第8話 ゴーストガールの秘密
29日が、まるで永遠のように感じられた。
毎日、カレンダーの日付を数える。授業中も、部活中も、頭の中は詩織のことでいっぱいだ。
写真部の活動中、ファインダーを覗いていても、そこに詩織の姿を探してしまう。桜の木の下、美術室の窓辺、屋上のフェンス際——彼女がいたはずの場所を、無意識にフレームに収めている。
「藤宮、最近どうしたんだ? 撮る写真が全部、なんか寂しそうだぞ」
部長にそう言われて、はっとする。確かに、最近の僕の写真には人が写っていない。誰かがいたはずの空間ばかりを撮っている。
「すみません。ちょっと、スランプで」
「まあ、そういう時期もあるさ。でも、写真は心を映すからな。何か悩みがあるなら——」
「大丈夫です」
僕は無理に笑顔を作った。部長は何か言いたそうだったけど、それ以上は聞いてこなかった。
「おい、陽太。また上の空だぞ」
修平に肩を叩かれて、はっと我に返る。放課後の教室で、僕はまた窓の外を見つめていたらしい。
「ごめん。ちょっと……」
「最近おかしいぞ、お前。恋わずらいか?」
修平の冗談めいた言葉に、胸が痛む。本当のことなんて言えない。誰も詩織のことを覚えていないんだから。
でも、修平の言葉は間違っていない。これは恋わずらいだ。会えない人への、届かない想いに苦しんでいる。
「なあ、陽太」
修平が真面目な顔になった。
「俺、なんか忘れてる気がするんだ。大事な何かを」
「え?」
「去年のこと思い出そうとすると、なんかモヤモヤする。誰かいたような……でも思い出せない」
修平も、心のどこかで詩織を覚えているんだ。完全には消えていない証拠だ。
その夜も、僕は『告白の歴史』を読み返していた。何か手がかりはないか、必死でページをめくる。
——満月の夜にだけ姿を現す者は、この世とあの世の狭間にいる。完全に消えたわけではないが、完全に存在するわけでもない。
心臓が跳ねた。詩織は完全に消えていない。まだ希望はある。
さらにページをめくると、気になる一文を見つけた。
——告白に失敗した者が自ら告白権を持っていた場合、その影響は複雑になる。相互の想いが絡み合い、通常とは異なる現象を引き起こすことがある。
相互の想い? 詩織も告白権を持っていた?
まさか——
部屋の電気を消して、ベッドに横になる。天井を見つめながら、詩織のことを考える。
もし、詩織も僕に告白しようとしていたなら。
もし、お互いに想い合っていたのに、すれ違ってしまったなら。
胸が締め付けられる。こんなに近くにいたのに、どうして気づけなかったんだろう。
そして、ついに満月の夜が来た。
今日は朝から落ち着かなかった。授業なんて全然頭に入らない。ノートには詩織の名前ばかり書いている。
「藤宮くん」
美咲が声をかけてきた。
「今日、なんか特別な日?」
「どうして?」
「だって、朝からそわそわしてるから。告白でもするの?」
美咲の冗談に、どきりとする。ある意味、正解だ。今夜、詩織に会って、真実を聞き出すつもりだから。
屋上への階段を駆け上がる。今度は迷いなんてない。詩織に会えるという確信だけがあった。
扉を開けると、彼女はもうそこにいた。
前回と同じ、半透明の姿。でも今日は、少しだけはっきりして見える。月光に照らされた彼女は、まるで光でできた天使みたいだった。
「陽太くん、来てくれたんだね」
「当たり前だよ」
僕は息を切らしながら答えた。一ヶ月待った。この瞬間をどれだけ待ち望んだか。
「詩織、聞かせて。どうしてこんなことになったの?」
詩織は少し俯いて、それから顔を上げた。月光が彼女の瞳を照らす。その瞳の奥に、深い悲しみと、それでも消えない優しさが見えた。
「私ね、去年の夏、告白権を持っていたの」
予想外の告白に、言葉を失う。
「え……?」
「夏祭りの少し後。生徒手帳が青く光って、私が選ばれた」
詩織は自分の左手を見つめる。青いインクの跡が、かすかに光っている。
「最初は戸惑った。一生に一度しか使えない告白権。失敗したら、相手の記憶から消えてしまう。そんな重いものを、どうして私が持たなきゃいけないんだろうって」
詩織の声が震えている。
「でも、すぐに分かった。これは運命なんだって。だって、私には伝えたい想いがあったから」
「それは……」
「陽太くんへの想い」
はっきりと、詩織は言った。僕の心臓が、大きく跳ねる。
「美術室で青いインクをつけ合った時から、ずっと好きだった。いえ、もっと前から。初めて会った時から、ずっと」
