意味

春海レイ

意味

 死体が道端に転がっていた。

 夏の午後、まだ陽も高いというのに、誰一人としてその死を顧みる者はいなかった。蝉の声と、遠くから聞こえる三味線の音だけが、江戸の街を覆っていた。そこに血の匂いはあっても、人の声はなかった。


 ユウはその傍を通り過ぎるとき、ちらと目を伏せた。

 死に慣れていた。あるいは、生に無関心だった、死が日常だった。

 「ありがとう」

 それが誰に向けられた言葉であるのか、本人すらわからなかった。けれども、それは彼の口癖だった。


 彼は流れ者だった。

 かつては何かを持っていたはずである。名を呼ばれ、叱られ、撫でられ、笑われ。泣かれたはずだった。

 しかし、今では何もない。何も持たない。何者でもない。

 誰にも見られず、誰にも知られず、ただただ旅を続けている。


 「意味を探していた。人の代にいていい意味を、他者と繋がれない私はどこに行けばいいのだろうと、悲しいことだが、どれだけ探しても弱者に居場所はないという結論にしか至れなかった。私は旅を続けていた。意味を探していた。世界にいていい意味を、それがどこにもないのなら、どこに居場所があるのだろう?」


 彼はそれを独白するように呟き、また一歩を踏み出す。

 履き古した草履の音が、空虚な道にやさしく響いた。

 江戸の街は、まるで世界の終わりを忘れた人々の墓場のようだった。


 かつて、母が教えてくれたことがある。

 「感謝をしなさい。どんなことにも、ありがとうを言いなさい」

 父は無口だった。だが、背中で威厳というものを語っていた。

 その父も、母も、どこかへ消えた。あるいは、ユウが消されたのかもしれない。

 人がいなくなった時、それを記憶と呼ぶことが許されるならば、彼の記憶は、感謝と沈黙だけで構成されていた。


 誰にでも過去はあるが、彼の過去は薄く、擦れた硝子のように曖昧だった。

 名前はユウ。だがそれも、他者から呼ばれたことは久しくない。

 名を失い、声を失い、ただただ歩き続けていた。

 意味が、どこかにあると思っていた。

 生まれたからには、きっと、在るはずだと。


 しかし、現実は冷たかった。

 死者が転がり、餓えた子が泣き、女が売られ、男が殺される。

 それが人の代。

 地獄というものが現世にあるとするならば、それは江戸の町角にあった。


 ある晩のことだった。

 辻にて、落ちていた金を拾った。

 それが誰のものかはわからない。あるいは、落とし主はすでにこの世にいないのかもしれなかった。

 しかし、それは確かに彼の手にあり、彼はそれを「宿代」に変えた。


 人の世には、時に偶然が運命を変える。

 彼が泊まることとなった宿は、町のはずれにある古びた木造の建物だった。

 看板には「しずく屋」とあった。

 灯は暗く、人の気配も乏しい。まるで、かつての栄華を忘れた幽霊屋敷のようだった。


 その宿には、ひとりの女がいた。

 女将と名乗ったその女は、色の抜けた瞳を持ち、無表情でユウを迎えた。

 歳は二十の後半か。だが、その肌には老いではない、疲労と諦念の皺が刻まれていた。


 「おひとり……ですか?」

 女将の声は、夜の風のように静かだった。

 ユウは「ありがとう」とだけ答えた。


 女将の名は、知らされなかった。

 ユウもまた、名乗ることはなかった。

 彼らは、お互いの存在を語らず、ただ静かに時を分け合った。


 その夜、宿の灯が揺れていた。

 女将はぽつりと呟いた。

 「この世は、壊れてるわ」

 ユウは黙っていた。

 そして、女将の言葉に意味を見出そうとした。


 彼女は、過去を語らなかった。

 しかし、語られぬ過去は、語られた過去よりも多くを語ることがある。


 その夜、ユウは久しぶりに布団にくるまった。

 それは、まるでこの世に存在している証のようだった。


 そして、眠りに落ちる直前、彼はまた呟いた。

 「ありがとう」


 床の間に残った月の影が、障子の裂け目から滲んでいた。女将は燈明を持ち出すでもなく、薄明のなかでじっとこちらを見つめていた。まるで、闇の中で燃え尽きた火鉢の残り香を嗅いでいるような、諦めとも慰めともつかぬ目をして。


