第7話 もう一度会えるなら


手紙を握りしめたまま、僕は立ち尽くしていた。


『満月の夜、屋上で待ってる』


便箋に書かれた文字は、詩織の筆跡じゃない。でも、この言葉が僕の中で反響している。まるで心臓の鼓動と共鳴するみたいに。


「陽太、どうしたんだよ。顔色悪いぞ」


修平が心配そうに覗き込んでくる。僕は手紙をポケットにしまった。


「なんでもない。ちょっと……考え事」


嘘じゃない。でも本当のことも言えない。詩織のことを覚えているのは僕だけなんだから。


教室を出て、一人で廊下を歩く。窓から差し込む夕日が、オレンジ色の光を投げかけている。この光の中を、詩織と一緒に歩いたことがある。去年の、ちょうど今頃だった。


「ねえ、陽太くん。夕日って、なんだか切ないよね」


詩織はそう言って、窓の外を見つめていた。銀色の髪飾りが夕日を反射して、まるで小さな星みたいに輝いていた。


「どうして?」


「だって、一日の終わりでしょ? でも、また明日が来るって信じてるから、きれいに見えるんだと思う」


あの時は、詩織の言葉の意味がよく分からなかった。でも今なら分かる。終わりは、新しい始まりの予感でもあるんだ。


放課後、僕は一人で図書室にいた。『告白の歴史』という古い本を、何度も読み返している。失敗した告白権保持者の末路について書かれたページを、震える指でなぞった。


——失敗した者は、相手の記憶から消える。しかし、強い想いが残っていれば、特別な条件下で一時的に姿を現すことがある。


特別な条件。それが何なのか、本には書かれていない。でも、もしかしたら——


「図書室にいると思った」


振り返ると、美咲が立っていた。いつもの優等生らしい姿だけど、今日はどこか心配そうな表情をしている。


「藤宮くん、最近ずっとその本読んでるよね」


「まあ……ちょっと興味があって」


「告白権のこと?」


鋭い質問に、言葉が詰まる。美咲は僕の隣に座った。


「私、なんとなく覚えてるの。去年、誰か転校した子がいたような……」


心臓が跳ねた。美咲が詩織のことを——?


「でも、はっきりとは思い出せないの。変よね。クラスメイトのことなのに」


美咲は首を傾げる。その仕草を見て、僕は思った。完全に消えていない。詩織の存在は、まだみんなの心のどこかに残っているんだ。


夕方、空を見上げる。今夜は満月だ。雲一つない澄んだ空に、白い月が昇り始めている。


「詩織……」


名前を呟いた瞬間、左手の薬指がじんわりと温かくなった。青いインクの跡が、かすかに光っているような気がする。いや、気のせいじゃない。確かに光っている。


美術室の前を通りかかる。ドアの隙間から、かすかに絵の具の匂いが漂ってきた。詩織の匂いだ。彼女はいつも、この匂いをまとっていた。


『陽太くん、見て。空の色が出せたの』


記憶の中で、詩織が振り返る。パレットの上には、限りなく透明に近い青。それは空の色じゃなくて、詩織の心の色だったんじゃないかと、今になって思う。


屋上への階段を上る。一段、また一段。足音が妙に大きく響く。心臓がうるさいくらいに鳴っている。


期待なんてしちゃいけない。

でも、期待せずにはいられない。


誰かが呼んでいる気がする。詩織の声が、風に乗って聞こえてくる気がする。


重い扉を押し開けると、月光が眩しいくらいに降り注いでいた。


そして——


「陽太くん」


振り返ると、そこに詩織が立っていた。


銀色の髪飾りが月光を反射してきらきらと光っている。セミロングの黒髪が夜風に揺れる。あの日と同じ、優しい笑顔。


でも、何かが違う。


彼女の体が、月光を通しているんだ。半透明で、向こう側の景色がぼんやりと見える。まるで、ガラスでできた人形みたいに。いや、もっと儚い。朝露みたいに、触れたら消えてしまいそうな——


「やっと会えた」


詩織が一歩近づく。その瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。透明な雫が頬を伝い、月光の中できらめいて消える。


