魔女が龍にできること。

みんと

第1話


 人里離れた、時間の流れがゆるやかに感じられる森の奥。

 そこに、エリアナという魔女が、忘れられた薬草や古い物語と共に静かに暮らしていた。


 その夜は、空が裂けるような稲光が走り、森の木々が呻き声を上げるほどの嵐だった。

 エリアナは、家の外にあるささやかな薬草畑を雨から守るため、濡れるのも構わず作業をしていた。

 その時だ。

 風で根こそぎ倒れた大木の陰から、か細い鳴き声が聞こえたのは。


 彼女が松明の灯りを向けると、そこにいたのは小さな龍だった。

 月光をそのまま固めたような、淡い銀の鱗。しかし、その片方の翼はありえない方向に折れ曲がり、体は泥と雨で汚れきっている。

 子供龍は、人間であるエリアナを認めると、恐怖に濡れた瞳で彼女を睨みつけ、威嚇のつもりだろう、ぽすっ、と頼りない煙を吐いた。


 エリアナは、その小さな威嚇に微笑むと、松明を地面に置き、ゆっくりと両手を広げて見せた。


「怖くないわ。痛かったでしょう」


 その穏やかな声に、龍の警戒がほんの少しだけ、和らいだように見えた。


 


 

 エリアナは小さな龍をそっと抱き上げると、家の中へと運んだ。

 暖炉に薪をくべ、火を熾す。ぱちぱちと爆ぜる炎が、冷え切った一人と一匹の体を温め始めた。古い木の匂いと、乾燥した薬草の香りが、家の中を満たしている。


 彼女は、龍を柔らかな毛布で優しく包むと、薬草をすり潰して作った緑色の軟膏を、傷ついた翼に丁寧に塗り込んでいく。派手な治癒魔法ではない。けれど、彼女の指先から伝わる温もりは、どんな魔法よりも龍の心を落ち着かせた。

 それが、彼女にできる最初の「治療」だった。


「あなたの色は、空の色ね。アズール、今日からそれがお前の名前よ」


 いつか、あの青い空を自由に飛べるように。

 そんな願いを込めて、彼女は名付けた。

 アズールと名付けられた子龍は、まだ言葉を返せない。だが、自分に触れるその優しい手を、じっと見つめていた。


 

 


 季節は何度も巡った。

 エリアナはアズールに言葉を教え、森の安全な歩き方を教えた。

 アズールはエリアナによく懐き、彼女が暖炉の前で古い本を読んでいると、その足元に丸まって眠るのが日課になった。寒い朝には、エリアナが起きる前に、小さな炎を噴いて暖炉に火を入れてあげることも覚えた。


 ある晴れた日の午後。

 エリアナが薬草を調合していると、すぐそばでアズールが、彼女の顔をじっと見つめている。


「……エリアナ」


 初めて紡がれた、自分の名前。

 エリアナは驚きに目を見開き、そして、こらえきれずに一筋の涙をこぼしながら、小さなアズールを力いっぱい抱きしめた。


 


 

 さらに十数年の時が流れた。

 エリアナの目尻には細い皺が刻まれ、結い上げた髪には白いものが混じり始めた。

 アズールの体は一回り大きくなり、銀色の鱗は少しだけ輝きを増している。しかし、その姿はまだ成龍には程遠く、瞳には、まだあどけない好奇心が宿っていた。


 その日、エリアナはアズールを森が見渡せる崖の上に連れてきた。


「さあ、飛んでごらんなさい、アズール」


 アズールは、彼女の言葉に応えようと、力いっぱい翼を羽ばたかせ、崖から飛び出した。

 だが、体は風を掴みきれず、数メートルを滑空しただけで、ふわりと地面に着地してしまう。彼は、しょんぼりとした顔でエリアナを見上げた。


 その姿を見て、エリアナの胸に、ちくりとした痛みが走った。

 この子の飛ぶ姿を、私は見届けることができるのだろうか。

 彼女は、胸の奥に芽生えた寂しさを隠すように、アズールに駆け寄り、その頭を優しく撫でた。


「大丈夫よ。いつかきっと、あの雲の上まで飛べるようになるわ」


 その約束が、遠い未来の彼女の後悔になることを、まだ誰も知らなかった。


 

 


 さらに数十年が過ぎ、エリアナはすっかり腰の曲がった老婆になった。

 アズールの体は、もう彼女の小さな家には収まりきらない。彼は家のすぐ外で、主を守る番人のように、静かに眠るのが常だった。


 エリアナが熱を出して動けない日には、アズールが森で熟した果物を探してきたり、その巨体で北風から彼女の家を庇ったりした。かつて彼女がしたように、今度はアズールが、エリアナの世話を焼いていた。


 ある月夜のことだった。

 エリアナはベッドから身を起こし、窓の外にいるアズールに、夜空の星々を指さしながら語りかける。


「ごらん、アズール。あの一番明るい星は、昔、道に迷った旅人を導いたという星よ」

「それから、あの七つの星はね。喧嘩ばかりしていた龍の兄弟の物語が……」


 もう、自分の足で、彼を世界の果てまで連れていくことはできない。

 物語を語り聞かせること。

 それが、今の彼女にできる、精一杯のことだった。


 


 

 エリアナの命の灯火が、いよいよ消えかけようとしていた。

 彼女はベッドに横たわり、その目は、窓の外で心配そうに自分を見つめる、アズールの巨大な顔を、ぼんやりと映していた。


(広い海も、雪の山も、見せてあげられなかった……)

(お前が、空を駆ける姿も、見たかった……)

(ごめんね、アズール。私には、人間には……時間が……足りなかった……)


 穏やかな後悔と共に、エリアナは静かに目を閉じた。


 彼女の気配が、ふつりと消えた。

 アズールはそれを悟ると、静かに目を伏せる。

 彼の心に浮かぶのは、見ることができなかった未来ではない。与えられた、温かい過去の全てだった。


(エリアナ)

(あなたは僕に、世界のすべてをくれた)

(傷を癒やす温もりを、優しい子守唄を、そして、愛を)

(ありがとう。僕の時間は、あなたのおかげで、ずっと満たされていたよ)


 アズールは、夜が明けるまで、動かなくなった家の窓を、ただ静かに、見つめ続けていた。


 

 


 幾星霜ののち。

 かつてエリアナの家があった場所は、今は森に還り、苔むした小さな墓石だけが、時の流れを伝えている。


 空を引き裂くように、月光の銀を全身にまとった、壮麗な一頭の成龍が静かに舞い降りた。

 アズールだ。

 彼は、その巨大な頭を恭しく下げ、墓石の前に、世界の頂でしか咲かないという、淡く光を放つ花をそっと供えた。


 そして、空を見上げ、深く、優しく、そして誇らしい声で呟いた。


「エリアナ。僕は今日、あなたが話してくれた星々の海を泳いできたよ」

「あなたがくれたこの命で、この翼で」

「……ありがとう。僕の、たった一人の、魔女おかあさん


 壮麗な龍は、小さな墓石に優しく寄り添う。

 まるで、永い時を超えて、あの日と同じように、彼女の温もりを確かめるかのように。

 その姿を、森の木々が、ただ静かに見守っていた。













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魔女が龍にできること。 みんと @MintoTsukino

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