大阪谷町あけぼの寮

@kenkuro1014

大阪谷町あけぼの寮

 力のない春の陽が、家財道具が持ち去られて寒々とした六畳間に差し込んでいた。

 バケツでぞうきんをギュッと絞り、うんと背伸びをして、鴨居の上に渡した棚のへりをひと息で拭いた。ストンとかかとをおろす。見ると、たったひと拭きでぞうきんは真っ黒になった。前の住人は出ていくときに棚の上までは掃除しなかったのか。そもそも一度もこの棚を使った様子がない。

 天井からは裸電球がぶらさがり、もともとは白かった壁は黄色く汚れている。その壁にカレンダーがかけたままになっていた。もうじき四月になるというのに、一月から一枚もめくられていない。

 長いあいだ療養してきた天皇が年明け早々に逝去し、元号は昭和から平成へとあわただしく変わった。天皇の病状をこと細かく、毎日のように流してきた新聞やテレビは一転して、新しい時代が始まったと競って伝えたが、そんな大騒ぎはどこ吹く風と、カレンダーは昭和で止まっていた。

 この谷町たにまち界隈には昔ながらの風景がひろがる。黒い板壁に格子窓の旧家、白壁の土蔵、長い棒でくるくると回すとせり出すビニールのひさしの酒屋、路地のわきには赤い前掛けのお地蔵様がちょこんといて、近所のおばあちゃんらは決して、知らん顔をしてその前を通り過ぎることはない。

 そのなかで一段と古びて見えるこの寮も、時間が止まったままだった。戦後まもなく建てた木造のアパートを、改築や増築を繰り返して社員寮としてだましだまし使ってきた。トタンの屋根は、ペンキを塗り重ねてボロを隠していたし、非常階段は赤茶色に錆びついていた。廊下を歩けばギイギイと気持ちの悪い音がし、西日の容赦なく照りつける部屋は夏はとことん暑く、すきま風が入る冬は震え上がるほど寒い。

 看板も表札もなかったが、みんなは『あけぼの寮』と呼んでいた。いつからそう呼ばれるようになったのか、なぜその名がつけられたのか、だれにもわからない。

 煙草の臭いが染みついた部屋に風を通すために窓を開けた。車の騒音に混じって、ハンマーで金属をたたく甲高い音が直美なおみの耳にはいってきた。すぐ近くで新しいマンションが建設されていた。クレーンがゆっくりと回り、大きな鉄骨を軽々と持ち上げていく。

 地価が驚くほどに上がっていた。マンション建設のため土地を売った古くからの住民は、思ってもみなかった大金を手に入れたという噂を聞いた。この寮の土地もいったいどれほどの金額になるのだろうか。

 カレンダーをパラパラとめくってみる。四月になれば消費税という新しい税金ができる。百円の買い物に百三円とられるらしい。いつも一円玉を用意しておかなければならないのか、財布がぱんぱんになってしまうなどと、へんに所帯じみたことを考えている自分に気づく。

 ――あーあ、このままオバサンになっていくんやろか。

 自然とため息がでた。

 風はまだ冷たかった。きしむ窓を力を込めて閉めたとき、玄関で声がした。

 直美が出ていくと、大きなボストンバッグを提げた青年がぽつんと立っていた。高い背丈に濃紺のジャンパーとジーンズが似合っている。

「こんにちは。きょうからお世話になる田畑徹郎てつろうです」と彼はぺこんと頭を下げた。

「待ってたわ。さあ、あがって、あがって。そこにスリッパがあるでしょ」

 玄関の上がり口には、色や形の違うスリッパがごちゃごちゃと置いてあり、どれを使えばいいのか迷っていた。それを見た直美は、

「どれ使ってもかまへんわよ。この寮では、自分の物は自分の物。他人の物も、自分のもんやからね」と笑って、かぶっていた三角巾をとった。

 徹郎は、隅にあった平べったくつぶれたビニールのスリッパを選んで両足を入れた。

「スリッパだけでなく、名前さえ書いてなければだれの物を使ってもええんよ」

 スリッパに目を落とすと、マジックインキで名前が書いてあることに気づき、あわてて脱ぎ捨て、別のものに履き替えた。

 玄関を入ってすぐの部屋には、窓際の大きなテーブルの前に五脚ほどの椅子が並んでいた。テーブルの上には醤油さしや食塩の小瓶が置かれ、箸立てには十本ほどの塗り箸が詰め込まれている。水色にもねずみ色にも見えるテーブルの天板に茶色く輪っかになった醤油さしのあとがあり、片隅の黒電話のコードがくねくねとだらしなく巻きついていた。

 背の高い食器棚で仕切られたその奥は台所になっていた。流し台やガスコンロ、冷蔵庫、電子レンジ、大型の炊飯器などが置いてあり、コンロの上に大きなやかんがのっている。換気扇の羽根にまっ黒な油がこびりついていたが、台所は掃除が行き届いていて、床板はそれこそ、顔がうつるほど磨き込まれていた。

「荷物は、二階の3号室に入れておいたから。あとでたしかめてね」

 引っ越し荷物は、宅配便ですでに送ってあった。案内されて階段をのぼると、廊下に個室のドアが並んでいた。「ここよ」と言われた部屋のドアノブを回して入ると、陽に灼けた畳の部屋の隅に、半間ほどの押し入れがあった。開き戸になった襖をあけると、中に布団袋と二つの段ボール箱が入っていた。所帯道具はたったこれだけで、テレビや整理ダンスなどは給料が出れば、少しずつ買いそろえていこうと考えていた。

「あとで寮長を呼んでくるから、こまごましたことは彼から聞いて」

 そう言って部屋を出ていく姿を見て、徹郎は少し年上に見える女性を、人気マンガに出てくる美人の管理人さんと重ね合わせたりした。

 ――それにしても、汚ったない寮やなぁ。

 徹郎はこの春に工業高等専門学校を卒業した。親元を離れての一人暮らしははじめてだった。

 このあたりのアパートも探してみたが、ここ数年の不動産の急騰で、とても高専卒の新入社員が住める家賃ではなかった。そこで、社員寮に空きがあるというので、当面はがまんすることにした。

 部屋代はとびきり安かったが、木造の建物は周りの民家とくらべても古さが目立ち、わびしささえ感じさせた。雨漏りの染みがついている天井からぶらさがった裸電球が揺れていた。

 かび臭い押し入れに突っ込んであった段ボール箱を開ける。母が入れたらしいインスタントラーメンやレトルトのカレーとともに、細長い紙袋に入ったネクタイが出てきた。いささか地味な柄だったが、あれこれと迷いながら選ぶ母の姿が目に見えるようだった。

 早くに死んだ父に代わって、母は女手一つで徹郎を養ってきた。高専を出て大学への編入を考えなくもなかったが、やはり少しでも母には楽をさせたかった。大阪の会社に就職できたことが、母にはよほどうれしかったのだろう。

 布団袋を引きずり出してひもをほどいていると、ドアの隙間から、突然、男の顔がぬっとのぞいて徹郎は飛び上がった。

「寮長さんはおられませんやろか?」

 男は髪をオールバックになでつけ、狐のようにつりあがった目をしていた。仕立てのいいスーツを着こなし、金の鎖を巻いた右手にセカンドバッグを持ち、左腕には外国製らしい時計をはめていた。

 訊かれて徹郎は、自分はこの寮にきょう来たばかりで何もわからない、寮長がどんな人なのかさえも知らないのだと伝えた。

「そうでっか、ほなまた出直してきまっさ」

 と言って、自分が何者かも告げずに帰っていった。男の仕草や声色にはていねいさと図々しさが入り混じっていた。何より、キツネ目とねっとりした口調に、徹郎は異様な不気味さを感じた。

 男が出ていったことをたしかめるために、徹郎は下に降りた。玄関のドアは閉まっていて、人の気配はなかった。その足で台所に行って、冷蔵庫を開けてみた。家庭用の大型冷蔵庫の中には、野菜や果物、豆腐や納豆、冷凍食品などが所狭しと詰め込まれている。

 棚には、紙パック入りの牛乳やジュース、ペットボトルのコーラ、それに、数本の缶ビールがずらっと立ててあり、それぞれにはきちんと名前が記されていた。とくに缶ビールには、威嚇するように「飲むな」と書き加えられている。

 何も書かれていなかったジュースに手を伸ばしたと同時に、「おい!」と野太い声が飛んできて、徹郎は思わず手を引っ込めた。

 振り返ると、作業服を着た男が立っていた。髪は短く刈り込み、十歳くらいは年上に見えた。足元を見ると、さっき徹郎が履きかけたスリッパを履いていた。

「すみません。のどが渇いていたんで」とあわてて頭を下げると、

「何のことや? ここの寮長の内野(うちの)や。直美ちゃんから聞いて帰ってきた」と男は言った。

 直美ちゃんというのが、さっきの管理人さんだろうか。「お世話になります。よろしくお願いします」とあらためて頭を下げた。

「職場にもどらんとあかんから、あとでゆっくり話することとして、とりあえず、ひと通り案内しとこか。この奥が風呂とトイレ」

 内野の後をついていく。タイルが敷かれた浴室があり、ステンレスの狭い浴槽にバランス形の風呂釜がついていた。三つならんだトイレのドアを開けると、水洗の和式便器があった。水タンクの上に真っ黒なほこりがたまっていて、乱暴にちぎられたトイレットペーパーの端が下がっていた。

 二階には個室が八部屋あって、いまのところ寮生は新入りの徹郎を入れて六人という。廊下の突き当りのドアから物干し台に出られた。シャツやパンツ、靴下が風にひらめいていた。春の空気が心地いい。

「何かわからんことあるかなぁ」

「あのー、きょうは晩メシはあるんでしょうか?」

「ああ、そうやった。いつもなら賄いがあるんやけど、きょうはおばちゃんの孫が急に熱出して来られへんようになったらしい」と近くにコンビニがあるので、弁当でも買ってくるように言った。

「あとで買い物にいくので、買ってくることにします」

「悪いけどそうしてや。ほんならまたあとで」

 内野はあわただしく出ていった。

 まだ三時になったばかりで、徹郎は難波(なんば)にでも出てみようかと思った。ここからならば、ミナミの繁華街も自転車でも行ける距離だ。住み処は古びた社員寮でも、大都会大阪のまん中で暮らすのだと考えると、それだけで胸がワクワクした。

 夜になり、突然ドアがノックされ、二人の寮生がずかずかと入ってきた。徹郎よりもだいぶ年上に見える男性は、花田一平と名のった。ずんぐりとしたもう一人は寺本敬一(ケーイチ)といった。花田は畳に腰をおろすなり、ぶらさげてきた一升瓶の栓をポンと気持ちのいい音を鳴らして開けた。湯飲み茶碗がさしだされる。

「歓迎会や。あんた未成年と違うやろ。酒は飲めるよな」

 高専では、部活動の先輩について十八の時から飲み歩いていた。手にした湯飲みに日本酒がなみなみとつがれた。

 生まれはどこかという話にはじまり、親兄弟のこと、学校でどんなことを習っていたのか、彼女のこと(いないけど)、質問されてあれやこれやとしゃべった。二度三度湯飲みは空になり、空になると酒をつがれた。

