ネオンを盗んだ清掃員の話
倉住霜秋
第1話
国民の弛まぬ努力のお陰で、空は化学物質の黒い雲に覆われた。
もし、星空が無料で見られるなら、とても幸運なことだと思ったほうがいい。
昔は、都会の空でも星々がまたたいているのが見えた。
あの頃はよかった。
僕が生きる時代は、空に分厚い汚染物質の層が出来てしまって、空はずっと曇りのような天気になってしまった。
そうすると、星なんかが見えるはずもないから、政府は星を見るための巨大な公営のプラネタリウムを作って、星を見たことのない世代にも星の美しさを伝えていこうとした。
そこで清掃員として働く星が谷という男は、夜勤勤務が多く、誰も居なくなったプラネタリウムを結構自由に使っていた。
元々は、星座の研究員として働いていたのだが、政府が研究費を打ち止めしたことにより、彼は職を失った。
そこで、この公営のプラネタリウム【ミッドナイト・ドーム】の建設に携わっていた上司の助けもあり、この場所で清掃員として働くことになったのだ。
深夜二時、星が谷は観客がいなくなったドームの電源を落とした。
その時、客席に一人の少女が残っていることに気が付く。
「すいません。寝ちゃってました」
濡れた前髪、星座図のタオル。
「時間だ。外に出ろ」
「外は工事音で眠れないんです。
それに、星がないともっと眠れない」
少女の名前はソラ、15歳。
ソラは穴の開いたコピー用紙を差し出す。
懐中電灯のライトを後ろからあてると、壁にばらばらの星が映る。
「雑な配置だ」
「本物を見たことがないんです」
「図鑑で調べればわかるだろ」
「図鑑はまたたきません」
星が谷は舌打ちをした。
旧式のレンズを取り付けて、投影機を再起動させる。
雨漏りの水滴がレンズを屈折させ、
シアンから白、紫の彗星が
ドームの天井を走る。
ソラは息をのんで目を輝かせる。
「きれい……」
星が谷の胸も軋む。
かつて師と呼んだ人が最後に残したデータと重なる。
「星には願いを込めるんだ」
「なら、私の病を治してほしいです」
「病気なのか?」
「星空欠乏症です」
「なんだそりゃ」
「今考えました」
自分もその病に罹っているかもしれないと星が谷は思った。
しかし、それは口には出さなかった。
「処方箋はここでもらえますか?」
「いま、在庫を切らしてる」
それでも彼はソラを追い出さなかった。
なんだか星欠乏症という言葉が気に入って、彼女の面倒を見ることにした。
翌晩からソラは清掃を手伝いながら居座った。
ドームの雨漏りは日に日に悪化していき、
床には大きな水たまりが出来ていた。
そこに上映された星が逆さまに映った。
深夜三時、無音と心拍だけが聞こえる。
ソラは星についての多くのことを星が谷に聞いた。
彼はぶっきらぼうに一つ一つの質問に答えた。
「ねえ、星が谷さん。
ここで働いていて楽しいですか?」
モップを動かす手を止めずに、星が谷は乾いた声で答える。
「微妙だな。ここの空は人が作ったものだ。
本物の星空はもっと壮大で綺麗だ。
ここのは等級が-2までに絞られてるからな。
目がよけりゃ本物はもっと明るく見えるよ」
「本物の星、いつか見てみたいです」
「この場所で居眠りする奴には厳しいかもな」
「そんな人もいるんですね。
私は寝てないですけど」
二人が清掃を終えると、ドームは雨漏りの音だけが響く静寂に包まれていた。
ソラはモップを片付けながら、星が谷に視線を向けた。
「あの、星のことちゃんと好きなんですか?」
星が谷は投影機のレンズの点検しながら、少し考える様に息をつく。
「……好きと言うより、一番長く関わってきたものだな」
「いえ、星のことに詳しいのに、あんまり楽しそうじゃないから」
星が谷は眉間に皺を寄せる。「これは仕事だからな、楽しむ余裕なんてないよ」
「なら、星が谷さんにも好きな星座はありますか?」
「星座?」と聞き返し、星が谷の顔が少し柔らかくなる。
「昔は、冬の星座を意味もなくずっと見ていた気がするな」
「冬の星?」
「シリウス、ベテルギウス。プロキオン、冬の大三角形ってやつだ」
ソラは自分が持つ、穴の開いた画用紙をなぞる。
「その星には何か意味があるんですか?」
「ああ、もちろんある。
昔に生きた人らは、星をただの光の粒じゃなくて、
物語として見たんだ」
「星に物語があるんですね」
星が谷はソラの画用紙を裏からライトで照らして、指でなぞる。
「例えば、オリオン座は狩人の星座だ。
戦って、最期はサソリに刺されて命を落とすんだ」
「えっ……悲しいですね」
「夜空に物語を見出すやつは悲観主義者なんだ」
