第2話

息が切れそうだった。喉の奥が焼けるように熱く、肺は酸素を求めて痙攣している。それでも俺――神崎巧は足を止めなかった。会社の後輩である橘美咲の手を引き、崩壊しつつある渋谷駅の地下通路を全力で駆け抜ける。背後では何か巨大なものが咆哮し、ガラスの割れる音と悲鳴が入り混じっていた。


 何度目かの曲がり角を折れたとき、不意に美咲がつまずきかけた。「大丈夫か?」と振り返る間もなく、目の前に影が落ちる。路地の先に何かがいる――そう直感した瞬間、俺は反射的に立ち止まった。薄暗い路地の瓦礫の山、その上に異形の化け物が姿を現したのだ。


 それは人間ほどの背丈だが、肩幅は常人の二倍はありそうなほど逞しい体躯を持っていた。全身は黒い体毛と粘つく液体に覆われ、まるで獣と人間が融合したかのようなシルエットだ。鋭く尖った耳と鼻面、そして血走った目がこちらを捉えている。先ほど遠くで聞こえた咆哮の主よりは小型だが、それでも十分に脅威だった。奴は低く唸り声を上げ、今にも飛びかかってきそうに身を沈めている。


 「っ……!」

 思わず美咲の肩を掴み、俺は彼女を背後に庇った。ゴブリンと戦った時のように、瓦礫を拾い強く握る。非常時に手にして以来、逃げ延びる助けとなってきたこの即席の武器が、再び役に立つことを祈りながら。


 「来るぞ!」俺は叫んだ。途端に怪物が瓦礫を蹴散らしながら跳んできた。信じ難い速度だった。

怪物は咆哮と共に腕を振り払い、次の瞬間には鋭い爪が俺の胸元を薙いだ。重たい衝撃と焼けつく痛みが襲う。吹き飛ばされた俺の背中がアスファルトに叩きつけられ、視界が揺れた。耳鳴りがし、肺から酸素が絞り出される。「…くそ……」呻きながら身を起こそうとするが、胸の痛みでうまく身体に力が入らない。コンクリートの上に転がった瓦礫が虚しく転がっていた。頼みの武器を手放してしまった。


 「神崎先輩!」美咲の叫びが聞こえる。かすむ視界の端に、美咲がこちらに駆け寄ろうとする姿があった。だが彼女の背後にもう一つ、黒い巨影が跳ね上がるのが見える。「来るな、下がってろ!」俺は必死に怒鳴った。


 耳の奥で心臓の鼓動が喧しく脈打っている。痛みで視界が暗くなりかける中、美咲を守らなければという一心だけが俺を動かした。半ば本能的に、俺は地面に転がったまま手探りで瓦礫の欠片を掴み取ると、それを思いきり怪物に向かって投げつけた。「おい、こっちだ!」声にならない声を振り絞る。


 怪物の注意が美咲から逸れたのを確認し、俺は立ち上がろうともがいた。膝が震える。それでも立たなければ、彼女が――そう思った刹那、視界いっぱいに黒い影が飛び込んできた。怪物は怒り狂ったようにこちらへ向きを変え、猛然と突進してくる。


 衝撃。壁か何かに背中を叩きつけられ、肺からまたも息が飛んだ。巨体の怪物が俺を壁際に押さえつけ、牙を剥いた口が目前に迫る。腐臭を帯びた熱い吐息が顔にかかり、思わず吐き気がこみ上げた。が、怯んでいる暇はない。奴の両腕が俺の肩を壁に縫い止め、逃げ場を失わせる。獲物を仕留めようという赤い瞳が狂気に爛れ、喉の奥から低い唸り声を発していた。


 もはや腕も足も動かせない。追い詰められた――死の予感が脳裏をよぎる。ここまでか、と思った瞬間、美咲の顔が浮かんだ。背後にいるはずの彼女はどうなった?次は美咲が襲われるかもしれない。その想像が胸を刺し、息が詰まる。ダメだ、俺が倒れれば彼女まで……。


 「うああああッ!」気がつけば俺は叫んでいた。理性は吹き飛び、視界が真紅に染まる。目の前にがら空きになっていた怪物の喉元めがけて、俺は自分の頭を突き出した。顎が砕けるほどの勢いで噛みつく。鈍い感触と同時に、生温かい鉄錆の味が口いっぱいに広がった。