 しばらくすると、また二人が入ってきた。佐喜真(さきま)武政(たけまさ)(サキやん)と隣の部屋に住んでいる吉岡伸郎(のぶお)(ノブ)だった。花田は長年住みついている牢名主のような人らしく、みんなはハナダさんと敬称で呼ぶ。これに寮長の内野和夫(ウッチャン)をあわせた六人が、あけぼの寮の住人ということになる。

 狭い部屋は男たちの汗くささでむせ返り、車座になって飲んでいると、山賊の酒盛りのようだった。寮長の内野がようやく帰ってきた。

「遅かったなぁ。残業かぁ?」

「会社と団交や。妥結までもう一歩や」そう言って、ウッチャンは自分で酒をついだ。

「大手は早々と決着して、マスコミは今年の春闘は終わったように言ってるけど、わが社はサクラが散るまで賃上げは決まらんのかいな」

「社長に言わせると、逆さにしても鼻血も出んらしい」

「大企業はたっぷり内部留保を溜め込んで、世間はこんなに景気がええのにか?」

「労使協調の大手組合は低額回答であっさり妥結や。社長もそれを見てるんやろ」

 内部留保、労使協調……、徹郎にはさっぱり理解できなかった。歓迎会だったはずが一人だけ取り残され、しかたなく酒をちびりちびりと飲んでいた。

「それより、このボロくそい寮を建てかえてくれんかなぁ」ケーイチがつぶやいた。

「ちょっと無理や。建てかえどころか、取り壊されかねへんでぇ」とウッチャンが話す。

「この寮も築四十年は超えてるからなぁ。この畳には職人たちの血と汗と涙、それと安い焼酎が染み込んでる」と変色した畳をハナダさんがなでた。

「まあ、寮の今後はまだわからん。それよかまずは田畑君の歓迎会や」とウッチャンが湯飲み茶碗をかかげ、山賊の酒盛りは延々と続いた。


 目が覚めた。

 天井にこげ茶色の染みがぬらぬらと広がっていた。カーテンのない窓の光がまぶしい。

 ――ここはいったいどこだ?

 しばし考え、ジーパンとトレーナーのままで寝ている自分を見て、徹郎はようやく、ここがきょうから働くことになった会社の寮であると頭のピントが合いはじめた。

「そろそろ起きんと遅刻するでぇ」と部屋の外から声がかかる。

 寝ぼけまなこで腕時計を見ると、すでに八時をだいぶ過ぎている。がばっと起き上がった。とたんに猛烈な頭痛がおそってきた。それに加えてひどい吐き気もする。

 急いで新しいワイシャツに着替え、母にもらった新しいネクタイを締めた。不器用にぎゅっと締めつけると、胃の中の物が飛び出てきそうだった。紺のスーツを着るとドアを飛び出し、洗面所で顔を洗い、曇った鏡の前でぼさぼさの髪を大急ぎで整えた。

 再び時計を見る。始業時間まであと十分。徹郎が勤める工場は、あけぼの寮のすぐとなりにあった。通勤時間ゼロとはいえ、初日から遅刻ではまずいと焦る。食堂にはまだ二、三人いて、「おはようさん。メシはええんか?」と背中に声を聞いたが、朝食どころではない。散らばった履き物から自分の革靴を探しあてて足をつっこみ、玄関を駆け出た。

 寮を出て二十歩ほど歩けば、会社の門前に来る。太い手書きの字で『大河内(おおこうち)製作所』と記された看板がかかる門をくぐると、普通乗用車ならば数台はおさまる広さの駐車場に、中型のトラックが一台とまっていた。

 正面に二階建ての工場があり、プレハブの小屋がへばりつくように建っていた。コンクリート造りの工場は外壁がかなり汚れ、ところどころにひびが入っていた。中からはすでに、金属が削られる甲高い音が聞こえている。

 大河内製作所は、おもに機械の部品を作る会社である。大企業の下請けでどうにか経営を維持していて、自社名が入った製品などは一つもなかった。戦前にできた小さな町工場を、先代の社長が焼け跡から苦労して再建し、息子である現社長に引き継いだ。旋盤一台ではじめた事業は、確かな技術と地道な営業で得意先をひろげ、いまではパートを入れて二十人ほどの従業員をかかえる会社となった。

 ネクタイを締め直し、徹郎は入口のドアを開けた。奥に事務室があった。薄暗い廊下の壁には、「安全第一」「節電」などの張り紙とともに、労働組合の掲示板があった。「たたかおう! 89春闘」「大幅賃上げを勝ち取ろう!」などと、ポスターの字がやたらと勇ましかった。

 ゆうべ寮生たちが交わしていた話が頭に浮かんだが、「たたかおう」などという呼びかけが、みょうに空々しく思えた。いったいだれとたたかうというのだ。

 事務室では、女性が背を向けて机にむかって仕事をしていた。

 声をかけると振り向いて、「おはよう。なかなか出勤してこないから、こっちから行こうかと思ってた」と立ち上がった。

 その顔を見て徹郎は、「あ、管理人さん!」と指さす。きのう出迎えてくれた女性だった。

「だれが管理人よ。わたしはここで事務員をしている大河内直美。きみ、ちょっと酒臭いわよ。目ぇも死んでるし」

 あわてて口を押さえた。それより、大河内という名前はひょっとして……。

「そっちのロッカー室に作業服が置いてあるから、着替えたら工場のほうに回って。工場に社長がいるからね」

 無愛想にそれだけ言って、直美はまた机にむかって仕事をつづけた。

 ロッカー室に入った徹郎は、さっき締めたばかりのネクタイをほどき、「田畑」と名札のついたロッカーの中に、きちんとたたんで置かれた作業着に手を通した。グレーの作業着の胸には、丸の中に「大」の文字が入った社章が刺繍されていた。作業ズボンをはいて、安全靴に足を入れた。足先を固い金属でカバーした靴の履き心地は決して良くはなかったが、上下の真新しい作業着を着て、帽子を目深にかぶると、それだけで一人前になった気がした。

 機械油の臭いがただよう工場では、吊り下げられた蛍光灯の光の下で十人ほどの職人が、旋盤やフライス盤などの工作機械を操っていた。モーターがうなる音がして、旋盤から火花が出ていた。金属が焼け焦げる臭いがする。

 徹郎の姿に気づいて、一人の職人が機械をとめて近づいてきた。帽子から出た髪は白髪まじりで、いかにも人の良さそうな顔をしている。社長の大河内昭一(しよういち)であることは、面接を受けたときからすでに知っていた。

「おう。よろしくたのむでぇ」

 顔をほころばせて、ぽんと徹郎の肩をたたいた。新入社員と言っても、社長が長々と訓示をたれるようなセレモニーは何もない。

「あんたにはしばらく見習いで仕事を覚えてもらう。きょうから指導係になる権堂(ごんどう)さんや」

 そう言って紹介された権堂は、ごま塩頭と顔のシワから社長よりも年配に思えた。

「いろいろ教えてください。よろしくお願いします」とうやうやしく頭を下げたが、

「とくに教えることはないなぁ」そっけない言葉が返ってきた。「あのな、仕事っちゅうのは教えてもらうものやなくて、盗むもンや」

「ゴンさん、まあお手柔らかにたのむわ。田畑くんは高専出の優秀な人材やからしっかりめんどうみてやってや」

 徹郎が困惑しているのを見かねて、大河内社長がとりなした。

「とにかく、じゃまにならんように働いてや」

 ものの言い方が一つ一つ癇にさわったが、徹郎からすれば祖父のような年齢でもあり、ぐっとこらえた。

 結局、その日は機械に指一本触らせてもらえず、旋盤の切り子をほうきで集めたり、在庫品の整理など雑用を言いつけられ、新入社員の一日目はあっという間に終わった。

 寮に帰ってきたら、賄いのおばちゃんが台所で忙しく働いていた。炊飯器から勢いよく湯気があがり、三つあるガスコンロはすべて火がついていた。おいしそうな匂いが食堂にまであふれる。たいした仕事もしていないのに、徹郎は急に腹が減った。

 おばちゃんは、半分以上白くなった髪を後ろで団子にしていた。ちょっとだけ腰が曲がっていて、小さな身体に白い割烹着が似合っていた。

「よろしくたのみます」とおばちゃんにあいさつした。

「きのうは申し訳なかったなぁ。病院でえらい待たされてなぁ」

 息子夫婦といっしょに住んでいるが、それをいいことに、孫を押しつけて嫁はさっさとパートに出かける。嫁が少しは家のことをやってくれればいいのに、料理も掃除もほとんどわたしに頼りっきり。嫁も洗濯くらいはしよるけど、だいたいあんた、あんなもんはスイッチ押すだけやろ……。

 包丁を使ったりお玉を持ったり、コンロの火加減を見たりしながら、おばちゃんの愚痴には終わりがなく、徹郎はさっさと退散した。

 次の日もまた次の日も、掃除と製品の運搬など雑用の繰り返しで、そんなことが一週間つづいた。簡単な作業ばかりで、やることがなくなるとこっそり休憩室でテレビを見て時間をつぶすこともあって、仕事は楽でもさすがに不安になってきた。

 工業高専で五年間も学んできた技術を、本当にこんなちっぽけな工場で活かせるのだろうか。そう考えはじめると、工場にある機械がすべて古びて見え、旋盤の回転音が錆びついて聞こえ、知らずほうきを持つ手も止まっていた。

 そのとき、不意にだれかに背中を突き飛ばされた。バランスを失った徹郎は、つぶれたカエルのように床にころび、その姿を見た職人たちのせせら笑いが聞こえた。

「そんなところにぼさっと立ってたらじゃまやろ」権堂がいた。

「何するんですか!」と打ったひざをさすりながら立ち上がる。真新しい作業着にはべっとりと機械油がついていた。

「ほら、さっさとどかんかい」こんどは頭をたたかれると、さすがにこらえきれなくなった。

「いつまでこんなことやらせるんですか? これはいじめですか?」

 無視する藤堂にだんだんと怒りがこみあげ、「こんなつまらん仕事、いったい何の意味があるんですか!」徹郎は床にほうきをたたきつけた。

「あのなぁ、あんたの質問に一つ一つ答えてやってるヒマはないけど、一つだけ言うとく」権堂は冷たく言った。「この世の中に、意味のない仕事なんてない。つまらない仕事もない。すべてがだいじな仕事なんや」

「ぼくはほうきで掃除するために就職したんではないです。旋盤の使い方くらい高専で習って知ってます。なんで使わせてくれないんですか」

「思い上がるのもええかげんにせぇ」権堂の口調が変わった。「あんたは初出勤で酒の臭いをぷんぷんさせて職場に出てきた。一週間たってもほうきを握ってぼーっと掃除してるだけ。仕事は教えてもらうんやなく、盗むものやとわしが言ったことを忘れたんか?」

