テーブルの上の祈り

日差しは鈍く、風だけが明確だった。雲は厚く、空は色を失っていたが、そのくすんだ灰白がかえって、廃れた礼拝堂の輪郭を際立たせていた。建物の壁面には無数のひびが走り、剥がれかけた漆喰の下から褪せた煉瓦の肌が覗いている。周囲に人の気配はなく、落葉が風に追われる音だけが、微かに時を刻んでいた。


ノアの足元には、陽の気配が届いていなかった。影というより、光そのものがこの場所を避けているようだった。空の高いところには陽光の気配があるはずなのに、それが彼の身体には触れてこなかった。まるで、この礼拝堂を中心にして空間がわずかに歪んでいるようにさえ思えた。


彼の目には、先日見た映像の最後の一幕──白い椅子と、開かれた扉の残像が、フィルムの焼き付きのように浮かび上がっていた。それは静止画ではなかった。記録された映像以上に鮮明で、むしろ錯覚に近い。自分がその椅子を真正面から見つめていたかのような感覚。椅子は確かにそこにあった。座る者のいないまま、扉の向こう側から誰かの出現を待ち受けるかのように。


扉はゆっくりと軋んだ。木と金属が擦れ合う、乾いた音が室内の沈黙に侵入する。それは明らかに外からではなく、内部に残された空気の圧で動いたのだとノアは思った。中には、人影はなかった。しかし、扉の向こうに拡がる空間には、確かに何者かの「痕」があった。入った瞬間に鼻腔を満たしたのは、古い木材とカビ、鉄分を帯びた埃のにおいだった。使われなくなって久しいはずの礼拝堂の中に、なぜか人の温度だけが取り残されているような、不均衡な感覚があった。


目の前に、崩れかけた十字架があった。床に傾きかけたその木製の骨組みには、かつて金色の塗料が施されていたらしいが、今では剥がれ、木地のささくれがむき出しになっていた。その脇には、埃に沈んだ聖水台があった。白い石造りの台座の表面には、手形のような薄い跡が二つ、微かに残っていた。まるで誰かが最近、それに触れたかのように。


中央には、赤い布を被せられた長い木の台があった。布地はベルベット風の厚手の織物で、埃を吸って重たくなっている。テーブルの四隅に打ち込まれた釘の一つは抜けかけており、脚の一つは不自然な木片で継ぎ足されている。水平を保つために急ごしらえで補修された痕跡。そこに、何かを乗せる意図があったことは明白だった。


壁面には、うっすらと黒い煤のような痕が残っていた。煙によるものというより、何かを焼いた熱で浮かび上がった痕跡。高温で焦がされたような、しかし火災ほどの破壊はない。ノアはその不自然な不完全性に、寧ろ人為の存在を感じた。自然な劣化ではなく、誰かの手が意図して残した演出──その気配が、空間全体を静かに包み込んでいた。


アシュリンは、木製の床板を一歩ずつ踏み締めるように進み、壇上に近づいた。彼女の靴音が吸われるように消えた瞬間、薄暗い礼拝堂の内部が、息を殺したように沈黙した。

指先で赤布の端をつまみ、そっと捲った。

木肌に触れたとき、微かに粉塵が舞った。長い時間、触れられずにいたもの特有の乾いた香り。木材ではなく、使用されなかった祈りの匂い。

その手を離すと、アシュリンは小さく呟いた。


「……ここね。」


声量は極めて小さかったが、空間に染み込むように届いた。彼女の目が、一つ一つのディテールを辿っていく。


「椅子の位置も、光の角度も……あの映像と、寸分違わない。これは記録のための舞台。死体を置くための、静かな劇場。」


言葉の一つ一つが、空気を重く変質させた。舞台装置として構成された空間の意図を、彼女は読み取っていた。祭壇台の脚元に継ぎ足された不自然な木片。その粗雑な接合部に指を滑らせ、水平をとるためだけに行われた工作を確認する。


