終末の東京―ダンジョン襲来戦記―
@blueholic
第1話
朝の渋谷駅、いつものように人波が押し寄せていた。平日の通勤ラッシュ時、駅前のハチ公広場は待ち合わせの人々と行き交う乗降客でごった返している。俺――神崎巧(かんざき・たくみ)は、その喧騒の一角に静かに佇んでいた。毎朝繰り返される雑踏と騒音にも、もう慣れて久しい。この街のざわめきは、まるで頭の奥で絶えず流れるノイズのようだ。今朝もスマートフォンに届くニュース速報やSNSの通知音が周囲で断続的に響き、誰もが忙しなく歩を進めていた。
「先輩、お待たせしました!」
背後からかけられた声に振り向くと、後輩社員の橘美咲(たちばな・みさき)が息を切らせて駆け寄ってきた。小柄な体をスーツに包み、未だ慣れない様子で満員電車から解放されたばかりのようだ。頬にはうっすら赤みが差している。どうやら乗換えに手間取り、遅れそうになったらしい。その焦りと安堵が入り混じった表情に、俺は小さく微笑んだ。
「大丈夫、俺も今来たところだよ」
本当は十分前からここに立っていたが、わざわざ言う必要もない。物静かな俺なりの気遣いのつもりだった。
美咲はほっと胸を撫で下ろし、「良かった」と笑みを返す。その笑顔に俺は僅かな安心感を覚えた。
こうして新卒の彼女と待ち合わせ、一緒に営業先へ向かうのが最近の習慣になっている。入社して間もない不安げな様子を見かねて、先輩として付き添うようになったのだ。もっとも、彼女が馴染んできた今となっては、単に俺自身の通勤の慰めになっている節もある。
俺たちは連れ立ってハチ公像の横を通り過ぎた。待ち合わせの名所として知られる忠犬ハチ公の銅像は、今朝も出勤前の人々を無言で見守っている。その傍らを抜け、スクランブル交差点へと続く横断歩道の前で足を止めた。青信号を待つ群衆が横一列に並び、対面の同じような人垣と向かい合っている。信号が変われば、いつものように渦を巻くような交錯が始まるのだろう。
美咲がふと空を見上げ、「今日は良い天気ですね」と呟いた。見れば雲一つない青空が広がっている。都会の空はビルに切り取られて狭いが、それでも陽射しは降り注ぎ、生温い初夏の空気が肌にまとわりつくようだった。俺は曖昧に相槌を打ちながら、前方の巨大スクリーンに目をやった。渋谷駅前のビルに掛かる大型ビジョンが、朝のニュースを映し出している。テロップに流れるのは、世界各地で相次ぐ原因不明の地震や異常気象の話題だった。
——その瞬間だった。
突如として大地が唸るような轟音と共に揺れ始めた。周囲のビルが軋み、高架を走る電車の悲鳴のようなブレーキ音が耳を劈いた。足元がぐらりと揺れ、俺は思わず近くの電柱に手をついて踏ん張った。「地震…?」誰かが叫んだ。群衆がどよめき、一斉に立ち止まった。信号は青に変わったばかりだったが、誰も動き出せなかった。突然の揺れに、交差点のど真ん中で立ち尽くす人もいた。
俺の隣で美咲が悲鳴を押し殺すように息を呑んでいるのが分かった。咄嗟に彼女の肩を掴んだ。
「伏せろ!」
身体が勝手に動いていた。彼女を守るように抱き寄せ、その場にしゃがみ込んだ。倒れそうになる彼女の背を支えながら、周囲の様子を窺った。
激しい揺れは数秒ほど続いただろうか。やがて一旦静まったように感じられた。だが、奇妙なことに地鳴りのような低い振動音だけは止まなかった。まるで地下深くで巨大な獣が唸っているかのような、不気味な振動が地面を伝わってきた。周囲には困惑と恐怖が広がっていた。誰もが顔を見合わせ、スマートフォンで緊急地震速報を確認しようとしていた。しかし、それらしき通知は鳴っていなかった。
「おかしい……」俺は小声で呟いた。通常なら大地震の際には警報が鳴るはずだ。それに、この振動は一体——。
考える間もなく、次の異変が起きた。バキンッ!と何かが砕ける音がした。道路に亀裂が走り、アスファルトが盛り上がる。目の前のスクランブル交差点の中央が、まるで見えない巨大なツメで引き裂かれるかのように裂け始めたのだ。黒々とした亀裂が蜘蛛の巣状に広がり、コンクリートの破片が宙に舞う。悲鳴が上がった。「避難しろ!」と誰かが叫ぶのが聞こえた。だが誰もどこへ逃げればいいのか分からなかった。頭上ではビルのガラス窓が割れ、粉々になって降り注いだ。混乱の中、俺は美咲の手を強く握りしめた。