 そう言われると、何も言い返せなかった。

「コーセンかゲーセンか知らんけど、学校のお勉強がここで役に立つと思うな!」

 突き放され、ほうきを拾い上げた徹郎の手が震えていた。権堂は何もなかったように旋盤の前で作業をはじめた。

 その翌日、徹郎は朝早くに工場に出勤した。

 工場の鍵はすでに開いていたが、工員はまだだれも来ていない。静まりかえった作業場を、徹郎はほうきを持って隅から隅まで掃いた。それが終わると、ほこりが溜まった部品棚を力を込めてぞうきんをかけた。額から汗が吹き出し、コンクリートの床に落ちた。出しっ放しになっていた工具を、使いやすいように順序よく工具入れに収め終わったころ、一番手の工員が出勤してきた。

 権堂が顔を出すと、待ちかねたように徹郎は近づいていった。

「掃除は終わりました。じっくりと仕事を拝見させてもらってもいいですか」

「勝手にしたらええやろ。あんたの職場なんやから」

 部品の図面をちらりと見て、権堂は旋盤にバイトを取りつけた。ハンドルを動かすと、キーンと甲高い音がして、ゼンマイのようにきれいに丸まった切り子が、ぱらぱらと床に落ちていった。切削油の臭いがただよう。

 きのうのことが忘れられない。あんなにもみじめな気持ちになったのははじめてだった。このまま会社を辞めてやろうと何度も考えた。しかし、ひと晩寝たら考えは変わっていた。ここで逃げればもっとみじめになる。辞めてたまるかと腹を据えたのだ。

 権堂は削りあがった部品を手に取って、マイクロメーターで寸法をたしかめて製品の箱に収めた。手早くバイトをつけ替えて、ふたたびハンドルを動かす。音が微妙に変化し、切り子の形も違った。またマイクロメーターで計る。箱に入れる。その繰り返しで、さまざまな大きさの部品ができあがっていった。

 徹郎はその作業をひとつも見逃すものかと、権堂の手もとをじっと見ていた。高専時代に旋盤は何度も実習した。だが、いま目の前で見ている権堂の手の動きは、実習とは明らかに異なっていた。どう表現すればいいのかわからないが、単に材料を削っていくのではなく、完成品はもともと鉄の塊の中に存在していて、それを慎重に掘り出しているような感じだ。

 その動作に徹郎は見とれていた。最初は意地になって権堂にただしがみついていたが、きびきびとした手の動きにだんだんとひきつけられ、目が離せなくなり、やがてとりこになった。

 数日後、権堂はいくつかの部品を仕上げたあと、突然、「ほれ、あんたもやってみろ」と旋盤の前から離れた。

「毎日、穴があくようにわしの仕事を見てたんやからできるはずや」

 ためらいがちに旋盤の前に立った。図面の数字を頭に入れてから、旋盤のダイヤルゲージをあわせる。ゴーグルをつけて右手でハンドルを握った。久しぶりの感触だった。手に伝わる振動が心地いい。グイーンという機械の唸り声が徹郎を励ました。

 恐る恐るバイトを製材にあてる。一つの部品を仕上げるのに、ずいぶん時間がかかった。ようやく仕上がった製品を権堂に渡した。

 権堂はそれをちらりと見ただけで、マイクロメーターで計ってみるようにうながした。外形の寸法が〇・一ミリ程度狂っていた。

「そりゃ使い物にならんなぁ」とにべもない。

「これくらいは、誤差の範囲とちがいますか?」

「あのなあ、一つの機械は何百、何千の部品でできてる。わずかな狂いでも、積もり積もって故障するかもしれん」

 黙っている徹郎に権堂が追い打ちをかける。

「一つの機械が故障しただけで、工場全体の生産が止まる場合もある。その工場がストップすれば、関連の工場も作業が止まる。何百人という工場の労働者はメシの食い上げや」

「故障すれば修理すればいいじゃないですか」と口をとがらせた。

「アホ言え、この部品はどこに行くと思ってるんや。海の彼方のマレーシアや。しかも、都会から何百キロも離れた山の中の工場で使われる機械や。そんなとこまであんた行ってくれるんか?」

 何も言い返せなかった。それより、マレーシアという地図帳でしか見たことのない国の名前を耳にして、こんな小さな町工場にいる自分が、世界を相手にしているような気持ちになった。

「結局、職人の仕事は工場の中で完結させんとアカンのや。だから作業場に一歩足を入れれば真剣勝負や。百分の一ミリの誤差も許されへん。お金をもらって仕事するというのはそういうことや」

 権堂は手にした部品を、不良品の箱にポンと投げ入れた。ガシャンというくぐもった音がした。音まで不良品に聞こえた。

「あしたからは徹底的に仕込んでやる。覚悟しとけ」と尻をたたかれた。

 徹郎に代わって権堂がハンドルを握ると、旋盤はふたたび軽快な音をたてはじめた。


 夜の公園は冷え込んで、猫の仔一匹いなかった。

 寒々と灯る街灯の光にちらちらと白く反射しているのは雪だろうか。早代(さよ)は、ベンチに座って足をぶらぶらさせている千佳(ちか)のコートの襟を、両手でしっかりとあわせてやった。ピンク色のコートの袖口は汚れ、キルティングの糸がほつれていた。

 冷気にさらされた左の頬がまだ熱い。ささいな諍いだったのに、いきなり平手打ちが飛んできた。壁のフックにぶらさがったコートを乱暴につかみ、娘の腕をつかんでたったいまアパートを飛び出してきた。

 すっかり冷たくなった千佳の手を引いて、公園の片隅にある自動販売機まで歩いていった。何かあたたかいものを飲ませてやりたかった。

 電気が明々とついた自動販売機には、ジュースにコーラ、スポーツドリンク、ウーロン茶からコーヒー、紅茶にいたるまでよりどりみどりの飲み物が三段に並んでいた。夏にはすべて「つめた~い」だった飲み物のボタンが、いまは下一段が「あったか~い」に変わっている。

 かじかむ指でがま口を開いた。百円玉が五枚ほどあった。あとは十円や一円が数枚としわくちゃになったスーパーのレシートが入っていた。早代は百円玉を一枚取りだした。自動販売機の蛍光灯に反射する硬貨を見て、最近できた百円均一の店でクレヨンを売っていたのを思い出す。二十四色がそろっていて、たった百円だったのにはびっくりした。

 もうすぐクリスマスだ。お絵かきが大好きな千佳に、クレヨンと画用紙をプレゼントしてやろうか。でもそんなもんじゃ、サンタさんがしかられるだろうか。何でもいい。とにかくさみしいクリスマスにしたくはなかった。

 手にした百円玉を自動販売機にすべりこませる。中でコトンと音がした。「つめた~い」と「あったか~い」のランプがいっせいにつく。

「どれがええかなぁ?」

「モーモー」

 かすかな声だったが、早代にははっきりと聞こえた。小さな指が『牛乳たっぷりミルクコーヒー』の缶をさしていた。両方の鼻の穴も目も耳も大きい牛が笑っていた。千佳の目を見て、

「モーモー、笑ってるなぁ。なんで笑ろてんのやろなぁ? なんか楽しいことあったんかなぁ?」と大きな声で訊いた。

「千佳はモーモーが好きやのン? ……そや、みんなで見に行ったことがあるなぁ。ブーブーも、コケコッコーもいたなぁ。あれはどこやったやろか。千佳はおぼえてる?」唇をゆっくりと動かして話しかける。

「ぼくじょう」

「そうそう。たのしかったなぁ……」

 千佳が難聴と診断されたのは、たしか三歳の誕生日のひと月前だったはずだ。うすうす感づいていたことでも正面切って宣告されると、自分でも予想していなかったほどうろたえた。とまどう早代に、若い男性医師は、もっと早く連れてくるべきだったと悔やむ一方、まったく音が聞こえていないわけではないし、子どもはお母さんの言っていることに一生懸命に耳を傾ける、口の動きとか耳以外からもお母さんの言葉を理解しようとする、だから、両親が口も手も使って語りかけることが大切なんですと、身振り手振りをまじえて熱心に教えてくれた。

 その日から、千佳とのお話が大切な時間になった。きょうはお天気がええなぁ、あしたは雨かなぁ、風が吹いてる、お花がきれい、鳥が鳴いてる、アリさんが歩いてる……、たわいのないことでもしんぼう強く繰り返し語りかけた。手をたたきながら歌も歌った。

 母親の努力は娘にも伝わった。「ワンワン」「ニャーニャー」「ブーブー」からはじまって、「だっこー」「おでかけ」「おなかすいた」と口から出てくる言葉が増えていく。会話できた言葉は根気よくメモして、冷蔵庫の扉にマグネットではさんだ請求書や領収書の横に、セロテープで一枚一枚はりつけた。

 こんなことで難聴がよくなるのかどうかわからない。でも早代は、娘の耳をいつかかならず目覚めさせてやるのだと信じつづけた。

 だけど、夫は違った。何を話しかけても反応の乏しい娘を、だんだんと疎ましく思うようになった。「パーパー」と呼ばれても、知らん顔をする夫の態度には、腹が立つよりも悲しくなった。もっとだいじに相手してほしいとたのんだが、ちっとも耳を貸さなかった。そればかりか――。

「モーモーよりも、こっちのミルクティーにしとこか」と指さす。

 コーヒーでは眠れなくなるかもしれない。小さな頭がコクンと頷くのを見て、早代は「あったか~い」のボタンを押した。ガタンと音がして缶が出てくる。プシュっとふたを開けて千佳に手渡した。

 暗闇に目が光った。ニャーと泣きながら猫がのっそりとあらわれた。白黒のぶちの猫は遠巻きにしてしばらくふたりをじっとながめていたが、そのうちどこかへ行ってしまった。

 街灯を見上げる。雪の粒がまた大きくなったような気がした。

「帰ろか」と早代は缶であたたまった千佳の手をにぎった。


 待ちに待ったはじめての給料日がやってきた。

 給料日と言っても、銀行に振り込まれるので、渡されるのは明細書だけだ。それでも職場は、送別会の集金やら飲み屋のワリカン払いの清算やらで、朝から何となくそわそわした雰囲気があった。

 徹郎も、紙切れ一枚の初月給をうやうやしくいただいた。数字を見て、あまりにも手取り金額が少ないことに愕然とした。もちろん初任給が少ないのはわかっていたが、所得税と地方税をこんなにもとられるとは知らなかった。さらにそこから、厚生年金、健康保険、雇用保険が引かれ、何に使うのか不明な厚生費、互助会費とつづき、最後に組合費が引かれていた。役員からの熱心な誘いを断り切れず、つい先日、労働組合に加入した。

