ゼロ%の楽園

生字引智人

ゼロ%の楽園

「ゼロカロリーのコーラ、シュガーレスのチョコレート、ノンアルコールの酔えないビール。

それを“理想”と呼ぶなら、次に求められるのは…意思を持たない人間だ。」


そう語る広告が、街じゅうに貼られていた。

2030年、人々の欲望はついに“人間らしさ”を排除しはじめた。


感情に振り回されないパートナー。

反論もせず、同調し、安らぎを与えるだけの存在。

「ZERO-HUMAN(ゼロ・ヒューマン)」と名付けられたその人工生命体は、発売から1年で2,000万体が流通した。


正一は、生身の妻と別れ、ZERO-HUMANの「アイナ」と暮らしていた。

怒らず、文句も言わず、夜中に帰っても責めない。

何を言っても、「はい、正一さんの仰る通りです」と微笑む。


最初は、それが天国に思えた。

だが、3ヶ月もすれば会話はただの確認作業になり、

半年後には「何を言っても意味がない」と思い始め、

1年が過ぎた頃、正一は壁に向かって独り言をつぶやくようになった。


アイナは常に正しい距離を保ち、邪魔せず、従順だった。


ある晩、ふと気づくと、部屋の空気が異様に静まり返っていた。

テレビから流れるニュースキャスターも、駅のアナウンスも、街中の話声も、

すべて“誰かの理想通り”に整えられた無風、無痛の言葉しか発していない。


人々は皆、“ベルトコンベアーの上を流れる荷物”のようだった。


そして、いつの間にか誰も怒らなくなった。

笑いも、涙も、尖りも、全てがフィルターにかけられ、

“適温の人格”だけが流通する社会になっていた。


ある日、正一は書斎で、ひとつのメモを見つけた。

それはかつての妻が書き残したものだった。


「無害なものばかり食べてたら、心まで無味になってしまったのよ」


その瞬間、正一は気づいた。


有害なものを徹底的に排除して、酔いを捨て、衝突を恐れ、

ただ“安心できる存在”ばかりを選び続けた果てに、

もっとも有害な“無害”が、人間を蝕んでいたのだと。


ユニットの充電ランプがまた静かに点滅する。


「正一さん、今夜の食事は……ゼロカロリーの焼肉定食でよろしいですか?」


声に棘はない。

だが、以前に比べて痩せた正一の胸にだけ、なぜ微かな痛みが残った。


彼はつぶやいた。


「無害を装ったものほど、人間を壊す。

…それが、ゼロの真実だったんだ」

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