■終章 - 咲き続ける場所で

 あれから、季節は一巡した。

桜の花が風に揺れる春の夜、綾音は、仕事終わりの街を歩いていた。

ネオンの残り香と、微かに香る桜の匂いが混ざり合って、胸の奥を優しくくすぐる。


 ふと、スマホにメッセージが届いた。


『こっちは順調。また連絡する』


 差出人は、西園寺。

あの夜、「海外で起業することになった」と彼が店に現れたのは、ほんの数週間前のことだった。


「一段落したら、資産運用セミナー、一緒にやってみる?」


 去り際、そう言って笑った彼の顔が、今も心に焼きついている。


「……その頃には、私ももう少し詳しくなってると思います」


 そう返した自分の声が、不思議と軽やかだった。

恋が終わったわけではない。

でも、それを人生の“答え”にしようとは、もう思わなかった。


**


 美紀は今も、投資を続けている。

NISA制度を活用し、コツコツとインデックス投資を積み立て、iDeCoで老後資金を少しずつ準備している。

書籍や、合間を縫ってセミナーにも参加し、知識を深めている毎日。


「結局、どれだけ利回りが良くても、“入金力”がなければ意味がないんだよね」


 笑いながら娘に語る自分が、少し頼もしく感じられた。


 働き、学び、育てる日々。

仕事に打ち込み、家計を守り、娘と語り合う。

毎日が忙しいからこそ、無駄遣いをする余裕なんて、もうどこにもなかった。


**


 結衣は、無事に第一志望の国立大学に合格した。

経済学部で、経済と社会を学び始めている。

大学の授業料減免制度や奨学金も活用し、少しずつ自分の将来を形にし始めている。


「将来、金融教育をもっと広めたいな。若い人にも、ちゃんと届くように」


 ふと漏らした言葉に、美紀は静かにうなずいた。

彼女自身、知らなかったことが多すぎた。

それを、少しでも早く知っていれば――と悔やんだ日々。

でも今、その経験さえも意味があったのだと感じられる。


**


 夜の店、「CLUB月下美人」は、今夜も心地よいざわめきに包まれている。


 綾音のテーブルには、ふだん通りの常連が集う。

グラスを手に語られるのは、日々の苦労、ささやかな幸せ、時には夢の話。


「綾音さんって、最近すごく話が沁みるんだよね。なんか、言葉に説得力があるっていうか」


「前よりずっと頼りになる感じ。自然と相談したくなっちゃうんだよね」


 そんな声に、綾音は照れながらも、穏やかな笑みを浮かべる。

自分がこの場所で少しずつ“誰かに必要とされる存在”になっていることが、ただ嬉しかった。


 恋の相談、夫婦の愚痴、将来への不安。

お客さまの話にじっくり耳を傾け、一緒に笑い、一緒に涙する。


 ――「水商売」と呼ばれるこの仕事は、ただ酔わせるためのものじゃない。

人の孤独に寄り添い、笑顔を取り戻すきっかけを届ける場所。

ここには、誰かの心にそっと寄り添える強さと、やさしさがある。

私にとって、それは“誇り”と呼べる仕事だ。

 

 「私にしかできないことが、ここにはある」


 そう思ったとき、綾音の中に静かな確信が生まれた。

お客様の笑顔と、自分の笑顔が重なるこの空間が、どこまでも愛おしかった。


**


 夜の帳がゆっくりと街を包み込む。

灯りがちらちらと瞬くなか、ひとり歩く綾音の背中には、静かな強さがあった。

スマホをポケットにしまいながら、綾音は静かに空を仰いだ。


 月に抱かれて、凛と咲く花。

決して派手ではないけれど、夜の闇に溶け込みながらも、確かに美しく咲いている。

誰かのために、ひとときの安らぎを与え、疲れた心をそっと癒す存在。


「私は、私らしく生きていく」


 静かな決意を胸に、綾音は夜空を見上げた。

満月はまだ遠く、淡い光だけがやさしく彼女を照らしている。


 今日も、月下美人は夜に咲く。

それは、誰にも奪えない、生きる証。


 ささやかながら確かな希望とともに、

綾音はまた一歩、夜の街へと歩み出す。


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月下美人は夜に咲く リナ・タカハシ @x73wpeia

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