 怪物が悲鳴にも似た雄叫びを上げて暴れ出す。喉笛に喰らいついたまま俺は必死で食いつき、頭を左右に振った。喉の肉を引き裂く感触が歯から伝わり、血液が噴き出して顔に降りかかる。吐き出したい衝動を抑え込み、さらに深く牙を立てるように噛みしだいた。俺自身が獣に成り果てたかのようだった。


 どれほどの時間が経ったのか。やがて怪物の身体から力が抜け、奴は壁際からずるずると崩れ落ちていった。俺は膝から崩れ、その場にへたり込む。口からどろりと生暖かい液体が滴り、顎を伝って服を濡らした。自分が何をしたのか、脳が理解するより先に身体が震え始める。「は……ははっ……」乾いた笑いが漏れた。信じられない――俺が、噛み殺した?


 放心する俺の頭上で、電子音のような不可思議な音が一瞬鳴り響いた気がした。【スキル《捕食進化》が発現しました】――そんな言葉が、幻聴のように耳に残る。捕食進化……?何だ、それは。混乱する意識の片隅で問い返すも、返事はない。だが直後、全身に異様な熱が駆け巡った。まるで体の内側から炎が吹き出すような感覚に息を呑む。傷の痛みさえ一瞬忘れるほどの熱波だった。


 「先輩!」駆け寄ってきた美咲が恐る恐る俺の肩に触れた。その瞳は涙で潤んでいる。「大丈夫ですか…?」震える声に、俺はかろうじて笑みらしきものを浮かべた。「ああ…多分な」口内に広がる鉄錆の味を吐き出しながら答える。しかし大丈夫なわけがない。胸は裂かれたように痛み、全身泥と血塗れだ。何より、理性が追いつかない。自分が何をしたのか、この手で何を成したのか――。


 だが考えている暇はなかった。再び遠くで獣じみた咆哮が木霊し、ビルが崩れるような轟音も聞こえてきた。まだ周囲には他にも怪物がいるのだ。「ここに留まるのはまずい。急ごう…」俺は美咲の肩を借りてなんとか立ち上がった。ぐらりと視界が揺れるが、立ち止まるわけにはいかない。俺たちはふらつく足取りでその場を離れた。


 程なくして、半壊したビルの入口が目に入った。ガラスの自動ドアは粉々に砕け、内部は闇に包まれていた。幸い奥までは崩れていないようだ。「ここに隠れよう」俺がそう言うと、美咲は黙って頷いた。辺りに目立つ動きがないのを確認し、俺たちは瓦礫を踏み越えてビルの中へ滑り込んだ。


 中は粉塵と静寂に包まれていた。非常灯がかすかに灯っているのか、薄暗い赤い光が残骸を照らし出している。元は受付ロビーだったのかもしれない広間には、砕けたガラス片とコンクリート片が散乱し、壁には大きな亀裂が走っていた。所々にデスクや椅子の残骸も転がっているが、人影は見当たらない。


 俺たちは壁際の比較的安全そうな隅に腰を下ろした。膝が笑っていた。ようやく辿り着いた小さな避難所――だが気の緩みと共に、全身の痛覚が一斉に蘇ってくる。「く…」思わず顔をしかめると、美咲が心配そうに覗き込んだ。「傷が…酷い。血が出てます」彼女はおろおろと自分の鞄を探り、ハンカチを取り出した。「す、すみません、応急処置しか…」ハンカチを裂いて帯状にすると、躊躇いがちに俺の胸元に手を伸ばしてくる。


 「ああ、助かる…」俺は上着のボタンを外し、自分でも傷口を確かめた。シャツには三本の爪痕が鮮明に刻まれ、血が滲んでいる。深く斬られたわけではないが、このままでは出血が止まらないだろう。美咲の小さな手が震えながらも手際よく布を患部に巻きつけ、ぎゅっと固く結んだ。胸に圧迫感が走り、傷から新たに血が滲んだが、すぐに布が吸ってくれる。「すみません、痛かったら言ってください…」彼女は申し訳なさそうに顔を伏せる。


 「平気だ。それより助かったよ、ありがとう」俺は首を振り、できるだけ穏やかな声を出した。実際、彼女の処置のおかげで少し楽になった。「先輩こそ…ありがとうございます。私…私…」美咲の声が震える。限界まで緊張していた糸が切れたのか、彼女の肩が小刻みに揺れているのが見えた。