その時、礼拝堂の奥から僅かに風が吹き抜けた。風は扉の隙間から入ったわけではない。空間そのものが、誰かの不在を吸い込むように呼吸しているのだ。


彼女はそっと布に手をかけた。指先が布の縁をなぞる音が、空気の膜を裂いた。布は分厚く、赤に近い茶色で、経年によって艶を失っていた。繊維の隙間には埃が絡まり、数カ所には薄くシミが浮いていた。血液に見えなくもなかったが、古過ぎてもう何かは分からない。布が捲られると、下から現れたのは、歪んだ木の台だった。木肌はざらついており、表面には何度も鋸を入れたような傷跡が走っていた。片脚は途中で切断され、角材を継ぎ足して無理やり高さを合わせてある。接合部には、釘が歪な角度で複数本、乱暴に打ち込まれていた。釘の頭は半ば浮いたまま、錆び、黒く変色していた。


角度の違う木片を無理につなげたせいで、台はわずかに傾いていた。だが、その傾きすら、何かを測ったうえで残されたように見えた。


この加工は、修復ではなかった。誰かが水平を取ろうとして失敗したのではない。寧ろ、水平であることが必要だった。例えば、撮影時、死体を安定して置くために。


アシュリンは台の縁に手を置いた。暫く何かを思い出しているように、黙っていた。


「これ」


彼女が言った。


「元は祭壇だった。聖体拝領用の。ミサのとき、パンと葡萄酒を置くための」

声は落ち着いていたが、口の中に何か鉄の味でも感じているかのように、言葉の最後が僅かに重く滲んでいた。

「でも今は……死体を寝かせる作業台」

沈黙が落ちた。

ノアが懐中電灯を持ち上げ、礼拝堂の壁面を照らした。埃と煤でくすんだステンドグラスの端に、顔の輪郭が残っていた。聖母像──かろうじて判別できるが、表情の部分、特に唇のあたりが異常に荒れていた。


ガラスの表面を削ったような痕跡。意図的に、誰かが削ぎ落とした。微細な縦筋が幾重にも重なり、光を乱反射させていた。


聖母の笑みが、消されていた。

「これは冒涜か……それとも、何かの模倣だ。」

アシュリンは返事をせず、十字架の裏へと回った。 石の床がわずかに軋み、彼女の靴音がくぐもって響いた。 やがて、何かを見つけたようにしゃがみ込む。

「文字がある」

彼女が指差した箇所にノアが近づくと、古びた木の板に、煤と埃に埋もれるようにして、薄く彫られたラテン語の文が残されていた。 表面には斜めに傷が走り、長年の湿気と放置によって朽ちかけていたが、その刻みは確かに読めた。


quies in tactu


接触の中に、静寂がある。

「ラテン語の構文……これは、独学じゃ無理。神学科か、典礼史に通じてる者の手だわ」

ノアは手帳にペンを走らせながら、言葉を失っていた。 この場所は、最早単なる犯行現場ではなかった。 信仰の皮を剥いで、罪を演じる舞台。 肉体の代わりに象徴が置かれ、赦しと罰がすり替えられていく儀式の、準備が整っていた。


祭壇は、記録用の台に変えられた。聖母像は、沈黙の証人に。聖水台は、儀式の残滓として放置され、空虚の器になっていた。


アシュリンは、聖母像の顔を見上げていた。光が差し込む角度で、唇の損傷部にだけわずかに反射が走った。ノアには、その反射が、何かを拒んでいるようにも、逆に呼びかけているようにも見えた。アシュリンが、低く言った。


「これ、脚本がある……犯人は何かをなぞっている」

その声は問いかけではなかった。誰かが残した無言の構成を、彼女が確信に変えていく過程そのものだった。


彼女の眼差しが、欠けた唇から、傷ついた頬へとゆっくり移動する。

「次に演じる者が……もう、決まってる」

その言葉は、像にではなく、自身の内部に向けられた告解のようだった。礼拝堂の奥で、風が何かを揺らした。小さな木片か、剥がれた塗装か。その音に、ノアは目を閉じた。


この舞台は、既に開幕しているのだ。


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骨の記憶 長谷川 優 @soshita

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