 それにしても組合費は痛いなぁとぼやいていたところに、うしろから肩をたたかれた。組合で役員をしている石塚だった。

「田畑君、たのみたいことがあるんやけど」

 営業担当の石塚は、きちんとネクタイをしていた。整髪料の匂いがした。

「なんでしょうか」

「きみにも青婦部に入ってもらいたいんや」

「セーフブ?」ちょっと考えて、「ぼくは政府とか政治の話は苦手なんですけど……」

「あ、ちゃうちゃう。そのセーフとはちがうねん」

 労働組合のなかに、青年層と女性の組合員で青年婦人部という組織をつくっているらしい。その一員になってもらいたいという。

「たとえば結婚できる賃金がほしいとか、もっと休みがほしいとか、ぼくら若者の要求はいくらでもあるやろ。それを実現するためにたたかうのが青婦部や」

「はあ、たたかうんですか……」ポカンとした。

「きょうの昼休みに青婦部の例会があるから、とりあえず出てくれるか。たのむわ」と手を合わせ、石塚は大きなショルダーバッグを肩にかけると、「弁当出すからな」と言ってあわただしく営業に出ていった。

 休憩室で開かれた青婦部の例会には、十人ほどが集まった。ケーイチ、サキやん、ノブのあけぼの寮メンバーも来ていて、女性は直美だけだった。外回りからもどってきた石塚が、額の汗を拭いながら話をはじめた。

「ごくろうさんです。まず新しく田畑君が青婦部に加入したことを報告します。きょうから仲間です。いっしょにがんばりましょう」と徹郎を紹介すると、いっせいに拍手が起こった。さっき声をかけられただけなのに、すでに部員にされていた。

 例会は、活動報告にはじまって、春闘の情勢などの報告がつづいた。「労働戦線統一」の動きが紹介され、今年の秋に『連合』と『全労連』という二つのナショナルセンターが結成されるという。

 石塚は、自分たちは戦後労働運動の歴史的な幕開けに立ち合っているのだと、ことさらに力を入れたが、徹郎はそもそも、ナショナルセンターとは何なのかさっぱりわからなかったし、二つに分かれるのになぜ「統一」なのか首をひねった。

 報告ばかりで、うつらうつら居眠りしている部員もいた。最後に来月に予定しているボーリング大会の進行と任務分担を確認し、昼休みの時間をだいぶ残して例会は終了した。徹郎はボーリング大会のチラシを折りたたんで、作業着の胸ポケットにいれた。

 ゴールデンウイークが明けた次の日曜日に、青婦部主催のボーリング大会は開かれた。日頃から交流がある市民病院労組から、看護師の女性が三人来ていた。

 直美も友だちを一人連れてきたので、男女ともに五人ずつとなり、テレビの『フィーリングカップル5vs5』みたいになった。男性連中は、三人の看護師にいいところを見せるのに一生懸命で、うけをねらうあまりレーンの前でわざとすべってコケる芸達者もいた。

 三ゲームがあっという間に終わり、近くの居酒屋での懇親会へとうつった。夜勤があるからとさっさと帰った看護師グループを除いた七人が、安い居酒屋に肩を寄せ合うように座っていた。

 直美は、一気に半分あけた生ビールのジョッキを片手に、

「あんたら、あの子らにサービスしすぎやわ。なんやの、あのわざとらしいはしゃぎ方は」と口をとがらせた。

「若い女性と交流したいというのも、青年の切実な要求やろ」と石塚が弁解する。

「あのねえ、うちは青年婦人部でしょうが。婦人、つまり、わたしら女性の要求もきちんと考えてもらわんと、存在意義がないでしょ」

「生理休暇とか、産前産後休暇なんかはきちんと会社に守らせてるやないか」

「そんなん当然の権利や。ようやく均等法もできたし。わたしが言ってるのは、女性が快適に働ける職場づくりや」

「たとえば?」

「うちの会社にはいまだに女性専用のトイレがない。佐藤さんは音が聞こるのをいやがって、昼休みまでしんぼうして喫茶店に駆け込んでるのをあんたら知ってる?」

 佐藤さんというのは、経理のベテラン事務員だ。

「そんなんお父様に言えや……あいたっ!」口をはさんだノブのむこうずねを、直美が思い切り蹴とばした。

「要求して実現するのが、青婦部の仕事とちゃうのん!」

 直美は大河内社長のひとり娘で、京都の短大を出て家業を手伝っていた。みんなの噂では、半分は花嫁修業であり、社長は後を継いでくれる婿をさがしているらしい。母親を中学生の時に病気で亡くしており、近くのマンションで親一人子一人で暮らしていた。

「それにしても、今年もぜんぜん給料あがらんかったなぁ」

 分が悪いと見た石塚が、さっさと話題を変えた。

「ホンマや。ボーナスも期待できそうにないなぁ」とさっそくノブが話をあわせる。

「けども、株価はうなぎ上りで、銀行に勤めてる友だちは、びっくりするほど年末のボーナスが出たって自慢してた」

「何千万円もするマンションがボンボン建ってる。それもすぐ売れるらしい」

「何百万もの高級車が売れたり、高級レストランで食事して高級ホテルに泊まったり」

「世の中、何かが狂ってる。でも何が狂ってるのかわからへん」

 石塚は、さっきから話に加わってこない徹郎にむかって、「なあ田畑君、きみの要求を教えてよ」と水をむけた。

「要求……?」突然の問いかけにとまどう。

「もっと給料がほしいというだけでなく、たとえば、いま住んでる寮にこんなものを置いてほしいとか、ここを直してほしいとか。何かこうしてほしいと思うことが、つまり要求よ」と二杯目のジョッキを手にした直美が言った。

 たしかに、足を折りたたまないで風呂に浸かりたいし、和式便所は洋式にしてほしい。最近宣伝しているウオシュレットがあれば……。でもそれらは、自分ひとりの願望だろう。考え込んでいると、

「そういえば、昔、あの寮を手放そうとしたことがあったんよねぇ」と直美が言った。

「そうや。それを阻止したのが、わが大河内製作所労働組合だったんや」と石塚が胸をはった。

「へぇ、どんなことがあったんですか?」徹郎が訊いたが、

「そのうち話したるわ」

 話はそれで立ち消えになり、すぐに話題は移ってしまった。

 懇親会がお開きになったあと、ノブの行きつけのスナックにふたりで行った。古い雑居ビルの階段を上がっていき、『あゆみ』と書かれたドアを開けると同時に、若い女性が飛び出してきてぶつかりそうになった。

「サユリちゃん、そんなにあわててどうしたん?」ノブが声をかけると、

「いらっしゃい。お先に失礼しまーす」とだけ言って、けたたましいハイヒールの音を響かせて階段を駆けおりていった。

 店の中は薄暗い照明がついていた。十人も入ればいっぱいになる狭さで、カウンターの端に男性客が一人だけいた。

「ノブちゃん、いらっしゃーい!」とママらしき女性が元気のいい声でむかえた。

 暗い照明と厚化粧でママの年齢はよくわからないが、紫の派手なワンピースを着て、ウエーブがかかった栗色の髪をしている。うしろの棚からノブのボトルをさがしだし、手際よく水割りを作って「ゆっくりしていってね」とほほえむと、奥の男性客の相手をしだした。

 徹郎とノブは、ミックスナッツをつまみながら水割りをちびちび飲んでいた。工場で失敗したこと、うまくいったこと、新しい機械の扱い方、難しい形の部品の加工方法……、出てくる話は仕事のことばかりだった。「サザン唄ってよぉ。ノブちゃんの十八番の『いとしのエリー』」とママに歌詞カードを渡されても、ふたりは話をやめなかった。

「テツ、おれは日本一の職人になるでぇ」

 二年前に高卒で採用されたノブは、徹郎と同い年だった。もちろん職人としての腕前はノブが数段まさっていたが、徹郎をライバルのように思っているらしかった。旋盤の前で作業する徹郎が振り返ると、ノブが真剣なまなざしで見つめていたことがあった。こうして飲むと、ノブは競争心をむき出しにする。

「そうか、そんならおれは世界一の職人になる」と徹郎も負けてはいない。

 スナックを出て、街灯が一つだけある小さな公園の脇を通り、だらだらと続く坂をのぼって寮まで帰る。急にノブが坂道を駆けだした。徹郎が、「待たんかい!」と必死になって追いかける。

 アルコールがぐるぐる回って、ふたりともその場にへたり込んだ。息を切らしながらも、

「テツ、やっぱり世界一になるのはおれや! おれのほうがおまえより先輩やろ」と突っ張る。

「タメやないか。えらそうに言うな」

「おまえなんかに負けるか」

「なんやと」と言って徹郎が立ち上がると、ノブがまた走りだした。

 ふらふらの足で抜きつ抜かれつ、ふたりの笑い声が夜道を駆け抜けた。

 見上げるとたくさんの星がきらめいていた。ふと、サユリというあの女性の姿が頭に浮かび、あのとき、なぜあんなにあわてていたんだろうかと一瞬だけ思ったが、その姿はすぐに消えた。


 ジャーっと勢いよく水を流す音がした。ギイっと扉が開いて、ハナダさんがまん中のトイレから出てきた。

 食堂の隣に台所があり、その先の廊下に三つのトイレが並んでいる。これらを隔てるドアはない。つまり、食堂からトイレまでが素通しということで、時としてトイレの方向から音ばかりか臭いさえも、食堂まで流れてくることがあった。

「往生したでぇ。タンクが壊れかけで、また水が出んようになった。どうにかウンコが流れてくれた」

 ハナダさんは食堂にいた徹郎に近づき、生々しく語った。たちまち、賄いの残り物のカレーライスを食べていたスプーンが止まる。

「よくあるんですよね。へへ」としかたなく愛想笑いする。

「まん中のは水が出ないし、奥のはよく詰まる。だいたいいまどきなんで和式やねん」

「修理とかたのまないんですか」

「総務に何度言うても無視や。ここを犬小屋とでも思ってんのんとちゃうか」

「はあ……」

 あけぼの寮に住み始めてほぼ三か月が経つが、徹郎もあれこれと悩まされた。水の流れないトイレもそうだが、古いバランス式の風呂釜の扱いもひと苦労だった。ハンドルをカシャンカシャンと何度も手で回して、ようやく種火が頼りなさそうについた。

 台所のガスコンロもなかなか火がつかず、おばちゃんはいつも苦労しているようだった。食器棚は傾き、不揃いな食器は電子レンジで酷使されたのか、ひびが入ったものが目立った。

 足元がまっ暗な玄関の防犯灯の設置、畳の張替え、壁の塗替え、簡単に開いてしまうドアの鍵の取り替え……。次から次へとどうにかしてもらいたいことが浮かんでくるのだが、そんなことが、果たして石塚たちが言うような「要求」になるのだろうか。

 会社はここを、ハナダさんの言葉を借りて言えば、犬小屋くらいにしか考えていないらしい。そのうえ社長は、組合との団交でことあるごとに寮の敷地の売却をにおわすらしい。ここに来た初日、ふらりと顔をのぞかせたキツネ目をした気味の悪い男は、ウッチャンに訊けば、このあたりの土地を狙っている不動産屋だという。そんなことを考えると、「要求」が実現するとは思えないのだ。

 六月の下旬になって、ようやく夏の一時金交渉が労使間で妥結し、ささやかながらもボーナスが支給されることが組合から報された。徹郎にとってははじめてのボーナスである。いろいろ欲しい物はあったが、何より初ボーナスで母に何かプレゼントしようと決めていた。スカーフがいいか財布にするか、あれこれ考えていたとき、石塚にまた声をかけられた。