「詩織……本当に、詩織なの?」


僕も泣いていた。いつの間にか、涙が止まらなくなっていた。


「うん。でも、ごめんね。こんな姿で」


彼女は自分の手を見つめる。月光を通す、儚い手を。指先が少し震えている。


「どうして……どうしてこんなことに」


「それは——」


詩織が言いかけた時、一陣の風が吹いた。彼女の姿が一瞬、さらに薄くなる。まるで風に吹き消されそうなろうそくの炎みたいに。


「詩織!」


僕は思わず手を伸ばした。でも、触れることはできない。僕の手は彼女の体をすり抜けてしまう。何もない空間を掴んで、指先に残るのは冷たい夜風だけ。


「大丈夫。今夜は満月だから、少しの間なら、ここにいられる」


詩織は寂しそうに微笑んだ。でも、その笑顔の奥に、確かな喜びが見える。


「覚えていてくれて、ありがとう」


「忘れるわけない!」


僕は叫んだ。声が震えている。涙で視界がぼやけている。


「君のこと、一瞬だって忘れたことなんてない。毎日、毎日、君のことばかり考えてた」


「陽太くん……」


「写真も、髪飾りも、全部大切に持ってる。君との思い出、全部覚えてる。夏祭りのことも、美術室のことも、この青いインクのことも!」


左手の薬指を見せる。青いインクの跡が、今度ははっきりと光った。まるで、詩織に呼応するみたいに。


詩織も自分の薬指を見つめる。同じ場所に、同じ青い跡。


「お揃い、だね」


彼女が泣き笑いの表情を浮かべる。


「あの時、ふざけてつけたインクなのに。まさか、こんなに大切なものになるなんて」


「詩織、教えて。どうしてこんなことになったの? どうすれば、君を取り戻せる?」


「それは……」


詩織が口を開きかけた時、また風が吹いた。今度は強い風だ。彼女の姿がぐらりと揺れる。


「もう時間みたい」


「待って! まだ聞きたいことが——」


「また会える。次の満月の夜に、きっと」


詩織の姿がどんどん薄くなっていく。でも、彼女は最後まで微笑んでいた。


「陽太くん。私ね、ずっと伝えたかったことがあるの」


「詩織?」


「でも、今はまだ言えない。今度会えた時に、必ず」


「どうして今じゃダメなんだ?」


「だって——」


詩織の声が、風に溶けていく。


「だって、まだ陽太くんの物語は終わっていないから。私は、その結末を見届けたいの」


そして、彼女は完全に消えた。


屋上には僕一人。月光だけが変わらず降り注いでいる。


膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。でも、不思議と絶望感はない。


会えた。確かに会えたんだ。


詩織は消えてなんかいない。この世界のどこかに、確かに存在している。


手紙の送り主は誰だったんだろう。でも今は、それはどうでもいい。大切なのは、詩織に会えたこと。そして、また会える約束ができたこと。


「待ってる」


月に向かって呟く。


「次の満月まで、ちゃんと待ってる。そして今度こそ、君を取り戻してみせる」


左手の薬指が、また温かくなった。まるで詩織が「うん」って答えてくれたみたいに。


立ち上がって、屋上を後にする時、もう一度振り返った。


月光の中に、一瞬だけ、銀色の光が見えた気がした。


——君の髪飾りの光だよね、詩織。


階段を降りながら、考える。詩織を取り戻す方法。きっとある。必ずある。


図書室で読んだ本の一節が脳裏をよぎる。


『愛は奇跡を起こす。それが本物なら』


本物の愛。僕の想いは本物だ。詩織への想いは、誰にも負けない。


でも、それだけで足りるのか? もっと必要なものがあるんじゃないか?


考えながら歩いていると、昇降口で修平に会った。


「おい、陽太。こんな時間まで何してたんだ?」


「ちょっと、屋上で風に当たってた」


「そうか……なあ、陽太」


修平が真剣な顔で僕を見る。


「最近のお前、なんか変だぞ。何か悩みがあるなら、相談に乗るぜ」


友達の優しさが胸に染みる。でも、詩織のことは——


「ありがとう。でも大丈夫」


「そうか? ならいいけど」


修平は心配そうな顔をしたまま、手を振って帰っていった。


一人になって、夜空を見上げる。月が、さっきよりも高く昇っている。


次の満月まで、あと29日。


長いようで、きっとあっという間だ。


でも今度は、ただ待つだけじゃない。君を取り戻す方法を、必ず見つけ出してみせる。


だって僕らには、消えない青いインクの約束があるんだから。


家に帰って、詩織の写真を見つめる。去年の学園祭で撮った写真。みんなで撮った集合写真の端に、詩織が写っている。


「詩織、次に会う時は、もっとちゃんと話そう。言いたいこと、聞きたいこと、山ほどあるんだ」


写真の中の詩織が、微笑んでいるように見えた。

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