坂のみ。兄の言葉が脳裏に蘇る。

「バイクを信じろ! ラインを読め!」

 その声に従い直線を突き抜け、緩やかなカーブを曲がる。一人を抜く。観客の叫び声が空を裂く。

 終盤、鬼哭坂の最後の試練——「絶叫カーブ」。半径5メートルの急ヘアピン、砂利と岩が混じる地獄の路面。悠斗はコーナー手前で後輪ブレーキを強く引き、速度を落とす。遠くに彩花の集団が見える。後ろから選手が迫る。悠斗は前傾姿勢を極限まで強め、空気抵抗を最小に。アウトから入り、内側を攻める。だが、落ち葉に乗った前輪が滑り、体が宙に浮く。地面が迫り、転倒の恐怖が脳を貫く。

「悠斗、立て直せ!」

 背後から声が響く。この風斬り音の中で、そんな声が聞こえるはずもない。だが、その幻の声に突き動かされ、悠斗はハンドルを握り直す。掌の皮が擦り剝け、血が滲む感触に歯を食いしばる。体を起こし、リーンアウトでバイクを立て直す。

「外側から入れ! ラインを広げろ!」

 兄がかつて走ったラインが光の道のように浮かび上がる。絶叫カーブの出口で加速。アスファルトの塵と落ち葉を巻き上げ、バイクが咆哮する。

 2年前の兄が転倒した記憶がフラッシュバックする。刹那、目の前にアスファルトの陥没が現れる。数センチの深さ。

「死ぬ!」

 恐怖が全身を焼き尽くす。悠斗はハンドルを引き、前輪を陥没の上に滑らせる。通過した瞬間、後輪が陥没に激突。サドルが股間に食い込み、骨盤を粉砕するような激痛が爆発する。陰嚢が内臓にめり込むような錯覚に、視界が白く燃え上がり、喉から獣のような呻き声が漏れる。尾てい骨から背骨を電流が突き抜け、脳が痺れる。意識が遠のき、バイクが倒れそうになるが、血を吐くような気力でハンドルを握り直す。


 後続の選手に抜かれながら、悠斗は何とかゴールラインを越える。彩花が小馬鹿にした笑みを浮かべて近づく。

「あんた、またやっちゃった? バカじゃない?」

 その言葉は毒矢のようだ。

「うるさい……次は、絶対に勝つ!」

 悠斗の声は悔しさと闘志に震える。夕陽が鬼哭坂を赤く染めていた。

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ダウンヒル あきかん @Gomibako

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