初恋

ʚ傷心なうɞ

初恋

 数年前、具体的には七年前の、二〇十八年。

 高校生だった俺は、初恋を経験した。彼女を一目見た瞬間、彼女と出会うために産まれてきたのかと思ってしまうぐらいに、魅了されてしまったのだ。

 俺はそれから、彼女のことを想い続けた。

 その想いは俺の身体を突き動かし、やがて。

 赤い糸で結ばれるとまではいかずとも、ずっと近くにいられるようになった。

 俺はリビングの椅子に座って、隣の彼女へと目を向けた。彼女の姿が目に入る。息を呑む美麗な茶髪と、その中で青薔薇のように爽やかな青さを健気に発する髪飾り。

 優しく微笑んだ彼女の顔を見ていると、気づけば彼女と出会った時のことを思い返していた。




 

 七月の終わり頃から、名古屋市の美術館で開かれた展覧会。俺は、そこにいた。

 元より美術作品や芸術というものが好きであり、普段から通っていた近所の美術館だったので立ち寄った次第だった。そこでは、これまで国内未公開であった美術作品数十点を一挙に公開しており、館内では実に多くの人間が鑑賞を楽しんでいた。

 俺はそんな中で、壁にかけられた絵画を眺め歩いていた。

 セザンヌの、『赤いチョッキの少年』。モネの、『睡蓮の池、緑の反映』。ゴッホの、『花咲くマロニエの枝』――

 そこには、素敵に美麗な作品の数々があった。それぞれが輝き、それぞれの世界を、作者の美学を。現していた……なんて、かっこつけた言葉を使ってみる。

 実際のところ、俺の語彙はそれらの印象を表現するにはあまりに貧相で、無理に語ろうとするのは失礼に値してしまうのだった。ただ、それぐらいまばゆく、あでやかで、恍惚こうこつしてしまう作品達だったのは確かに言えた。

 そして、俺が幾分か歩いた頃。


 壁際に佇んでいた彼女が見えた。


 静かに、凛と、華奢な体躯で。可憐な雰囲気と、芯のある強さを併せ持ったような、そんな姿だった。その目線は反対側の壁の絵画へと向いており、見蕩れたように、動かないままでいた。

 俺は、その様に見蕩れていた。

 心の内から桃色の奔流が込み上げて、辺り一面に桜でも咲き誇ったような心地良さを感じていた。

 俺は思わず、彼女へと急速に歩を進めた。しかし途中で気恥しさが生まれ、結局やや離れた場所から彼女のことを眺めた。他の作品そっちのけで彼女を視界の中心に捉えたまま、俺も動かないままになってしまった。

 多くの人の足音では鼓膜は揺れず、その時その空間限りは、俺と彼女だけでそこに存在したように感じられていた。

 俺は、それぐらいに恋をしていた。

 身体を巡る奔流は、やがて全身を支配した。脊髄に、脳に、至る所に。その衝動とも言える流れが、俺の身体の主導権を握っていた。

 そして。

「あの――!」

 俺は、ついに話しかけた。場所を鑑みて声量はなるだけ抑えたつもりだったが、身を突き動かす衝動の支配は困難で、少々張った声になってしまった。興奮した様子だったから、怖がらせてしまったかもしれない。変な人だと思われたかもしれない。

 ただ当時はそんなことも脳の片隅に追いやり、俺は幾度も質問をした。彼女について知りたくて、頭に浮かぶままに口を開いていた。

 それでも、答えてくれた。

 彼女は、スイスから来たとのことだった。この展覧会が理由のようで、展覧会の期間が終わる二ヶ月後にはまたスイスに戻る、ということだった。

「……戻っちゃうんですか?」

 外国から日本へ来たとあらばその国へ戻るのは当然なのだが、俺はどうにも受け入れ難くて問いかけた。しかし返答は、「はい。ずっと、という訳にはいきませんから」だった。告げられたその事実に、思わず俯いて顔を少々しかめる。ただ俺はゆっくりと面を上げ、再び問いかけた。

