『憧れ』は、雲の上の人ですか? 別世界の人ですか?
答えは、じつはノーなんですよね。だって、同じ世界に生きているんだから。
なのですが、実際はそうは思えません。だって私(私たち?)は、プロではない。
プロ作家さんたちとは、まず土俵が違うのです。
だから『憧れ』は、『憧れ』る対象のまま。
そんな中、この『憧れ』(しかも、くたばる)の存在をめぐる物語の中で、作者様は、ある人物を通して言い切ります。
「だから私は楽しかった。応答させるに値する問いかけをしなくちゃいけなくて。」
痺れましたよ。誰が言ったからじゃなくて、その空気が、全編に息づいていますから。
だって作者様のそれは、きっといつだって飽和点ギリギリの挑戦。
そうでなくては、こんな物語はきっと書けない。
凡人には凡人なりの、努力の絶対値があるんです。
その武器を手に、『憧れ』に私たちも、挑みませんか。
苦しくてもいい。きっと、楽しいですよ。
正直に言おう。
僕は純文学を馬鹿にしているところがある。
意味を伝えることを拒絶する構文、小難しければ偉いのかという表現、深淵であるフリをして、物語を真っ直ぐに物語ることを拒絶するスタンス。
およそ伝達から遠く離れたそのスタイルに、僕は辟易する。
だが、唾棄はできない。
なぜならばそれに、純文学に魅了されている自分がいるから。
今までにない表現を、既存のピースを組み合わせて新しく創造していこうとする希求。テーマでも物語でもない、純粋なテキスト表現でもって、こちらの受信機に新たな素子を組み込まんと強制する強いプロトコル。
それらを追い求めるには力が足りないと自らを規定して久しい僕にとって、ぽんぽん丸先生の強烈な個性と自信は、たぶん眩しすぎるのだろう。
なにがよかった、などと言う表層な批評だけは語るまい。そもそも物語ではないのだから。
写真の登場によって写実というベクトルを剥ぎ取られた絵筆が隈取に活路を見出したように、動画やAIによって日々その価値の縮退を余儀なくされている作文で、それでも与えられたピースを駆使して新たな意義を構築しようとする姿は、まさしく「創作」と言えよう。
その道を進むことを放棄している僕は、ストーリーテラーを目指すしかないな、と改めて思う。
ごく一般的な女性が主人公で、冒頭から、まるで美術の教科書に載っていたような記述が並びます。
この時点ではちょっと変わった現代ドラマとしかいえないのですが、主人公が憧れる高齢男性が登場するあたりから少しずつ様相が変わっていきます。
主人公は常に冷静に日常を過ごしています。
高齢男性の言葉を「おもしろい」と思いながらも、仕事は淡々とする。
ただ、彼女の胸の中には熱い何かがまだくすぶっていて――
読み手の私としては、友人との会話も楽しいし高齢男性との会話も楽しい。
でも主人公の心の内では「楽しい」だけではない。
そんな彼女の心理がとても丁寧にぽんぽん丸的に書かれています。
おすすめです。