「走るぞ!」
周囲が我先にと動き出すより早く、俺は彼女の手を引いて駆け出した。どこへ、という明確なあてがあったわけではない。ただ、本能的にこの場を離れなければ死ぬと悟ったのだ。二人で走り出した瞬間、背後で轟音が響いた。振り向く余裕はなかった。ただ嫌な予感だけが背中を刺した。人々の絶叫が追いかけてきた。
次の瞬間、視界の端に“それ”が映った。信じ難い光景だった。崩れたアスファルトの裂け目から、何か巨大な影がぬっと姿を現したのだ。はじめは黒い塊のように見えたが、それが動いたことで生物だと分かった。筋肉質の腕、節くれだった異様に長い指、そして滴るよだれ——。人間ではない。
「化け物…?」誰かが震える声で呟いた。
それはまるで絵空事の怪物だった。緑がかった褐色の肌をしており、背丈は大人の男を優に超えていた。顔は潰れたように平たく、口は耳まで裂けて鋭い牙がぎっしりと並んでいた。目は真紅に輝き、理性の光は感じられない。ただ獲物を求める飢えた獣の目だった。
俺は息を呑んだ。頭の片隅で、ファンタジー映画やゲームに出てくる「オーク」という怪物を連想していた。まさか現実で見ることになろうとは——。
オークらしき怪物は雄叫びを上げた。それが振り上げた腕には、大人の胴ほどもある棍棒のようなものが握られていた。次の瞬間、振り下ろされた凶器が逃げ遅れた男性に叩きつけられた。鈍い音が響き、その男性は血を吹き出しながら地面に叩き伏せられた。悲鳴が周囲に充満し、パニックは一気に沸点に達した。
俺は反射的に美咲の肩を抱き寄せ、その惨劇を直視しないよう彼女の頭を胸に押し付けた。彼女の震えが伝わってきた。現実感がない——そう思いたかった。しかし鼻腔を突く血の匂いと、地面に広がる赤黒い液体が、この惨状が紛れもない現実であることを主張していた。
「行くぞ…!」
歯を食いしばり、俺は美咲を引き連れて脇道へ逸れた。ハチ公広場から駅構内へ通じる屋外階段が目に入ったからだ。駅の建物の中に入れば多少は身を隠せるかもしれない。無我夢中で階段を駆け上がった。後ろで何かが風を切る音がし、コンクリート壁が砕け散った。振り返ると、先程まで俺たちがいた場所に棍棒が叩き込まれていた。あの場を離れるのが一瞬でも遅れていたら——背筋が冷たくなった。だが恐怖に浸る間はない。
階段を上り切った先は、駅の連絡通路になっていた。ガラス張りの通路からは、先ほどまでいた交差点が見下ろせた。ちらりと外を見ると、黒い裂け目はなおも路面に口を開けていた。その周囲で小柄な異形の影が何体も蠢いていた。先のオークだけではない。子供ほどの背丈だが醜悪な風貌の生き物——まるでゴブリンのような怪物が、次々と亀裂から這い出してきていた。彼らは狂ったように周囲の人間へ襲いかかり、阿鼻叫喚の地獄絵図が眼下に広がっていた。
美咲が嗚咽を漏らした。
「嘘…こんなの嘘です…」
と消え入りそうな声で繰り返す彼女を、何とか前に促して進んだ。現実逃避したくなる気持ちは俺にもあった。だが立ちすくんでいては殺されるだけだった。逃げるんだ、と自分に言い聞かせて足を動かした。
通路を進むと改札階の広いコンコースに出た。いつもなら人で溢れるはずの空間が、今は悲鳴と足音が飛び交う修羅場と化していた。駅員の怒号、ガラスの割れる音——情報が多すぎて頭が追いつかなかった。
しかも、大地震の影響で壁や天井の一部は崩れていて、構造物としても危険な場所となっているようだ。
それでも俺は、美咲の手を引いたままひたすら出口を目指した。どこでもいい、とにかく外へ出て人の多い場所から離れなければ。
しかし、無情にも次の恐怖はすぐ目の前に姿を現した。俺たちが連絡通路から降りた先のコンコース、その自動券売機の並び陰から、小鬼のような異形——ゴブリンが飛び出してきたのだ。肌は薄汚れた灰緑色で、目は黄色くぎょろついていた。手には血まみれの包丁のような刃物を握りしめていた。どこかで手に入れたのか、それとも元から所持していたのか分からない。いずれにせよ、俺たちに向けられた殺意は紛れもない現実だった。
「チィッ——!」