「っと……戻るまでは、ずっとここにいるんですか?」

 その疑問を投げかけると、少々怪訝な顔をされた。かけられた言葉を噛み砕いているような表情で、しかしそれはすぐに元に戻って、俺へ口を開いた。

「ええ、期間中はずっとここです」

 俺はその言葉に、少しの安堵を覚えた。彼女は確かに二ヶ月経てば戻ってはしまうが、それまでは常にここにいると。

 つまり、展覧会の期間中はいつでも彼女に会える。

 そんな事実に再び安堵し、俺は息を吐いた。それと同時、館内には放送が流れた。

『間もなく、閉館時間となります。来館者の皆様は、速やかにご退館ください』

 近くの壁に設置された時計を見てみれば、示されていた時刻は十七時二十五分。三十分が閉館時刻だったことを思い出し、会話に応じてくれた感謝といきなり変なことを聞いた謝罪の意味を込めて一礼をした後に、美術館を去った。

 正直言えばずっと彼女のそばで話していたくもあったが、さすがに閉館時間を過ぎてまでそばに居続けるのは不審者過ぎるので止めておいたのだった。



 そして、出会いから二ヶ月。

 平日は学校が終わればすぐに向かい、休日は開館時間から閉館時間まで。俺はそんな生活を送っていた。彼女に会いたくて、彼女のことを知りたくて。だから、辛いなんて脳に浮かぶこともなかった。