胸が締め付けられる。詩織も、僕のことを——
「でもね、勇気が出なくて。陽太くんは優しいから、私の告白を断れないんじゃないかって。同情で付き合われるのは嫌だった」
「そんなこと——」
「分かってる。今なら分かる。陽太くんも、私のことを想ってくれてたんだよね」
詩織が微笑む。でも、それは悲しい笑顔だった。
「私、バカだった。素直になれなくて、遠回しなことばかり言って。『また会えるよね』なんて、そんな曖昧な言葉じゃ、告白として成立しないのに」
「それで、期限ぎりぎりまで悩んで、結局、ちゃんと告白できなかったの。『また会えるよね』って、それだけしか言えなかった」
あの日の記憶が蘇る。転校すると言った詩織の、寂しそうな笑顔。あれは、別れの挨拶じゃなかった。告白だったんだ。
「告白に失敗したら、相手の記憶から消えるって知ってた。でも、まさか存在自体がこんなに不安定になるなんて」
詩織の体が、また少し揺らぐ。
「最初は完全に消えるはずだった。でも、陽太くんが覚えていてくれたから、私はこうして満月の夜だけ姿を現せる」
「僕が……覚えていたから?」
「うん。陽太くんの想いが、私をこの世界に繋ぎ止めてくれてる。でも——」
詩織の表情が曇る。
「このままじゃ、いつか本当に消えてしまう。満月の夜にも会えなくなる」
「そんな!」
僕は思わず詩織に駆け寄ろうとした。でも、やっぱり触れることはできない。手が空を切る。その虚しさに、涙が溢れそうになる。
「どうすればいい? 君を取り戻す方法は?」
詩織は首を振る。
「わからない。でも——」
彼女は微笑んだ。儚くて、でも温かい笑顔。
「でも、陽太くんが覚えていてくれて、本当に嬉しい。それだけで、私は——」
「ダメだ!」
僕は叫んだ。
「そんなことで諦めないで! 必ず方法はある。君を取り戻す方法が!」
「陽太くん……」
「僕だって告白権を持ってる。まだ使ってない。これを使えば——」
「ダメ!」
詩織が初めて強い口調で言った。
「もし失敗したら、陽太くんも消えちゃう。そんなの絶対にダメ」
「でも——」
「お願い。私のせいで、陽太くんまで犠牲にならないで」
詩織の目に涙が浮かぶ。透明な涙が、月光の中できらめく。
「私は、陽太くんに会えただけで幸せだから」
嘘だ、と思った。本当は消えたくないはずだ。僕といたいはずだ。
でも、詩織は僕を想って、そう言っているんだ。
自分を犠牲にしても、僕を守ろうとしている。
「詩織……」
「ねえ、陽太くん」
詩織が僕を見つめる。
「私たちの青いインク、まだ消えてないよね」
僕は頷く。左手の薬指を見せる。青い跡が、月光の下で輝いている。
「これは、私たちの絆の証。たとえ私が消えても、この青いインクは残る。陽太くんが覚えていてくれる限り」
「消えないで」
僕は懇願した。
「お願いだから、消えないで。僕には君が必要なんだ」
その時、風が吹いた。詩織の姿が揺らぐ。
「もう時間みたい」
「待って! まだ話したいことが——」
「大丈夫。また会えるから」
詩織は最後に、あの優しい笑顔を見せた。
「陽太くん。私、本当は伝えたいことがあるの。でも、今はまだ言えない」
「どうして?」
「だって、まだ陽太くんの告白権が残ってるから。私から言っちゃったら、フェアじゃないでしょ?」
そう言って、詩織は消えていった。
屋上に一人残された僕は、拳を握りしめた。
詩織も僕のことを想ってくれている。それなのに、このまま消えていくなんて、絶対に許せない。
必ず方法を見つける。詩織を取り戻す方法を。
告白権を持っていた詩織。
告白に失敗した詩織。
でも、僕を想ってくれている詩織。
複雑に絡み合った運命の糸を、どうすれば解きほぐせるんだろう。
屋上を出て、階段を降りる。一段一段、考えを巡らせる。
図書室で読んだ言葉が脳裏に浮かぶ。『相互の想いが絡み合い、通常とは異なる現象を引き起こす』
相互の想い。それが鍵なのか?
そして今度こそ、ちゃんと想いを伝えるんだ。
左手の薬指を見つめる。青いインクが、まだ温かい。
——詩織、君の秘密は聞いた。今度は僕の番だ。
次の満月まで、あと一ヶ月。
その間に、必ず答えを見つけてみせる。
君を取り戻す方法を。
君と一緒にいられる未来を。
だって、僕たちは想い合っているんだから。
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