■第8章 - 母と娘 そして未来へ

 あの日以来、結衣は美紀とほとんど口をきかなかった。

部屋に閉じこもり、食事の時間に顔を出すだけ。

スマホを見ているふりをしながら、視線はどこか遠くを見ていた。


 けれど美紀は、無理に言葉をかけなかった。

娘の心が閉じた扉のように重く感じられる夜を、何日も超えた。


 そんなある晩のことだった。

夕食の片付けを終えた頃、背後からぽつりと声がした。


「……お母さん、ちょっと相談したいことがあるの」


 一瞬、時が止まったように感じた。

たったそれだけの言葉なのに、胸の奥が熱くなった。


 そっと振り返ると、結衣は廊下に立ち、少しうつむいていた。

その姿は、怒りでも反抗でもなく、ただ――迷って、震えているように見えた。


「どうしたの?」


 美紀がそう返すと、結衣は黙って自室へ戻っていく。

それが“招き入れている”合図だと察し、美紀も部屋へと向かい、中へ入った。


 部屋の机の上には、開かれた参考書と、書きかけのノート。


 結衣は背中越しに言った。


「……志望校のこと、少し考え直そうと思ってて」


 その声は、ためらいがちで、それでも真剣だった。

鉛筆を握る手がかすかに震えているのがわかる。

美紀は静かに彼女の隣に腰を下ろし、そっとその手を包んだ。


「……私、志望校、変えたいんだ。学費のこととか、自分でもちゃんと考えて……少しでも自立できる道を探そうって思ったの」


 美紀はゆっくりと近づいて、そっと椅子の隣に座った。

そして、結衣の肩に手を置いた。


「ありがとう。自分で考えてくれたこと、それが何より嬉しいわ」


 しばらく沈黙が流れた後、結衣がぽつりと言った。


「……ごめん。夜の仕事って聞いたとき、なんかショックで……嫌だった。でも、あれからずっと考えてた。お母さん、ちゃんと私のために頑張ってたんだよね」


 美紀は首を横に振った。


「それだけじゃないわ。もちろん、生活のためもある。でも……今の私は、お客様と話して、笑って、時には泣いて、あの店で少しずつ自分を取り戻してるの」


 結衣の目が、ゆっくりと母を見た。


「お客様を元気にすることができる仕事なんだね」


 美紀は静かにうなずいた。


「そう。水商売って、ただお酒を出す場所じゃない。信頼を築いて、愚痴を聞いて、一緒に笑って……お客様の心の拠りどころになる仕事なの。私、自分の手で誰かを癒せてる気がするの」


**


 数日後、美紀は区役所の相談窓口に足を運んだ。

奨学金制度や、ひとり親支援制度――知らなかった情報が、担当者の説明とともに広がっていく。


「大丈夫です。高校生の娘さんなら、申請できる制度がいくつもありますよ」


 そう言われて、美紀はほっと息を吐いた。


 “助けを求めることは、弱さじゃない”


 そう思えるようになったのは、きっとここまで頑張ってきたからだ。


 家に戻ると、結衣がテーブルでノートを開いていた。


「先生に相談したら、推薦の道もあるかもって言われたよ」


 笑顔の中に、少しだけ誇らしさが混ざっていた。


**


 夜の仕事にも、変化があった。

ある常連客が、ふと綾音に言った。


「綾音ちゃん、最近話が深くなったよね。前より面白くなったし、なんだか勉強してるって感じがするよ」


別の客が頷いて加えた。


「ニュースのことも、経済の話もできるし。なにより、聞き上手になったよな。ほら、俺たちのくだらない話、いつも笑ってくれるじゃん」


綾音は照れ笑いしながらグラスを差し出す。


「それが私の仕事ですから。皆さんが元気になってくれたら、それだけで十分です」


 この仕事には、誇りがある。

そして、今なら胸を張って言える。


 ――私は、水商売を通して、人の心を少しだけ明るくできているのだと。


**


 投資も続けていた。

ある夜、綾音は西園寺から借りた本を読み返しながら、そっと思った。


(分かったことがある。どんな投資術よりも大切なのは――“入金力”。そして、自分にかける“時間と学び”)


 稼ぐ力を育てるには、まず自分を育てなきゃいけない。

本を読む時間、知らなかった知識を吸収すること、誰かの話に耳を傾けること――

それらは、全部“自己投資”だった。


 働いて、学び、誰かと真剣に向き合う日々。

育児、仕事、勉強――毎日を誠実に生きていれば、無駄遣いなんて自然と減っていく。


 “豊かさ”は、お金だけじゃない。

知識も、経験も、人とのつながりも、自分の中に積み上がっていく“資産”なのだ。


 机に向かう結衣の背中を見つめながら、美紀はふっと微笑んだ。


「私ももう少し、いい女になりたいな」


 その声は、誰かに聞かせるものではなく…

未来の自分への、小さな誓いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る