 そして彼女は、やはり毎日そこにいた。いつも同じ場所で、同じ方向を眺めていた。

 して、展覧会最終日で月曜日の今日。十七時を少し過ぎた今も変わらず、俺は彼女の近くにいた。

「今日で、終わりですか……戻っちゃうんですよね、スイス」

 俺はまたしてもいつも通り、でも、いつもとは少し違う言葉を吐く。

「……はい。でも、仕方の無いことですから」

 俺は今までにも、こんな不安の言葉を吐いたことがあった。あとなん日で終わりなんですよね、とか。

 何度も言っていたものだから、もしかしたら嫌がられていた所もあるかもしれない。

 でも、それだけ俺は彼女と離れるのが嫌だった。

 ずっと近くで、寄り添っていたかった。

 どうしたら、彼女とこのままいられるだろうか。

 甘酸っぱい初恋気分の中で、儚い願いに頭を巡らせる。

「……っ…………」

 言いたいことは、既に固まっていた。でも、言い出すには少々勇気が必要だった。

 大好きな彼女と、共に時間を過ごしたいという願望。

 正直に伝えれば、叶うだろうか。 

 俺は、ついにその言葉を口にした。

「俺に……くれませんか」

 抜けない気恥しさから、なんだか結婚の挨拶みたいな台詞になってしまった。『これからも一緒にいたい』という意味は、伝わっただろうか。

 俺は彼女の顔を見る。

 一寸も変わらず、微笑んだままであった。

 いつもの事実を認識した後、言葉を待つ。

 音が、鼓膜を揺らした。

「……それは、できないんです。申し訳ありません。戻らなきゃいけない場所がありますから」

 放たれたのは、それだけだった。だが当然のことだ。彼女は、ずっとここにいる訳にはいかないから。この展覧会が終われば、戻らなければいけないから。

 そんなことを考えていると、俺は気づけば俯いてしまっていた。

「でも、その気持ちは私としても嬉しいです。……どうにかならないでしょうか」

 その言葉で、心の中に光が宿ったような気がした。俺を拒絶せず、どうにか関係を保てないかと思案してくれたのだ。

 俺と彼女の間の赤い糸は、二人の共通認識となったと言えた。……それは少し言い過ぎかもしれないけど、でも。確かに、俺の気持ちを認めてくれたのだ。

 俺は一度、面を上げた。

 彼女を見つつ、俺自身も方法はないものかと思考してみた。

 だが、幾度思考を繰り返せどその術は見当たらなかった。彼女が戻ってしまうのは、どうしたって止められないことだと改めて思い知らされた。

 やがて、頭の中には諦観が湧き上がった。

 仕方のないことなのだ。彼女を引き止めるなんてのは、無理な話なのだ。俺だけの我儘で、彼女を止めてはならんのだ。

 大人しく認めたくはない、だが。

 俺程度の一般客では、止められないのだ。

 終ぞ、口を開いてしまった。

「……すみません、変なこと言っちゃって。今まで、楽しかったです。だからもう――」

 俺はそう言いながら、もうすぐ閉館時間だからと帰ろうとした。もう会えないという現実は変わらないのだから、潔く身を引こう、と。

 だが、引き止めるように鼓膜は揺らされた。

「……待ってください! 一つ、思い出しました」

 かけられたのは、予想外な言葉だった。一瞬何が何やら分からなかったが、何かしらのチャンスであることは間違いないだろうと思った。

 俺は耳を傾け、次なる返答を待つ。

「――、――。――――なんですが……どうです? これなら、多少違えどずっと傍にいられるかと」

「……! あるんですか?」

「はい。少し前のものになりますが」

 それは、ちょっと歪な関係の提案だった。

 彼女が戻るという事実は、前述の通り止めようのないことだ。

 だから、せめて存在を感じられるものを近くに置かないか、という提案だった。赤い糸を、解けぬように留めておかないか、ということだった。

 たとえ距離が離れたまま一生が終わろうとも、繋がっている事実だけは不変のものにしよう、と。

 俺は、提案の意味をそう解釈した。

 直ぐに、提案を承諾した。

 




「……いつか、スイスにも行ってみてください。そこでもこの二ヶ月と同じように、居るはずですから」

 そんな言葉と共に、一枚それは手渡された。

 彼女の表情がまるで実物のように鮮明に存在する、もはや彼女自身と言ってもよいぐらいのものだった。

 俺は両手でしかと持ち、やはり拭いきれない寂しさと共に美術館を後にする。


 凛と座り、どこかを眺める彼女の姿。

 

 帰り道。夕焼けを弾く涙越し。少し軽くなった身体で歩いて、それをずっと見ていた。

 




 俺はそれから、三回ほどスイスを訪れた。本当ならば、毎年でも毎月でも毎週でも毎日でも行きたかった。なんなら、移住してやろうかとさえ思った。だが飛行機というのは皆馬鹿に値段が高いし、俺は英語も流暢に話せなければドイツ語やフランス語だって上手く話せなかったため、それらは単なる願望で終わったのだった。

 そんなことも思い出しつつ、再び意識を今に戻す。

 横を見れば、当然彼女自身はいなかった。追憶にあった通り、そこにいたのは彼女の面影のようなものだけなのだ。

 だが、それを見ているだけで彼女のことを感じられる。

 だから、寂しさは僅少だった。

 ……そう。やはり僅かには、寂しさはあるのだ。いつまでもこの初恋は忘れられないし、本物を見なきゃ満たされない。

 学芸員さんから話を聞いていたって、複製画を見たって、足りないのだ。

「はぁ……」

 ため息を吐き、満たされぬ恋情を嘆く。

 でも、仕方の無いことだ。


 俺は、絵画に恋をしてしまったのだから。

 イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢。

 貴方に恋をしてしまったのだから。



初恋 完


※この物語はフィクションです。実在する人物・団体・事件などとは関係ありません。万が一、類似する事象があっても、それは偶然であり、意図したものではありません。また、この物語では一部実在の固有名詞を用いていますが、現実のものとは一切関係ありません。


(以下、参照)

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」 (2024年11月23日(土) 9:31 UTCの版) 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』 


URL https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AC%A2

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