 「お客さん、名は……」


 「ユウと申します。ただ、それだけです」


 「……名だけあるのですね」


 「それで充分です。生まれて、生きて、今ここにいる。その証としては」


 女将は短く息をつき、膝を抱えて座り直した。背中が丸まり、すでに人の形をしていなかった。折れた枝のように、無理に風を受け止めようとしているように見えた。


 「わたしは、昔、遊蘭にいました。名前なんて、あってないようなものでした。ある日、男に見初められ、宿を任されました。夢でも見ているような日々でした。でも、男はただの酔いどれで、人を叩く手に理由など持っていなかった」


 「理由は、大概、あとから付けるものです」


 「ええ、そうですね。最初から悲しかったわけじゃないのです。わたしにも夢がありました。小さな、誰にも語らぬ夢。炊きたての飯の匂いで目を覚まし、縁側で一緒にお茶をすする。そんな夢でした」


 「それが壊れたのですか?」


 「いいえ、最初から無かったのかもしれません。わたしは、笑うことが苦手でした。どんな男にも気に入られなかった。売れない遊女に未来なんて、ありません」


 ユウは黙っていた。どんな言葉もこの夜には音が重すぎた。ただ、彼の心の奥で何かがひっそりと芽吹いた。


 「わたし、死のうと思ってたんです。川に身を投げようと。けれど、宿に戻ってくると、あなたがいた。髪は乱れ、服は薄く、目だけが、生きていた」


 「私は、生きる意味を探していた。人の代にいてもいい意味を。他者と繋がれない私は、どこに行けばいいのか、ずっと……。だが、悲しいことに、どれだけ探しても弱者に居場所はないとしか思えなかった」


 「それで、放浪を?」


 「はい。ただ、私は美しいものだけを見たかった。人は私を見下し、時に石を投げ、時に無視した。私はそれにありがとうとだけ言って、歩いていた」


 女将はぽつりと笑った。風が障子を揺らし、その音がまるで彼女の代わりに泣いているようだった。


 「ありがとう……その言葉、もう長い間、誰からも聞いてなかった」


 「私は母に感謝を教えられ、父に威厳を教えられました。でも、感謝の仕方は覚えられず、ただ『ありがとう』という言葉だけが残ったのです。だから、私にとってのありがとうは、母の愛そのものなのです」


 女将は目を伏せ、黙ったまま膝を見つめていた。その膝には痣があった。昔、男に蹴られた痕だろう。それを見て、ユウは黙って立ち上がり、そっと自分の袴の裾を広げた。


 「見てください。これは旅の途中、倒れた時に犬に喰われた跡です」


 「まあ……」


 「人の世は、弱者に冷たい。だから私は犬にもありがとうと言いました。生かしてくれたから」


 「おかしな人……」


 「はい、よく言われます。でも、それでもいい。私が私でいられるのなら」


 女将はその夜、初めて涙をこぼした。音もなく、ただ首を横に振るように、わずかに体を揺らしていた。


 「わたし、幸せになりたかった。笑って、泣いて、そういう当たり前を得たかった」


 「私も、意味を得たかった。人の代にいてもいい、そんな証が欲しかった」


 二人は、それぞれの地獄を語ることで、少しだけ現世に寄り添った。火の気のない部屋に、微かにぬくもりが宿った。


 「お客さん」


 「ユウでいいです」


 「ユウさん、わたし、生きてみようと思います。もう少しだけでも。もし、次にまた、あなたのような人が来たら、その人の話を聞けるように」


 「それは、とても素敵なことです」


 「でも、怖いです。人は変わらないから。また裏切られるかもしれない」


 「ええ、変わらないかもしれません。けれど、誰かの解釈が、あなたの世界を変えるかもしれません。私があなたに出会ったように」


 夜が明け始めていた。鶏が遠くで鳴いた。冷えた空気に、初夏の匂いが混じっていた。


 「朝ですね」


 「ええ」


 「今日も、ありがとう」


 「……こちらこそ」


 朝の光が、障子の隙間から差し込んできた。人の代は変わらず、外には死体が転がっているかもしれない。だが、その日、宿の一室には、確かに「意味」が灯っていた。


 _____________

 