「これ、たのむでぇ」と差し出した色つきの紙切れには、『青婦部主催ビアパーティー』と記され、泡が入道雲のようにあふれたジョッキが描かれていた。

「パー券五枚。青婦部員のノルマやから。知り合いがいたら、だれでもええから連れてきて。もちろん若い女性大歓迎!」

 ボーナスを当て込んで、ビアパーティーを開くことが青婦部の恒例行事になっていた。会社の駐車場を借りて、椅子やテーブルを出して、社員だけでなく家族や友人も連れてくる盛大な催しだった。社内の交流を深めるという名目で会社には認めさせているが、青婦部の活動資金稼ぎにほかならない。

「チケットは買い取りやけど、来月の給料から引いとくから現金はいらんで」

 有無を言わさず五枚のパーティー券を押しつけ、石塚が立ち去ろうとすると、

「あ、石塚さん、ちょっといいですか」と呼び止めた。

「何?」

 少しためらいながらも、徹郎は、考えていた寮の改修について、思い切って話してみた。壊れかけたトイレを洋式にする、種火のつかない風呂釜を取り替えて浴槽を広くする、ガスコンロに防犯灯……。

「こんなことが、この前きかれた『要求』なんて言えないと思いますけど――」

「何言うてんねん! まさにそれが要求やんか。要求そのものや」

「でも実現しそうにないし」

「そう考えるのがまちがいなんや。あきらめたらそれで終わり。あきらめなければ要求はかならず実現する。たたかってこそ要求は実現する。困難に立ち向かうのが団結の力や!」

「はあ」

 迫力に押されて、徹郎はあいまいに相づちを打った。

「実を言うと、あのボロ独身寮は前から気になってたんや。けど、かんじんの寮生からはこれといった声が聞こえてこない。それでは会社と交渉のやりようもない。ええ話聞かせてくれた」石塚は大げさに肩をたたいた。

「いまは時間がないからゆっくり話が聞けんけど、次の例会であんたから問題提起してくれるかなぁ」

「問題提起なんて……」

「たのむで」と一方的に言うと、パーティー券の束を手にして石塚は立ち去った。


 日曜日、梅雨の晴れ間とくれば、物干し場は見事なまでに洗濯物に埋め尽くされた。

 二層式の洗濯機はとにかく時間がかかった。とくに休日は順番待ちで午後にずれ込むのはしょっちゅうだ。それに、脱水層を開けるとひからびてからみついた洗濯物が置き去りにされていたりで、干し終えたときにはすでに日が陰っていたこともあった。

 もう一台洗濯機があれば……それも全自動がほしい。徹郎の「要求」にまた一つ加える。

 手すりに干した布団を、ケーイチが長いステンレスの定規でパンパンとたたいていた。サキやんは、ビニールのほころびが目立つボンボンベッドに横たわり、上半身裸で日光浴をしていた。真っ黒なサングラスをかけ、濃い胸毛があばらの浮いた白い肌を埋めていた。佐喜真という名前から沖縄の出身だと勝手に理解していたが、よくわからない。

「佐喜真さん」ようやく洗濯機の順番が回ってきて、たったいま洗濯物を干し終えた徹郎が声をかけた。

「サキやん、でいいよ」

「じゃ、サキやん。サキやんは沖縄の人なんですか?」片隅に置いてあった錆びついたパイプ椅子を持ってきて、そばに座った。

「宜野湾(ぎのわん)市。米軍の普天間(ふてんま)飛行場がある基地の街だよ。ぼくが生まれたのは」

「フテンマ……」

 その名は聞いたことがあった。爆音をとどろかして、わが物顔で住民の頭上を飛び交うジェット戦闘機やヘリコプターをテレビで見たことがある。

「またいつか宜野湾の話もしてあげようね」と言ってサキやんは黙り込んだ。

 それ以上会話がつづかず、空になった洗濯カゴをつかみ、徹郎は自分の部屋にもどった。

 部屋には、組み立て前のカラーボックスが二組置いてあった。ドライバーで組み立てていく。いくつものねじを回すと汗が流れた。

 殺風景だった六畳間には明るいグリーンのカーペットが敷かれ、十四インチのテレビもリサイクルショップで買ってきた。VHSのビデオがついている掘り出し物だ。一人用の冷蔵庫は、ウッチャンがいらなくなったというので、即譲り受けた。隣のノブは勝手に冷蔵庫に缶ビールを入れて、勝手に部屋に入ってきては、勝手にレンタルビデオを見ながら飲んでいく。

 組みあがったカラーボックスを壁際に置いてみる。そのとき、柱の何かが目にとまった。

 ――なんだろう?

 目を近づけると、小さな文字のようなものが刻まれていた。「Y 8才」とかろうじて読み取れる。その下には「Y 7才」、さらにその下に「Y 6才」とあり、少し離れたところには「S 4才」と記されていた。

 四つの印は彫刻刀のようなもので器用に彫られていて、「S」の字や数字も角張ってなくきちんと読みとれる。かなり以前のものらしく、かすれていていままで気づかなかったが、位置からすれば子どもの背の高さを記録した印のようだ。一瞬首を傾げたが、そのときはそれほど考えず、カラーボックスに身の回りの物を押し込んだ。

 収まり切らなかったマンガ雑誌や本はとりあえず、鴨居の上にちょうど良さそうな幅の棚があったのでのせておくことにした。踏み台を持ってきて棚の上をのぞくと、へりのところだけ大ざっぱに拭いた跡はあったが、奥のほうはうず高くほこりでおおわれていた。

 そのなかに、はがきのような何枚かの紙切れを見つけた。つまみ上げて、ふっと息を吹きかけてほこりをはらうと、三枚の古い写真であることがわかった。モノクロ写真はすべて色あせ、ところどころ染みがついていた。裏返してみたが、何も書かれていなかった。

 一枚の写真には、スーツを着た角刈りの男性と着物姿の女性の前に、男の子と女の子が行儀よく立っていた。男の子のほうが背が高く、窮屈そうにネクタイを締め、半ズボンをはいていた。おかっぱ頭で振り袖を着た女の子は、手に千歳飴の袋を持っていた。

 写真館で撮ったものらしく、借り物らしいサイズが合わない服を着た男の子は居心地が悪そうだったし、目がくりくりした女の子は、白い歯をみせてはいたが、いかにも無理やり笑顔をつくっているようだった。

 二枚目は運動会の写真らしかった。ハチマキをした男の子が先頭を走っていて、そのすぐあとを二、三人が必死の形相で追いかけている。まわりの子どもらは一生懸命に応援していて、晴天にめぐまれた運動場には、子どもたちの影がはっきりと映っていた。最後の写真は、どこかの海水浴場で撮ったものだった。半そでのシャツを着て麦わら帽子をかぶった男性と白いワンピースの女性の間に、真っ黒に日焼けした海水パンツの男の子が立っている。それは七五三の写真に写っていた家族で、父親は男の子の頭をなでて笑っていた。

 たぶん、棚の上にアルバムか何かを置いていて、それを持ち出すときに挟んであった写真がすべり落ちたのだろう。三枚の写真を手にして、しばらくあれこれと考えたあと、もう一度、柱のキズをたしかめた。そして徹郎は、写真を手もとにあった本の間にだいじにはさみ込んだ。

 梅雨の晴れ間は長続きしなかった。週明けは朝から雨がしとしとと降っていた。

 湿った空気は、ただでさえ時間のたつのが遅い月曜日の職場をいっそう重くさせていた。昼休みのチャイムを待ちかねたように、職人たちは作業場から出てきた。

「ちょっといいですか」と休憩室にいた権堂に声をかけると、手にしていたスポーツ新聞をたたみ、「なんや」と徹郎をにらんだ。

「見てもらいたいものがあるんです」と三枚の写真を手渡した。

 権堂は顔を近づけて、写真をかわるがわるながめていたが、はっと顔をあげた。

「テツ、これはどこにあったんや?」

「寮の部屋から出てきたんです。そこに写ってる家族のことを、権堂さんだったら何か知ってるかと思って持ってきたんです」

「ああ、よう知ってる。昔の同僚や。この右の男は山下といって、腕の立つ職人やった」と懐かしそうに語った。

「もう二十年、いや三十年くらい前になるかなぁ。いまは独身寮やけど、昔は世帯持ちの職人も暮らしてたことがあったんや。六畳一間に四人、いや、五人いた家族もあったなぁ」

「へえ、あの部屋にですか」ちょっと驚き、写真を指さした。「気になったのは、この千歳飴をぶらさげた女の子のことなんです。海水浴の写真には女の子は写っていない」

 権堂は煙草に火をつけ、しわがれた声で語り出した。

「妹はサチコという名で、兄のほうはたしかヨシオやったかなぁ。四人でしあわせに暮らしてた。ところが、あるとき、サチコが病気になった。まだ小学校にも上がってなかったから四、五歳のときや」

「七五三の写真を撮ったときは元気そうに見えてますけど……」

「何とかいう難しい名前の病気で、山下はあちこちの病院を走り回った。大学病院に受け入れてもらえることになったんやけど、治療費は山下の給金だけではとうていまかないきれないほど高額やった。それでも娘の命を助けたい一心で、とにかく入院させた」

「それで、助かったんですか?」

 権堂は首を振った。

「半年くらい入院してたけど、残念ながらサチコは、おかあさんに見守られながら死んでしもた。死ぬ間際までおとうさんを呼んでたらしいけど、山下が駆けつけたときは、もう遅かった」

「S 4才」の印が頭に浮かんだ。

「山下は足りない治療費を高利貸しから借りてた。しばらくはやりくりして返済してたようやけど、なんせ相手はヤミ金業者や。利子だけが雪だるまのようにふくらんでいく。にっちもさっちもいかず、とうとう家族で夜逃げしてしもうた。あいつは仲間にも話さんかった。不器用な男やったんや。職人としての腕はとびきりやったけどな」

 その後の一家の行方はまったくわからなかった。借金を踏み倒されて腹を立てたヤミ金業者が、会社の寮に土足で乗り込んできた。金が返せなければこの部屋を借金の形(かた)にもらうと無茶苦茶なことを言って脅し、人相の悪い連中が六畳間に何日も居座りつづけたという。

「一晩じゅう麻雀したり、女を引っ張り込んだり、酒を飲んで騒ぎまわったりで、それこそやりたい放題やった。いやがらせや」

「それでどうなったんですか?」徹郎はその先を聞きたかったが、

「まあいろいろあったけど……」と口を濁し、権堂はそれ以上の話を語ることはなかった。


 駐車場で開かれたビアパーティーは、大盛況のうちに幕を閉じた。さいわい梅雨の晴れ間の真夏日となり、酒屋から借りてきた大ジョッキにつがれた生ビールと、枝豆やスルメなどありあわせのつまみが飛ぶように売れた。稼ぎに稼いで、今年もなんとか青婦部の活動資金を確保することができた。

