■第7章 - 波乱の選択
あの夜、ほどけた涙を堰き止められずに立ち尽くした綾音は、ある種の覚悟を胸に刻んでいた。
もう、感情の波に流されてはいけない。
家族を守るために、自分自身を立て直すために、なすべきことがある。
翌日、美紀はダイニングのテーブルにノートパソコンを広げ、数年前に放り出してしまっていた家計簿と貯蓄計画のファイルを開いた。
「長期投資なら、とりあえずインデックスETFだね。NISA制度を活用するといい」
西園寺のアドバイスを思い出しながら、NISA口座を開設し、いくつかの銘柄を慎重に検討して購入する。
金額はごく小さなものだったが、それでも彼女にとっては大きな一歩だった。
投資という“未来への種まき”が、確かに心の中に根を下ろし始めていた。
――もう、誰かに守られるだけの人生にはしない。
自分の足で立ち、自分の意志で選び取る。
そんな確かな手応えが、日々の勉強や実践のなかで、美紀の中に静かに芽吹いていた。
**
夜、「CLUB月下美人」で働く綾音の笑顔は、どこか以前より柔らかく、けれど芯のある輝きを帯びていた。
素顔も、細い指先も、もはや「失われた人の妻」ではない。
自分の意志で歩き出した、一人の女。
その日も、常連の客がふたり、カウンター席でグラスを傾けていた。
一人が、ふと綾音に目をやりながら言った。
「綾音ちゃん、最近ちょっと変わったよね」
「えっ?」
思わず首を傾げる綾音に、もう一人がうなずきながら笑った。
「前より話が面白くなったっていうか、言葉の選び方とか、話題の広がりとか…なんていうか、教養っていうの? そういうの、感じるようになったよ」
「へぇ、読書でも始めたの?」
軽口のようでいて、どこか真顔で向けられる言葉に、綾音は思わず頬を染めた。
「……ちょっとだけ、勉強してるんです。今さらですけど」
「謙遜しなくたっていいよ。俺たちただの酔っ払いだけど、それでも変化には気づくもんだよ」
言葉はやわらかく、しかしその言外には確かな敬意が込められていた。
**
帰り道、綾音のスマホが震えた。
画面に浮かぶのは、娘・結衣の名前。通話に出ると、張りつめた声が響いた。
『お母さん、やっぱり……夜の仕事、してたんだね』
『どうして隠してたのよ!』
その瞬間、綾音の心臓がぎゅっと縮まった。
震える手でスマホを握り直す。
帰宅しても、結衣は自室から一歩も出てこなかった。
翌朝リビングで、登校前の結衣と美紀は向かい合って座っていた。
「どうして、言ってくれなかったの?」
結衣の声は静かだったが、その眼差しは揺るぎなかった。
「……怖かったの。軽蔑されるのが」
美紀の声はかすれていた。
テーブルの端をそっと握る。
「私たち、ずっと二人でやってきたじゃん。なのに……どうして隠してたの?」
「結衣……」
「うちは普通の家じゃないって思ってたけど、でも……まさか、そんな……!」
言葉にならない怒りと混乱が、結衣の声ににじんでいた。
美紀は、それをただ黙って受け止めるしかなかった。
「生活のためだった。でも……それだけじゃなかったのかもしれない」
「え……?」
「私は……誰かに優しくされて、また人を好きになって……。そんな自分を、ずっと責めてた。でも、それが“母として失格”なら……私は、どうしたらいいのかわからない……」
沈黙。
ふたりのあいだで、時計の秒針だけが小さく響く。
「……もういい!二度と話しかけないで!」
結衣はそうつぶやき、ゆっくりと立ち上がり、学校へ向かった。
その背中が、ひどく遠く感じられた。
**
その夜、綾音は街の灯にまぎれて、ひとり歩いていた。
喉の奥に込み上げる想いを飲み込もうとしても、胸の奥が熱くてうまく息ができなかった。
ネオンの明滅が、アスファルトに滲んで揺れていた。
娘のまっすぐな瞳に、どれだけの痛みを与えてしまったのだろう。
亡き夫への想い、母としての責任。
そして――女として、芽生えた恋心。
どれもが正しく、同時にどれもが罪のように感じられた。
立ち止まり、空を仰いだ。
冷たい夜風が頬をなでる。
「それでも……私は、生きていかなきゃいけない」
涙を一筋だけこぼし、綾音はそっと目を閉じた。
いつか、娘にすべてを話せる日が来ることを信じて。
誰かを想うことが罪ではないと、自分を赦せる日が来ることを願って。
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