 私は、宿の中庭にある小さな池のほとりで、濡れた草に足をとられながら腰を下ろしていた。雨が降っていたわけではない。ただ、空気が湿っている。あの女将は、朝から姿を見せていない。囲炉裏に残った炭はすっかり冷えきり、灰に覆われていた。


 夜半、何か物音がしたように思えた。水の滴る音か、あるいは誰かの泣く声か、それとも、誰にも聞かれないように人が息を殺す音か。私は、そうした不確かな気配に、長年の放浪で慣れていた。


「ありがとう」


 独り言のように、それでも私は呟いた。朝が来るたび、私は無意識にそれを言うようになっていた。生きて、目が覚めたというだけで、誰にともなく感謝していた。意味のない儀式であろうと、それは私にとって、人の代にしがみつく術であった。


 昼過ぎ、ようやく女将は姿を見せた。目の下には隈があり、衣は昨日と変わらず、髪は梳かれていなかった。その顔は、いつにも増して虚ろで、まるで人形のようだった。


「昨晩、お休みになれましたか」


 私は問いかけた。答えはなかった。だが、女将の背が一瞬だけ震えた。言葉を発することさえ億劫なときがあることを、私は知っている。


「今日も、世界は綺麗ですね」


 私はそう言ってみせた。すると女将は、ゆっくりと目を細めた。嘲笑か、哀れみか、それともただのまぶしさか。それでも私は、その表情に何かが灯ったように思えた。


「綺麗って、何が?」


「例えば、庭の草の緑とか、空の色とか、人の気配のない静けさとか」


「それが、あなたにとって、生きる意味になるの?」


「なりません。意味なんて、とうに失いました。けれど、それらが綺麗であることには、嘘がない」


 女将は何も言わなかった。ただ、私の隣に腰を下ろし、しばらく黙っていた。沈黙は、無関心と違う。黙っているという行為そのものに、誰かがいてくれる気配がある。


「私は、あの男に売られたのだと思っています。けれど、そもそも自分で選んだのかもしれません。あの頃、私には他の道がなかった。ただ、どうしても『幸せ』があると信じていた」


「あなたのせいではありませんよ」


「わかっています。けれど、私の中には何もない。ここにいる意味がわからない」


「私も、探しています。意味を」


 女将は、まるで泣きたくない子どものような目で、私を見つめた。そして、ようやくのように、口を開いた。


「あなたは、何者?」


「ただの浮浪者です。名をユウと申します。『ありがとう』としか言えない愚か者です」


「その『ありがとう』、私には眩しすぎる」


「言葉しか、残っていないから」


「それでも、誰かに言ってもらいたいと思うのよ。ありがとうって。私も」


 私は、女将の手に触れようとはしなかった。ただ、言葉だけを差し出した。


「ありがとう。今、ここにいてくれて」


 彼女は、小さく息を吐いた。風の音がそれに重なり、草葉がざわめいた。


「人は、自分が誰かの役に立つと思わなければ、生きていけないのかもしれないわね」


「それが、事実というものなら、仕方がない。けれど、私はあなたに会えて良かった」


「どうして?」


「あなたが、今日まで生きていてくれたから。出会えた」


 女将は、それ以上何も言わなかった。だが、その目には、わずかな揺らぎが見えた。怒りでも絶望でもない。たった一瞬、意味を探す視線が、確かにあった。


 その晩、私は女将の語る話を黙って聞いた。どこかで拾われ、どこかで売られ、幾人もの手を渡り歩いた身体と心。言葉にされるたび、彼女の過去は霧のように形を失っていった。