 会場の後片づけを終えた青婦部員は解散し、徹郎とノブが連れだって門を出ようとしたところを、直美につかまった。

「あんたら、このまま帰るわけではないやろ」すでにだいぶ酔っぱらっている。

「ふたりで打ち上げに行こうかと思って……」

「わたしもいっしょに行く」

 しかたなく足のふらつく直美を連れて『あゆみ』をのぞくと、客は一人もいなかった。

「あーら、いらっしゃい。きょうは美人同伴?」とママが歓迎した。サユリちゃんもいた。

「ママ、カラオケ入れて! 工藤静香」

 席に着くなり直美がリクエストした。「いきなりかいな」とノブがぼやく。

 マイクを手に持つと、直美は続けざまに三曲歌った。それにつられて徹郎もノブもマイクを奪い合った。

 十二時近くになったころ、サユリちゃんが帰り支度をして、店を出て行った。「おれらもそろそろ引き上げよか」とノブが言い、直美はまだ歌いたりないようだったが、ワリカンで払って三人はスナックをあとにした。

 狭い階段を下りると、歩道の端に立っているサユリちゃんが見えた。三人に気づいて近づいてきた。

「週末やから、なかなかタクシーがつかまらへん」サユリちゃんは言った。

「ちょっとおれらの寮に寄っていかへん? すぐそこやから」

 徹郎は酔った勢いで誘ってみた。

「わたしもついて行くから安心やでぇ」ベロベロになった直美が横から顔を出した。

「あんたは来ていらんけど……」とノブがつぶやく。

「ちょっとだけおじゃましよっかな」

 それを聞いて、直美がうれしそうに手を引っぱった。

 四人は、徹郎の部屋になだれ込んだ。ふとんをハンバーガーのように二つ折りにして、なんとか場所をつくると、ノブが冷蔵庫を開けて缶ビールを出した。

 さりげなく歳を訊くと、サユリちゃんは二十二歳だという。近づくと香水のいい匂いがした。徹郎は、まさか自分の部屋に女の子が来るなど思ってもいなかった。にやけていると、「てっちゃん、ヘンなこと考えてるんとちゃう?」と直美に頭をシバかれた。

 しばらくはたわいのない話をしていたが、徹郎はおもむろに三枚の写真を取りだしてきて、権堂から聞いた話をした。女の子が死んだ話に、みんなしんみりしてしまった。

「たしかにわたしが小さいころは、ここに何人か子どもが住んでた。いっしょに遊んだこともある」と直美が言った。

「おれは、やくざモンに占領されて、そのあとどうなったのかを知りたいんやけど、権堂さんは話してくれへん」

「えーと、うちの組合ががんばって……」酔った頭で直美が考える。「そうや! 権堂さんがずいぶん骨を折ったらしいわ」

「権堂さん?」

 暴力団がからんでいるかもしれないと、会社も手出しができず、寮を手放すことまで考えたという。しかし、当時、労働組合の委員長だった権堂は、なんとか寮を取りもどそうと、会社とは交渉しつつ、まわりの組合に窮状を訴えた。それに応えて、大河内製作所労働組合を支援する仲間が集まってきた。仲間たちは、ヤクザ者が居座る寮を取り囲み、ひともめもふたもめもあったけど、最後には彼らが出ていったのだという。

 権堂たちがいったいどんな運動をくりひろげたのか、ヤクザまがいの人間とどんな取り引きをして、山下が抱えていた借金をどう処理したのかはわからない。そんなことより、このみすぼらしい寮を、力をあわせて守り抜いた人たちがいたことに、徹郎は少しばかり心が動かされた。先頭で立ち向かう権堂の姿を思い浮かべた。

 三人がそんな話をしているとき、サユリだけは、柱の「S」の印をじっと見つめていた。

「この子の背丈、わたしの娘と同じくらい」

「ええ……?」

「ごめん、もう時間がないの」

 そう言い残すと、サユリはドアを乱暴に開け、階段を駆けおりていった。徹郎もすぐに追いかけたが、玄関には片方が裏返ったスリッパが残されていただけだった。


 雑居ビルの二階にあるその一室は、表札もなくドアに部屋番号が書かれているだけで、インターホンで来訪を告げても、中からは何の返事もなかった。少し待つと、チェーンをはずす音がしてドアが開いた。

 迎えた女性に、サユリは遅くなってしまったことをしきりにわびた。

「気にすることない。商売繁盛のしるしやで。チーちゃんもぐっすりや」と茶色や黄色の染みがついたエプロンをした、年配の女性は明るく言った。うしろにいた徹郎の顔をちらっと見たが、とくに気にする様子はなかった。うす暗い玄関のわきにある棚に、小さな靴が行儀よく並んでいた。

 スリッパに履き替えて中に入ると、雰囲気は一変した。明るい色の壁にはゾウやキリン、ウサギの絵が描かれていた。そのまん中に七色の虹がかかっていて、『ひかりのくにほいくえん』と太く大きな文字が記されていた。名前のシールが貼られた壁のフックには、それぞれ同じような大きさの袋がつるされていた。

 フローリングの床には、布団がならべて敷いてあった。甘いお菓子の匂いとともに、少しだけ消臭剤の香りもした。扇風機が静かに回る狭い部屋で、五人ほどの子どもが寝ていた。ベビーベッドに寝かされた乳児もいた。

 夜中の一時を回っていたが、蛍光灯が明々とついている。積み木や絵本が棚にきちんと片づけられ、プラスチック製のすべり台やジャングルジムは片隅に追いやられていた。

 寮を飛び出したサユリになんとか追いついた徹郎は、強引にタクシーに乗りこみ、ここまでついてきた。タクシーの中で、サユリの本名が西辺(にしべ)早代(さよ)であること、本当は二十八歳で、千佳(ちか)という四歳の娘がいることなどを聞いた。

 色とりどりに光る看板がひしめき合う歓楽街からほど近いその託児所は、通りを往く酔客から避けるように、正体を隠してひっそりと飲食店や風俗店から帰る女性たちを待っていた。

 早代が揺り動かすと、ねむい目を何度もこすりながら千佳は起き上がった。大人でもぐっすりと眠っている時間だ。おさなごを無理やり起こすことが、とんでもなくかわいそうに思えた。閉めきった窓の外から、酔っ払いの叫び声が聞こえてきた。

 大きなバッグを受け取ると早代は肩に担ぎ、小さな身体には不釣り合いに荷物のつまったリュックを背負う千佳の手を引っ張って託児所を出た。かわいい靴が階段を一歩おりるたび、リュックにぶらさがったアンパンマンのマスコットが揺れた。

「お願いがあるんですけど……」暗い道を歩きながら早代が言った。「今夜は帰るところがないの。あの寮に泊めて。お願い」

「わかった……というか、ようわからんけど、とにかく帰ろ。その子も半分寝てるし」

 両目とも閉じているのに、引きずられて足だけを動かしていた。早代から重そうなバッグを取りあげ、徹郎は手をあげてタクシーをとめた。

 寮にたどり着くと、二階の窓にはまだ明かりがついていた。ドアを開けると、直美とノブどころか、寮生が全員そろって酒盛りをしていた。

 直美が一目散に飛んできて、「どうなった?」と訊き、早代のうしろで隠れる小さな姿を見つけると、「わー、かわいい! おいでおいで」と声をかけた。

「なんやてっちゃん、隠し子がおったんか?」一升瓶を持ったハナダさんが言った。

「あんたと顔がぜんぜん似てないなぁ」ウッチャンが追い打ちをかける。

「ちがいますよ。かんべんしてくださいよ」と苦笑いして、徹郎は母子を招き入れた。

 夜も更けた独身寮の一室に、むさ苦しい男が六人、若い女性二人が車座になり、薄い掛け布団の中で幼い子がぐっすり眠っていた。

「ごめんなさい……」と早代が語りはじめた。

 六年前に結婚した相手はトラックの運転手で、二年後に千佳が生まれた。千佳が生まれたときは、夫はそれこそ天にも昇るような喜びようだった。

 ところが、千佳の耳の障碍(がい)がわかると夫は、もっと早くおまえが気づいていればこうならなかった、自分の娘をちっともだいじにしていない、おまえは愛情がたりない、母親失格だと、繰り返し妻をなじり、ときには暴力をふるった。

 毎日のようにそう言われると、本当に自分がダメな母親で、どんなに責められてもしかたない人間だと思い込むようになった……。

 ところどころつまりながら、早代はしぼり出すように話した。

「わたしにも悪いところがあったのかなあって、あのころはずっと考えてた」

「違うわよ。早代さんは何も悪くない」と直美がかばう。「それにしても、女性に暴力をふるうなんてひどい」

「ありがとう。わたしはね、たたかれても蹴られてもしんぼうできたの。でも……」

 ある日、買い物から帰ってくると、部屋の中から火のついたような泣き声が聞こえてきた。ドアを開けると、おもちゃや絵本が部屋に散らかり、夫が千佳の両腕をつかんで身体を激しく揺すぶっていた。驚いて夫から子どもを引き離すと、ほっぺたがまっ赤になっていた。夫に問いただすと、何を話しかけても返事をしないので腹が立ってたたいたと、娘への暴力を認めた。

 その後も夫は酒を飲んでは暴れ、平気で娘をたたいたり蹴ったりするようになったという。

「いつかわたしの努力があの人にもわかってもらえると耐えてきたけど、もう限界やった」

 千佳だけは何としても守り抜く――考え抜いたあげく、夫のもとから逃げる決心をした。

「あのころがいちばんつらかった。何よりも娘がかわいそうやった」涙が安物のカーペットに染みをつくった。

 それから、友人らの家を渡り歩き、今晩、いま身を寄せている女性から店に電話があり、夫が押しかけてきたという。勝手に家を出た早代を許せず、夫は執拗に追いかけていたのだ。

「それでここへ逃げてきたというわけか」とハナダさんがうなずいた。

「でも、これからどうすんねん?」ノブがつぶやく。

「なに言うてんのん! わたしらが守ってあげんとアカンに決まってるでしょが」

 涙目の直美がノブの頭をコツンとたたく。

「どうやって?」ウッチャンが訊く。

「わたしらで早代さんをかくまうのよ」

「どこで?」

「ここで。この寮で」

「アホ言え。そんなことできるかいな」と寮長のウッチャンはあわてた。

「かわいい顔してるがな。ワシの娘みたいや」千佳の寝顔をみてハナダさんが言った。歳からすれば孫に近いけど……。

「ウッチャン、しばらくここに置いてやろうやぁ」とケーイチが言った。

「みんなで力をあわせたら、なんとかなるかも」ノブが調子を合わせる。

「おれからもたのみます」と徹郎が頭を下げた。

「ウッチャン、どうや?」サキやんが訊くと、

「しゃあないなぁ。その代わり、長くても一週間や。来週中にはかならず出ていってもらう」としぶしぶ認めた。

「よっしゃ、決まりや。あけぼの保育園の開園や!」

 とりあえず、今晩のところはこの部屋に母娘を寝かせ、あした直美が寮の空き部屋の鍵を会社からこっそり拝借してくることとなった。

「いい、このことは会社には絶対に内緒よ」

「社長の娘がこんなことしてええんかいな」ウッチャンが渋い顔をする。

「関係ないわよ。だいたい世の中の男が情けないからこうなるんや! 一致団結してがんばりましょう。とにかく、千佳ちゃんのことを第一に考えてあげようよ」と言って直美が早代の手を握った。