反射的に舌打ちし、俺は美咲を背後に庇った。ゴブリンはけたたましい奇声を発しながら突進してきた。距離はわずか数メートル、逃げる暇はなかった。頭が焼け付くような恐怖に意識が真っ白になりかけたが、何故か身体はすでに動いていた。迫り来る刃物を咄嗟に腕で払いのけた。その瞬間、シャツの袖がパックリ裂け、鋭い痛みが走った。斬られた——しかし致命傷ではない。
熱い血が滴る感覚にも構っていられなかった。
間一髪で逸らしたとはいえ、ゴブリンの勢いは止まらなかった。醜い顔が目の前に迫ってきた。腐臭混じりの息が鼻を突く。まともに戦って勝てる相手ではない——そう理性が警告した。しかし守らなければならないものが背後にいた。逃げるという選択肢は、この瞬間だけは頭になかった。
「う、うああぁっ!」
自分でも驚くような叫び声が喉から迸った。同時に、近くにあった瓦礫に手を伸ばしていた。片手で持てるギリギリの大きさだったが、重みを感じる間もなく振り回した。狙いをつける余裕も無かったが、奇跡的にゴブリンの頭部に命中し、鈍い衝撃が腕を伝った。
ゴブリンの動きが一瞬止まった。
「はあっ…!」
息を詰めてもう一撃、両手を使い、渾身の力で振り下ろした。今度は確かな手応えがあった。鈍い音と共に, ゴブリンの頭蓋が砕けるような感触が伝わり、緑色の体液めいたものが飛び散った。ゴブリンは短い悲鳴を上げ、そのまま崩れ落ちた。俺の足元に転がったそれは、痙攣し、やがて動かなくなった。
荒い呼吸の音が自分のものとは思えなかった。手元の瓦礫を見下ろすと、血と肉片がこびりついていた。嘔吐感が込み上げるのを必死に堪えた。やったのか——?あのゴブリンを、俺が?信じられない思いで目の前の死体を見つめた。現実離れした姿の怪物だった。しかし、確かに俺が殺したのだ。
「先輩…!怪我が…!」
背後で震える声がして、我に返った。美咲が俺の左腕を掴んでいた。見るとスーツの袖が真っ赤に染まっていた。先ほど斬られた傷口からの出血だ。だが不思議と痛みは感じなかった。興奮で麻痺しているのかもしれない。いや——違う。痛みがないどころか、腕が熱く疼くような奇妙な感覚があった。傷口に意識を集中させると、じわじわと熱を持っている。まるで何かが内部で蠢いているかのような不快さだった。
「大丈夫だ…平気だから。」
美咲を安心させるように言い含めた。実際、出血の割に腕は動くし力も入った。立っていられた。今は痛覚よりも、生き延びた高揚感が勝っていた。自分でも信じ難いが、体の奥底から力が湧いてくるような気すらしたのだ。
周囲を見回した。コンコースでは相変わらず悲鳴と怒号が飛び交っていた。だが幸い、すぐ近くに次の脅威の姿は見えなかった。俺は血で濡れた瓦礫を投げ捨てて、美咲の顔を見据えた。彼女の瞳には涙と恐怖が浮かび、その肩は小刻みに震えていた。
「行けるか?」
問いかけに、美咲は唇を噛みながらも弱々しく頷いた。足はすくんでいるかもしれないが、ここに留まれば別の化物に襲われてしまう。俺たちは再び駆け出した。出口は目前だ——そう信じたかった。
走りながら、腕の疼きがまだ続いていることに気付いた。脈打つような熱——おかしい、本来なら激痛があってもいいはずなのに。この感覚は何だ?疑問が頭をもたげる。しかし、今は確かめている余裕はない。ただ、生き延びることだけを考えろ——そう自分に言い聞かせた。
駅の外からはサイレンの音が近づいていた。警察か消防か、自衛隊だろうか?助けが来るのかもしれない。だが、それがいつになるかは分からない。頼れるものは自分自身しかいない——先ほど嫌というほど思い知らされた。
ふと、今しがた自分が放った叫び声や、怪物を殺した瞬間の感覚が蘇った。あの時、確かに恐怖もあったはずなのに、何か別の…高揚のようなものが胸を満たしていた。信じられないが、心のどこかで昂ぶっている自分がいたのだ。腕の傷が熱い鼓動を伝える度に、その高揚感が再び胸に込み上げてきた。
何かが――変わり始めているのかもしれない。
そう感じた次の瞬間、出口の向こうで新たな咆哮が響き渡った。俺は歯を食いしばり、消火器を握る手に力を込めた。果たしてこの異常事態の中、俺たちは生き延びることができるのか。その答えはまだ闇の中だった。
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