「私には、もう何も残っていない」


「それなら、また始めればいい」


「始めるには、もう遅い」


「遅いというのも、誰かの解釈です。私は、今日が始まりでもいいと思っています」


「そんなこと、誰も言ってくれなかった」


「誰も言ってくれなかったから、私はあなたに言いたい」


 夜が更け、蝋燭の灯りが小さくなった頃、女将はぽつりと漏らした。


「私も、放浪してみたいわ」


「その足が動く限り、どこへでも行けます」


「一緒に行ってくれる?」


 その問いに、私はすぐ答えられなかった。私は、一人で在ることに慣れていた。けれど、それが孤独でなかったかと問われれば、違うとも言えなかった。


「ありがとう」


 私はまた、言葉を繰り返した。それが、私にできる唯一の返事だった。


 あの晩、降るような静けさの中で、女将はそっと涙を拭っていた。その姿を見て、ユウは何も言えなかった。言葉は意味を持つからこそ、時に余計である。黙して共に座ることが、どれだけ人を救うことか。だがそれでも、沈黙には限りがある。やがて夜が明け、朝の陽が障子を滲ませた時、彼女はぽつりと呟いた。


「私は、もう、終わらせようと思っていたのよ」


 それは誰に許しを乞うでもない、独白だった。ユウは応える代わりに、湯呑に口をつける。冷めた茶の味に、彼はこの江戸の現実を飲み込んだ。茶の中に意味はない。されど、それを口にすることに、なぜか確かな手応えがあった。


「だけど、あなたと話していて、不思議だったの。あなたは自分を“弱者”って言うけれど、そんなふうに見えなかった」


「それは、私が“意味”を探すのをやめなかったからです。誰も私を見なかった。それでも私は、ありがとう、と言い続けた。人に笑われても、迷惑がられても、それだけが私の持てる言葉だった」


「それで、あなたは救われたの?」


 ユウは少しだけ考えた。救いとは何か、答えがない問いに。


「さあ……けれど、まだ死んでいない。それで十分です」


 女将は小さく笑った。それは涙が溶けた後の、弱さを許した笑みであった。彼女の中にある澱のようなものが、少しだけ澄んだ。


 その日から、宿の空気は少しずつ変わり始めた。かつては灯りの届かなかった一角に、ユウは黙って小さな灯明を立てた。誰にも気づかれぬように、ただ祈るように、そこに在る灯を置いた。女将は毎朝、それに火を灯すようになった。


 ユウはまた旅立つ日が来ることを知っていた。意味を探す旅人には、留まることができない。だが、それでも、その宿の中に、ひとつの「意味」が灯ったのだ。


「もう行くの」


 女将はそう言って、そっと湯呑を差し出す。その中に、温かな茶が満たされていた。


「ありがとう。あなたが生きていたことに」


 ユウはそう言って、茶を一口啜った。それはまるで、人生の苦みのようであり、同時に温もりでもあった。


「生きていることに、意味はないのかもしれない。でも、生きていく中で、意味は育つのかもしれない。誰にも見えない、小さな芽が」


 それが別れの言葉だった。ユウはその日、宿を後にした。誰に見送られるでもなく、誰を振り返るでもなく。江戸の街は相変わらず人の世であった。嘘が飛び交い、正義が嗤われ、優しさが棄てられるその世界で、それでもひとりの男が歩き続けている。


 旅の先に何があるかはわからない。道はどこまでも続いているが、それが地獄か、あるいは楽園か、そんなことはどうでもよかった。


 なぜなら彼はもう、知っていたのだ。意味は、与えられるものではなく、自らが灯すものだと。


 風の匂いが変わった。遠くに見える山の向こうに、次の夜が待っている。ユウは空を見上げ、小さく微笑んだ。


「ありがとう」


 それは、世界への感謝であり、また、自分の人生へのささやかな讃歌だった。

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