「ありがとう。なんか元気が出てきました」早代は涙を拭いた。

 あしたから手分けしてやるべきことをあれこれ相談し、寮生たちはあくびをしながら自分の部屋に引き上げて行った。


 カーテンの隙間からうっすらと光がもれていた。徹郎が目を開けると、隣の布団で早代と千佳ちゃんが眠っていた。不意に、千佳ちゃんが身体を起こした。きょろきょろとまわりを見ている。

 ――おとうちゃん。

 そうつぶやいたその顔は、写真の中にいたサチコに変わっていた。

「サチコ、もう起きたんか。具合はどうや。しんどくないか?」おとうちゃんの声がした。

「だいじょうぶ」と布団の上で立ちあがった。

「まだ早いから横になってなさい」

「あしたは運動会やなぁ。おにいちゃん走るのさっちゃんも見たかった」

「来年もあるやろ。元気になって応援しにいこな」

「海水浴もいかれへんかったし……」

「海くらい、何回でもつれていってやるがな」

 サチコはさびしげな顔をして黙ってしまった。それを見たおとうちゃんは、

「そや、もうすぐサチコの誕生日や。背の高さを測ってやろう。そこに立ってみぃ」とうながした。

 おとうちゃんは誕生日のプレゼントをこっそり買ってあった。それは十色のクレヨンで、わざわざ心斎橋のデパートまで行って、バラの包装紙でつつんでピンクのリボンをかけてもらった。いまは棚の上に隠してある。

 サチコは柱の前でぴったりと背中をつけた。おとうちゃんは引き出しから小刀を取り出して、頭のてっぺんに線を入れると、横に「S」の印を上手に彫った。カリカリと木が削れる心地よい音がした。

「これ何て読むの?」

「S(エス)や。サチコの頭文字」

「かしらもじ?」

「サチコのS、しあわせのSや」とおとうちゃんが笑った。

 サチコはおとうちゃんが大好きだ。ひとりで留守番していたときサチコはさびしくなって、おにいちゃんのエンピツで壁に落書きしてしまったことがあった。おかあちゃんにはえらいしかられたけど、おとうちゃんは、「うまいこと描けたなぁ」って頭をなでてくれた。おかあちゃんもおにいちゃんも好きやけど、やっぱりやさしいおとうちゃんがいちばん好きや。

「入院してもここに帰ってこれるかなぁ」

「――アホなこと言うんやない。病気なんてすぐなおる。来年はもっと背が伸びてるでぇ」

「おにいちゃんに追いつくやろか」とサチコは上を見た。「Y」の印があった。

「あたり前や。ほら、寝てなさい」

 サチコは布団に横になった。

「おとうちゃん」

「ん?」

「さっちゃん、がんばる」

 にっこり笑って目を閉じると、ふたたび千佳ちゃんの寝顔に戻った――。

 はっとして徹郎は飛び起きた。横を見ると、千佳でも早代でもなく……口を大きく開けていびきをかくノブがいた。

 自分の部屋で寝る母娘に代わって、徹郎はゴミが散らかるノブの部屋に押し込まれたのだった。

 夢に出てきたサチコは笑っていた。小さな命がどんなふうに病気とたたかったのか、徹郎にはわからない。たとえ短い命でも、きっと楽しくしあわせな人生だっただろう。そう信じたかった。

 その三日後、社長に呼び出された。母娘をかくまっていることが会社にバレたのではないかと、はらはらして「社長室」と書かれたドアをノックしようとすると、事務員の佐藤さんが、社長はすぐ帰ってくるので中で待つように告げた。

 社長室といっても、事務室を区切っただけの狭い部屋には、応接セットが一組置いてあるだけで、社長専用の机も椅子もない。徹郎は、へこんだソファーに腰掛けた。

 正面に創業者の大河内吉蔵の写真が掲げられていた。頭のてっぺんが禿げ上がり、白い口髭をたくわえた顔がにらみつけていた。

 しばらくすると、扇子で胸元を扇ぎながら社長が戻ってきた。徹郎があわててソファーから立ち上がると、「座っといて。タバコ吸ってもええで」と言いながら自分の煙草に火をつけた。機嫌がよさそうなので、少しほっとした。

「きみにたのみたいことがあってなぁ」

「はあ、何でしょうか?」恐る恐る訊く。

「これや」と言って社長は分厚い冊子をテーブルに置いた。『NC自動旋盤操作マニュアル』と書いてあった。

「うちの工場にこれを入れようと思う。町工場も自動化していかないと生き残れない。何とか業績も順調やし、とにかく最近は銀行が簡単に金を貸してくれるからな。いまがチャンスとみたんや」

 その機械がいったいいくらくらいするのか徹郎にはわからなかったが、口ぶりから社長はかなり思い切った決断をしたようだった。

「機械の設置は、順調にいけばこの秋ごろになる。そこで――」社長は身を乗り出した。

「この機械の操作責任者になってもらいたいんや。うちには旋盤の名人はいても、みんなコンピューターはさっぱりや。そこで、機械工学の高等専門教育をうけたあんたにたのみたい」

 数式を打ち込めばあっという間に正確に製品ができあがるNC旋盤の操作は、学校でも実習してきた。

「そのうち東京に研修に行ってもらうことになるけど、具体的なことはまだ先の話や」

「東京……」

「それまでにそのマニュアルを読み込んどいてくれよ」

「これ全部ですか?」徹郎は数百ページはありそうな冊子をぱらぱらとめくった。

「おれにはちんぷんかんぷんやけど、なんせあんたは、高等専門教育をうけたんやからな」と社長は徹郎の肩をたたいた。

「まあ、この工場も少しずつ新しくしていきたい。融資元の銀行は、あの寮の土地の売却も提案してきてる」窓から日陰になったあけぼの寮が見えた。

 社長の鼻息は荒かった。世の中は好景気に狂ったように浮かれている。小さな町工場が景気の波に乗っているのかどうか徹郎にはわからないが、寮を売り払うという話には心がざわついた。

「ほなたのむで」

 灰皿で煙草をもみ消すと、社長はあわただしく出ていった。

 休憩室に権堂がいた。読んでいた新聞を閉じると、社長の用は何だったのかと訊いた。徹郎は手にしていた冊子を見せて、たったいま聞いてきたことを話した。

「ほう、社長のご指名か」

「権堂さんは知ってたんですか?」

「新しい機械を入れたいという相談はあった。先代がNCを毛嫌いしてなぁ、なかなか社長も踏み切れんかったんやろ。テツ、この機械を発明したのはだれか知ってるか?」

 学校で教わったような気もするが、思い出せない。

「NC工作機械いうのはな、もともとは戦闘機の部品を大量生産するために、アメリカ空軍が開発した機械なんや。戦争のために開発した機械なんて使ってたまるかと、先代からは何回も聞かされた。たくさんの職人仲間を戦争で失ったことが、よっぽど悔しかったんやろなぁ」

 手に持ったマニュアルが重かった。

「どんな理由があっても戦争は絶対にアカン。けどな、テツ、たとえ開発のきっかけがどうあろうと、機械というのは、人間のしあわせのため、平和のためにこそあるんやとわしは思ってる。新しい機械が入ってくることには大賛成や」

「でも、本当にぼくなんかに責任者がつとまるんでしょうか」

「なに言うてんねん。これからは若い人らがこの工場を引っぱるべきや。機械もどんどん進化する。NCもいまは数字の入力も手作業やけど、そのうちコンピューターが勝手に考えて、自分で打ち込む時代が来るかもしれへん。まあそうなると、いよいよわしみたいなのはお払い箱やけどな」

 権堂は老眼鏡をはずして、油染みがついたタオルでレンズを拭いた。

「そんなことないです。どんなに世の中が進歩しても、人間の手は必要です。人の手から手へと伝わっていく技術は必ずあると思います。だからいまぼくは、権堂さんからその技術をたたき込んでもらってるんです」と返すと、

「そうか」と権堂はうれしそうに言い、「まあ、しっかりがんばれや。先生、わしにもそのむつかしい機械の使い方を教えてくれよ」と笑った。

 寮に帰ってくると、奥の部屋からにぎやかな声が聞こえてきた。訪ねてみると、ハナダさん、サキやん、ケーイチ、直美も来ている。

 早代はちょうど店に出かけるところだった。昼間は早代が娘のめんどうをみて、仕事に出かけた夜は、寮生たちが手分けして千佳ちゃんを見守っていた。

 みんなに囲まれて、千佳ちゃんがはしゃいでいた。デニムのスカートに、ひまわりのアップリケがついていた。

 七夕の短冊を結びつけた笹が天井からひもで吊り下げられ、壁には画用紙に千佳ちゃんがクレヨンで描いた絵を貼っていた。まん中にまっ赤な屋根の家があって、お母さんと子どもらしい二人が手をつないでいる。オレンジ色したお日さまの光がきらきらと降り注いでいた。

「おう、てっちゃん、おかえり。きょうのところは異常なしや。千佳ちゃんもごきげんさんやもんなぁ」ハナダさんが抱き上げる。孫娘と祖父のようで、五十前のハナダさんが急にふけて見えた。

「千佳ちゃん、きょうは何して遊んだの?」直美が身振り手振りをまじえて訊くと、「つみき」と小さな声が答える。

「何をつくったんやぁ?」サキやんが口元をゆっくりと動かして訊く。

「おうち」

「みんながせっせと話しかけてくれるおかげで、千佳もよくしゃべるようになった」と早代がよろこんだ。

「無口なサキやんもおしゃべりになった!」みんながどっと笑う。つられて千佳ちゃんも笑う。

「知り合いに相談して、落ち着き先をさがしてるから、もう少しこの汚いところでガマンしてね」

「汚いところは余計や」徹郎が顔をしかめる。

 直美は地域の労働組合のつてを頼って、内々に母子寮を探していた。家庭内暴力の被害者が緊急に避難できる施設があるという。

「そんならママおでかけするよ。千佳、おぎょうぎよくしててね」

 早代が言うと、「バイバイ。はやくかえってきてね」とちっちゃな手を振った。

 願いごとを書いた短冊が、やさしい風に吹かれてひらひらと揺れていた。


 食堂で徹郎が朝食をかき込んでいると、ノブがぐったりした顔で二階からおりてきた。ここ二、三日蒸し暑い夜がつづいている。扇風機をかけっぱなしで寝ていても、汗びっしょりになる。

「夜中に扇風機が急に止まった。おかげで睡眠不足や」

 時たまノブの部屋のコンセントが接触不良をおこすことがあった。きちんと電気屋に修理してもらえばいいのだが、ぐりぐりとプラグをねじ込んでいたら直ってしまうので、そのままにしていた。

「ジージーって変な音もしてる」

「総務に言うとけや」と気味悪がって徹郎が言った。

「アカンアカン、何日かかるかわからん。電気屋が来たときは秋になってる」

 ぼさぼさの髪をかきながら、ノブは洗面所に行った。

 二階から千佳ちゃんの元気な声が聞こえてきた。ふたりの落ち着き先がようやく決まり、明日の朝にはここを出ていくことになった。しばらくは、大阪市内のとある専用施設が母娘を安全に保護してくれる。

 わずかなあいだだったが、寮生たちは力をあわせてふたりを守ってきた。早代が店で働いている間に、人目を忍んで千佳を公園へ連れ出したこともあったし、ハナダさんが飲み屋から焼き鳥をもらってきて、一つ一つ串をはずして食べさせてやったこともあった。あれこれと思い出しながら、徹郎は職場にむかった。

 仕事が終わって寮にもどると、七時近くになっていた。外から二階を見上げるとノブの部屋の窓が少しだけ開いていて、そのすき間からうっすらと煙が見えた。煙はもやもやと這い出し、ひと筋になってトタン屋根のひさしを越え、夕闇に溶けていく。

 火事? まさか。頭が一瞬真っ白になる。とっさに目を移すと、母娘のいる部屋だけ電灯がついていた。

 ――たいへんや。千佳ちゃんが中にいる!