ソラは何も移さなドームの天井を見上げて考えこむ。
「でも、きっとその人はロマンチストですよ。
その星がこの街の上にあるんですよね」
「そうだ……分厚い化学物質の雲とネオンのせいで見えないけどな」
「願っていたら、いつか見えるんでしょうか?」
星が谷は煙草に火を点けて、煙を吐く。
「願いは繋いでいくものだ。ただ願うだけじゃ叶わない。
でも、願い続ける奴がいれば、それを見せる奴もいる」
暗闇の中で、赤く小さな煙草の火種が星が谷の手の動きに合わせて動く。
ソラは星が谷の言葉をゆっくりと飲み込んで、にこりと笑う。
「私、彗星が見てみたいです!」
星が谷は小さく笑いながら煙草を一吸いする。
「できる範囲でな……」
少し経ったある日、とある女が星が谷を訪ねてやって来た。
その女は星が谷と同年代のように見えた。
お互い砕けた口調で話しているのを見て、旧知の中なのだとソラは思った。
くたびれたスーツに深い隈が刻まれた顔には生気はない。
二人はどこか険しい顔をしてなにか大事なことを話し合っているような雰囲気が漂っていた。
ソラはそれがなんだか怖くて、掃除する手を止めて、星が谷がいつも読んでいる雑誌をこっそりと借りて、ドームの隅でページを広げた。
「……あれ?」
やがて、星が谷が女との話が終わって、ソラのほうに戻ってくる。
ソラは星が谷が近づいてくるのに気が付いて、顔を上げてニヤリと笑う。
「星が谷さんって、星座占いとか信じるタイプなんですね」
ソラは付箋が張られたページを指す。
星が谷は一瞬動きを止めた。
「……いや、それは違う」
「いつも、なにを見ているのか気になっていたんですよ」
「たまたまそのページの別の記事が気になったんだ」
「うそです。だって、このページ占いしか載ってないですよ!」
星が谷は観念したように、ソラから雑誌を取り上げた。
「……まあ、少し気になることが書いてあっただけだ」
「なにが書いてあったんですか?」
「かに座は『今日は人に笑われるのが吉』ってな」
ソラは吹き出しそうになるのを堪えながら、モップを抱えた。
「へえ、星が谷さんって、占いとか信じるタイプなんですね」
星が谷は軽くため息をつきながら、ソラの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「……ほら、片付けて帰るぞ」
ソラは楽しそうに笑いながら、モップの先で床の水鏡に映る星をなぞる。
「じゃあ、明日の運勢もチェックしておきましょう!」
「しない」
「絶対しますよね」
「……帰るぞ」
夜が更けてきて、ドームには小さな笑い声が残る。
その静寂の中に響く音は、まるで夜空に瞬く星の光のように小さくかわいらしいものだった。
「そういえば、さっきは何の話をしていたんですか?」
プラネタリウムを出て、ソラが無邪気な顔で質問をする。
星が谷の顔はその質問に対して、とても険しい顔になる。
「あまり俺たちにとっては、良くないニュースが入ってきてな」
星が谷の苦しそうな表情を見て、ソラはそれ以上は聞けなかった。
なにかを恨むような感情がにじみ出ているような顔だった。
しかし、次の日にはソラはその理由を知ることになる。
【ミッドナイト・ドーム閉鎖のお知らせ】
次の日、ソラがプラネタリウムに来ると張り紙がされていた。
ソラはその張り紙を引きちぎって星が谷の持って行った。
「星が谷さん、なんですかこれ!」
星が谷はソラの持つくしゃくしゃになった紙を広げて、深いため息をつく。
「今月の30日からリニューアルすることになっているらしい」
「リニューアル?」とソラはキョトンとした顔をした。
「なら、ちょっとの間、締まるだけなんですか?」
「いや、もう俺たちはここで働くことはできなくなる。
LEDの会社が買い取って、その会社が運営することになった」
「なら、その会社に入ればここで働けるんですか?」
「ソラは、広告を星の上から映す会社で働きたいか?」
ソラは黙った。
星を愛する者が最後に縋るこの場所に、ハンバーガーの広告が被さるなんて、夢も希望もないじゃないか。
「だから、俺たちがここで働けるのも、30日が最後になるな」
「なら私、ペルセウス流星群が見たいです」
「わかった。けど、流星群は政府の検閲に引っ掛かる」
「どうしても見たいんです」
「なにか思い入れがあるのか?」
「幼い頃にお母さんと見に行ったことがあるんです」
「ソラの母親か」
星が谷は誰も居ないドームのなにも映していない天井を眺めて、少し考えてから言う。
「わかった」
彼は封印された旧サーバを開き、壊れた流星群のデータを修復する。