 「もう大丈夫だ。俺たちは生きてる」俺はできるだけ穏やかな声で言い、そっと美咲の肩に手を置いた。途端に彼女は堰を切ったようにぽろぽろと涙を零す。「私…怖くて…足がすくんで…先輩が戦っているのに、何もできなくて…ごめんなさい、ごめんなさい…!」消え入りそうな声で繰り返す。


 「謝ることないだろう。正直、俺だって死ぬほど怖かった」俺は苦笑した。「それに…俺だってあんな真似、自分でも正気じゃないと思うさ。君を守るために夢中で…気づいたらこうなってた」自嘲気味にそう付け足すと、美咲は涙を拭いながら首を横に振った。「先輩がいてくれたから、私は…」言葉にならないのか、美咲は唇を噛み締めた。だがその目には、はっきりとした感謝と安堵の色が浮かんでいる。


 照れくささに俺は視線を逸らした。こんな極限状況で照れるのもおかしな話だが、真っ直ぐな眼差しを向けられるとどうにも落ち着かない。

「…とにかく、生き延びるぞ。俺たち二人でな」

そっけなく言ってから、俺はふと自分の手の震えに気づいた。未だ興奮が冷めやらず、アドレナリンが体内を駆け巡っているのか、指先が小刻みに震えている。美咲もそれに気づいたのか、「先輩…手が…」と心配そうに言葉を漏らした。


  「平気だ。ただの疲労だよ」俺はそう言って手を握りしめ、震えを抑え込んだ。できればこのまま少し休みたい。しかし安全とも限らない場所で長居はできない。早く次の行動を考えなければならないのに、頭が上手く回らない。熱っぽい違和感がまだ全身を巡っている。先ほど襲った異様な熱の余韻か――それとも。


 「先輩、本当に大丈夫ですか?」美咲が改めて聞いてきた。その声音には、傷の痛みだけでなく俺の様子全体を案じている響きがあった。無理もない。怪物に滅多打ちにされ、挙句に噛みついて殺すという常軌を逸した行動を取ったのだ。平気なはずがない。自分でもわからない衝動に駆られて…。捕食進化、あの言葉が脳裏にちらつく。あれが何であれ、俺に何かが起きたのは確かだ。


 「正直、全然大丈夫じゃないさ」苦く笑って正直に答えた。「悪い夢でも見ているみたいだ…自分が自分じゃないような…」言いながら自分の両手を見る。掌にはまだ乾ききらない血がこびりついていた。震えはもう収まったものの、その血痕が何よりも現実を突きつけてくる。「でも、生き延びないと。この悪夢の中を…君と俺で」


 美咲は静かに頷いた。潤んだ瞳には涙の筋が光っているが、その表情には先ほどまでの怯えとは違うものが宿っていた。覚悟――かもしれない。彼女もまた懸命に恐怖を押し殺し、前を向こうとしているのだろう。その健気な姿に、胸の内に温かなものが灯るのを感じた。こんな状況でも俺たちはまだ人間で、心を通わせることができる。一人きりではないのだ、と。


 不意に、美咲がハンカチの端切れとは別に持っていた紙片で俺の頬を拭った。いつの間にか取り出してくれていたティッシュペーパーが、俺の頬についた血と汚れをぬぐっていく。「…顔、汚れてたので」美咲は気恥ずかしそうに微笑む。その笑顔に、胸の痛みが少しだけ和らぐ気がした。俺もつられて小さく笑みを返す。

「助かるよ。ありがとう」

そう言うと、彼女は静かに首を横に振った。

「先輩こそ、生きていてくれてありがとうございます」

 胸の奥がきゅっと締め付けられる。誰かに生きていてくれてありがとうと言われたのは、生まれて初めてかもしれない。皮肉屋の俺は、いつも世の中にどこか冷めた目を向けていたはずなのに。今はただ、美咲という後輩が隣にいてくれることが、この上なく大事に思える。彼女を守り抜かなければ――心の底からそう誓う自分がいた。


 壁の外ではなおも遠くか近くか、断続的に爆発音や叫び声が響いている。世界の終わりのような光景がすぐ外で繰り広げられている現実。それでも、ここにいる俺たちは確かに生きている。傷だらけで泥まみれで、そして新たな力と共に。体内に芽生えた異形の熱を抱えながらも、俺は歯を食いしばった。この力が吉と出るか凶と出るかは分からない。だがいずれにせよ、俺は進化するしかないのだろう――この悪夢を生き抜くために。

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終末の東京―ダンジョン襲来戦記― @blueholic

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