 玄関に飛び込むと、焦げ臭いにおいがした。上がり口に散らかった靴やスリッパを苛立たしく踏みつけ、靴のまま上がり込む。

 食堂を通って台所へ。毎日おばちゃんが磨き込んでいる台所の床を、土足で汚すのは申し訳ないなどと頭の片隅で考えながら、階段に駆けのぼる。

 上を見ると煙がただよっていて、声を張り上げて何度も千佳ちゃんの名を呼ぶ。聞こえないのか応答はない。

 あと一段というところで階段でけつまずき、ヘッドスライディングするようにひっくり返った。二階の廊下はすでに煙が立ち込め、徹郎は激しく咳き込んだ。

 起き上がり、片足を引きずりながら廊下の奥に駆け込み、母娘の部屋を開ける。電灯はついていたが、中はもぬけのからだった。押し入れの中にも姿はない。

「千佳ちゃーん!」「どこやぁー?」と力の限り大声で叫んでも返事はなく、その間にも煙は部屋の中にまで入ってくる。

 廊下に出て、ドアの下から煙が出ているノブの部屋の前まで引き返すが、鍵がかかって開かない。何度もドアノブを引いても開きそうになく、隙間から出てくる煙の量だけが増してくる。一歩さがってドアに体当たりした。

 バリッ、ガタン、ドスン――。

 ベニヤ板のドアは、いとも簡単に内側に開き、肩すかしをくらった徹郎は、派手な音をたてて中にころがり込んだ。左肩を床にしたたかに打ちつけ、痛さで息が止まる。

 ノブの部屋は白い煙がもうもうと立ち込めていた。ハンカチをポケットから取り出して口にあてる。万年床をかまわず土足で踏みつけ、読み捨てられたマンガ雑誌や、箸を突っ込んだままのカップ焼きそばの残骸を蹴散らしながら、部屋に踏み込んでいく。煙の出所は壁際のコンセントのあたりだった。橙色の炎が見える。

 ふたたび廊下に飛び出し、階段の片隅でほこりをかぶった赤い消火器を見つけ、部屋の中に入ってホースの先を壁際にむける。力いっぱいハンドルを握ると、白い消化剤が勢いよく吹き出した。

 火はあっという間に消えたが、煙で息ができず、口と鼻を押さえて窓を全開にする。下を見ると野次馬が二階を見上げていた。

 その中に、コンビニ袋を提げたハナダさんに手を引かれた千佳ちゃんが立っていた。

 ――ああ、無事やった。

 徹郎はへなへなとしゃがみ込んだ。左肩がズキンズキンと痛みはじめたころ、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。


 あけぼの寮の火災は、さいわいぼや程度で済んだ。付近の住民からの通報で消防隊が到着したときには、すでに火は完全に消えていた。原因は老朽化した電気配線のショートで、ほかの部屋も早く点検するように指示して、消防車は狭い道を引き上げていった。

 千佳ちゃんは、その日の子守り当番だったハナダさんに連れられて、しばらく公園で遊んだのち、近くのコンビニを回っていたので難をのがれた。あとの寮生も残業したり、飲みに行ったりでみんな外に出ていた。

 大事にはいたらず、母娘をかくまっていることも会社に知られず、ふたりは翌日の朝早く、迎えにきた職員の車に乗って施設へとむかった。

 別れ際、千佳ちゃんから「じいじ、いってきまーす」と言われたハナダさんは、涙をこらえきれなかった。徹郎もつられそうになったが、笑顔で明るく送り出してやらなければならないと、ぐっとこらえた。執拗に追いかけてくる夫のカゲに、早代はいまでもおびえていたのだ。

 ほとんど入れ違いで、社長が寮にやってきた。ぼや騒動が社長の耳に届き、現状を確認するため、大あわてで足を運んできたのだった。

 大河内社長は、まずは寮生たちにケガがなかったか気づかったうえで、日頃の不始末がこうなるのだ、だらしない生活を送るな(これはノブの部屋を見て言ったことだが)、あげくには、早く結婚しろと余計なことまで言って帰った。とりあえず、配線まわりの修理は早急に手配してもらえるようだ。当面、ノブは別の部屋での仮住まいとなった。

 徹郎は、軽い打撲傷で左肩から腕にかけて痛みと腫れが残ったが、次の日もいつもと変わりなく出勤し、痛みをこらえながら旋盤を操作した。権堂をはじめ先輩職人から「大丈夫か」と声をかけられたが、徹郎にとっては、自分のケガよりも、夫の暴力から逃げてきた母娘を、寮の仲間たちで助け合って、何とか安全な施設に送り届けたことに心底ほっとしていた。

 時々、ネオン街の片隅にある託児所が頭に浮かび、子どもたちが遊んだり眠ったりしている姿を思い描いたりした。

 蒸し暑い夜だった。部屋にこもる熱気からのがれて、徹郎は物干し場に出てみた。実家がある街は海からそう離れてはいないので、こんな夜には風に乗って磯の匂いがした。大阪市内には大きな港もあるけれど、ここらで潮の香りをかいだことはまだ一度もない。

 星がまばらに見えていた。つい最近完成したばかりの近くのマンションには、すでに八割がた明かりがともっている。郵便受けに入ったマンションのチラシには、逆立ちしても手が届かない金額が書かれていた。ぴったりと閉じられたカーテンに人影が動いた。いったいどんな人たちが暮らしているのだろう。

「クソ暑いなぁ」

 その声に振り向くと、缶ビールを手にしたノブが立っていた。徹郎のランニングシャツから覗く大きな湿布薬を見て、「すまんかったなぁ」とめんどくさそうに言った。

「おまえのせいやないやろ。おれの部屋から火が出てもおかしくなかった」

「ホンマや。運が悪い。それよりも……」ノブは煙草を取りだして火をつけた。「こんどのぼや騒ぎで、寮の取り壊し計画が一気にすすむみたいや」

「うそやろ?」驚いて訊いた。

「社長がそう言ってるらしい。そうなると、おれらもここを追い出されるけど、まあそれもしかたないよな」と煙を吐き出した。缶ビールを飲み干し、空き缶に灰を落とす。

「ノブはそう思ってるかもしれんけど、おれは……」徹郎は自分の考えを話してみようと思った。「おれはこのあけぼの寮をだいじにしたい」

「こんな時代遅れの寮を? おまえ何考えてんのや」

「あのな、ここがヤクザ者に乗っ取られそうになったとき、権堂さんはおおぜいの人たちを集めて命がけで寮を守ったって聞いたやろ。なんでやと思う?」

「そんな昔のことわかるかいな」

 少し考えて徹郎は話をつづけた。

「サチコが病気で死んだ。それは悲しいできごとだったけど、それ以上に仲間の職人一家を夜逃げさせてしまったこと、自分たちが何もできなかったこと、いや、いっしょに働く仲間の苦しみさえ知らなかった。それが情けなくて、悔しくてたまらなかった……」

 藤堂の口を重くさせるのも、いまでもその後悔があるからではないか。大切な仲間を助けてやれなかったことへの深い後悔が。

「そのうえ、寮まで奪われそうになった。だからこそ、つまり、誇りをかけてたたかった」

「たいそうな話やなぁ」ノブはあきれたように言った。

「うまいこと言えんけど、職人たちとその家族を見守ってきたあけぼの寮を、これからも安心して楽しく住める場所にしたいって、そこにこだわったんだと思う」

「あの狭い部屋に家族で住んでたなんてびっくりしたけどな」

「死んだサチコもしあわせに暮らしてた。たった四年やったけど……。おれには、サチコが千佳ちゃんになって帰ってきたような気がしてるんや」

「わたしの柱の印を残しといてよってかぁ」ノブはおどけて言った。「でも、おまえの話は何となくわかる」

「そやろ! 先輩から受け継いだものは大切にしていかんと思うんや。時代遅れかもしれんけど」

「けどテツ、おれらに何ができるっちゅうねん?」ノブは吸い殻を空き缶に押し込んだ。

「それは……」徹郎も口ごもるしかなかった。

 遠くでクレーンのライトがゆっくりと点滅していた。高層ビルがどんどん建っている。大阪湾を埋め立てて、巨大な人工島をつくる計画まであるという。大阪は、日本は、変わっていくのだろうか。

 それよりも世界が変わりつつある。東欧では民主化の動きが駆け足ですすんでいる。その原動力になっているのは若者たちだ。ベルリンの壁が崩れるのはもうすぐだと、どこかの政治学者が興奮気味に語っていた。東欧だけではない。この六月には、自由と権利を求めて、徹郎と同じくらいの歳の学生たちが天安門広場で立ち上がった。

 これからどんな世の中になっていくのか、そして、そのなかで自分はどんな役割を果たせるのか、徹郎にはわからない。

 世の中が変わったとしても、ゆるぎなく変わらないものはあるはずだ。仲間を信じる力、仲間と助け合う力……。いまはまだ、どうしていいかわからないが、とにかくおれたちのあけぼの寮を守りたい――たたかってでも。

 いつの間にか雲にかくれて、星は一つだけになっていた。

「おまえ東京に行くんやろ」ノブがぼそっと言った。

「ああ、ひと月だけやけどな」

「そうか……」ノブはまた一本、煙草を口にくわえた。

「吸い過ぎやぞ。そんな時代遅れのモン、やめとけや」と徹郎がとがめる。

「アホ、時代遅れの人間に言われたくない」不味そうに煙を吐き出すと、雲の間で弱々しく光る星を指さした。

「テツ、おれは宇宙一の職人になってやる。いつかおれの手で削り出した部品で作ったロケットに、あの星まで行って帰ってこさせてやる。……だから、おまえもがんばってこいよ」

「……わかった」としか言えず、徹郎は空を見上げた。

 ながめていると星影がぼやけだした。その星もやがて雲にかくれ、クレーンのライトだけが夜空に静かに光っていた。(了)

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大阪谷町あけぼの寮 @kenkuro1014

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