そして、彼の師匠が託したデータも同時に復旧させる。
閉館前夜、深夜二時半。
ドーム内には、まばらに人がいる。
ソラと星が谷は並んでドームを見上げる。
なんの音楽もなく流れていた星空に、一筋の流れ星が見えた。
「あっ!」とソラが短い歓声を上げる。
それを皮切りにいくつもの流れ星がソラ達の上に映し出される。
星が谷が横目でソラの顔をこっそりと覗くと、その目は目の前に広がる流星群に釘付けになっている。
それが小さい頃に星の図鑑に釘付けになっていた自分と重なって懐かしくなる。
流星群がだんだんと少なくなってくると、ソラは少し寂し気に俯く。
しかし次の瞬間、観客の誰かが声を上げる。
「おい、あれ!」
反射的に見上げると、そこには大きな彗星があった。
「お母さん……」とソラは小さく声を漏らす。
星が谷には、その彗星があまり見えなかった。
あんまりにも美しくて何度見ても、涙がにじんで視界がぼやける。
その隣のソラも星空を見上げて静かに泣いていた。
星が谷は胸の中が優しく温かいもので満たされた。
上映が終わると、ソラは幸せな余韻に浸っているようだった。
「本当にありがとうございました。
こんなにも素敵なものを見れるなんて……」
星が谷は優しく微笑み、カバンの中からあるものを取り出す。
「お礼を言うのはこっちのほうだ。
それと、お前に渡したいものがある」
古びた星座早見盤。
それは星が谷が、失踪した師匠から最後に渡されて、大事に保管していたものだった。
いつか返したくて、ずっと帰りを待っていた。
「処方箋が見つかってな」
そう言って、星座早見盤をソラに渡す。
ソラは泣きはらした目を見開いて驚いている。
「今日のハレー彗星は、師匠が残したものを復元したものだ。
俺ももう一度見たかったんだ」
ソラの目に再び涙が溜まる。
浅い呼吸をしながら、今にも崩れ泣きそうに。
「お母さんはどこに行ったんですか!」
「あの人は星になったよ」
「それって……」
「しっかり燃え尽きたよ」
一人の女性が星が谷達の元に近づいてくる。
「そのくらいにしておきな。
そんなこと、女の子に伝えなくてもいいことさ」
その人は以前、星が谷が親しそうに話していた女性だった。
相変わらず、くたびれたスーツを着ているが、今日は少しだけ化粧をしていた。
「この子のことは私に任せて、早く行きな」
ありがとうと言って、星が谷は出口のほうに歩き出す。
ソラが星が谷の手を掴む。
「まってください、これからどこへ行くんですか?」
星が谷は、笑って答える。
「俺は、師匠よりもっと大きく燃え尽きるつもりだ」
そして、ソラの頭を撫でる。
「お前も本物の星をいずれ探しに行け」
そう言って星が谷はミッドナイトドームの制御室に向かった。
その夜、街全体が停電しネオンが消え、厚い雲が消えることになる。
それが一人の男が計画したことだというから、世間は大きく騒いだ。
その事件により、ミッドナイトドームの屋根上に取り付けられていたアンテナに似せて作られたものが、スモッグを街の空に散布する装置であることが判明する。
この分厚い雲が一部の権力者によって、意図的に作られていたことに世間は怒った。
その男は清掃員として、ミッドナイトドームで働き、独自にその施設について調査していたらしい。
「星が谷、都会じゃあんまり見えないや」
くたびれたスーツを着た女は、ソラを連れてこの街で一番星が良く見える場所にいた。
ソラは目を見開いて、一秒でも自分の前に広がる空を焼き付けようと必死になっていた。
「これが本物の星……」
「そ、星が谷とあんたの母親が見せたがった景色」
一夜だけ開いた闇の隙間が、彼女の胸に一生消えない輝きを残したのだ。
ソラはくたびれた女と暮らすことになった。
翌朝、ソラが机の上に手に取った新聞の一面には、はっきりとこう刻まれていた。
【星空消痕事件──深夜の闇を裂いた不法星空投影】
見開きの見出しとともに載る写真は、闇に沈むドームの制御室。 星が谷の手元で赤く輝くスイッチと、背後にほんの一瞬だけ映った本物の星空。 記事は冷淡に事実を並べるだけだが、ソラの胸には、その余韻がいつまでも残った。
「私も、あなたの残光を頼りに進みます」
いつか、この小さい声がこの街の淀んだ夜空を震わせるとき、停滞した黒い雲がほころび、はるか昔の記憶が一滴、彼女の掌に落ちるだろう。
夜空の再生を、誰よりも彼女は一番に見届けることになる。
ネオンを盗んだ清掃員の話 倉住霜秋 @natumeyamato
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