善意を踏みにじらないで
広川朔二
善意を踏みにじらないで
アラームの音で目を覚ますと、ベランダに置かれた室外機の発する空調の低い唸りだけが部屋に響いていた。小さな1Kのアパート。窓から見下ろせば大家の庭がよく見える。色とりどりの草花の中、犬の鳴き声がときどき聞こえる。
会社と家を往復するだけの毎日。趣味らしい趣味もない。恋人はいないし、週末はネットで猫の動画を延々と眺めるのが習慣になっている。
それでも、寂しいと声に出すほどではなかった。人付き合いは苦手ではないけれど、得意でもない。表面的な会話はできる。でも、深く関わるのは苦手だった。だからなのか休日はとくに静かだった。
半年ほど前、ペット可の物件に引っ越した。理由は単純で、「猫を飼いたい」と思ったからだ。当時は本気だった。
でも、ひとり暮らしで命を預かることの責任を考えると、どうしても踏ん切りがつかなかった。
——もし急な残業で帰れなかったら?
——もし自分が病気になったら?
——留守中、何かあったら誰が助けてくれる?
考えすぎだと思う一方で、命に対して無責任にはなれなかった。
その代わりにネットで猫や犬の動画を巡回するようになった。飼い主の膝の上で眠る猫。おやつをねだってゴロゴロする子猫。ベランダで日向ぼっこする老猫。どれも愛おしくて、画面の中のペットたちは小さな癒しだった。
ある金曜日の夜、いつものようにSNSをスクロールしていたとき、ひとつの投稿が目に留まった。
「うちの子を助けてください」
黒地に白抜きの文字が添えられた画像の中心には、丸い目をした灰色の猫が写っていた。
ふわふわの長毛で、耳が少し垂れている。ちょっと緊張しているような表情が、逆に可愛らしい。
そのインパクトのある言葉に指を止めた。
《先日、うちの猫に肥大型心筋症が見つかりました。
呼吸が浅く、苦しそうに鳴くこともあります。
病院の先生には、早急に手術が必要だと言われました》
続く文章は、落ち着いた文体で淡々と状況を説明していた。一人暮らしの飼い主では、手術・入院・治療費を合わせた総額は到底支払えないという。そこで、寄付型のクラウドファンディングを始めたのだと。
「百二十万円か……」
内訳を見れば、実際にかかる医療費が明記されており、怪しい感じはしない。というか、猫の写真がずるいくらいに可愛い。
何枚か添付された写真を眺めていると、ふと背景が目に入った。うちの間取りになんとなく似ていた。濃い茶色のフローリングにすりガラスの扉。
「こういう部屋、多いもんなぁ」
投稿主のプロフィールには、名前は書かれておらず、アイコンは猫の似顔絵。過去の投稿も猫中心。どうやら若い女性のようだった。それもちょっと嬉しかった。年齢も近そうだし、ひとりで猫を大切にしているところに勝手な親近感を覚える。
迷った末に、一万円を寄付した。自分の生活費からすれば痛い出費だったけど、不思議と後悔はなかった。
「この子が助かるなら、それでいいよね」
その夜は、少しだけ良い夢を見た気がした。
翌朝、出勤前にSNSを覗くと、あの投稿はすでにかなり拡散されていた。
『応援してます!』
『うちの子も同じ病気でした、希望を捨てないで』
『少しだけど寄付しました!』
コメント欄には温かい言葉が並び、表示数は万単位に伸びている。クラウドファンディングのページを開けば、既に目標額の七割が集まっていた。その伸びに驚きながらも、彼女は自然と顔が緩んだ。
(よかった。これなら間に合うかも)
思わず、投稿を自身のSNSでもシェアする。『猫ちゃんが助かりますように』という短いコメントを添えて。知人から「優しいね」と返信が届いたとき、自分が少しだけ誰かの役に立てたような気がして、心があたたかくなった。
週末、彼女は久しぶりに掃除をして、動画サイトで猫のコンテンツを流しながらのんびりと過ごした。
クラウドファンディングのページは何度も開いて、更新されていく金額や、新しく追加された猫の写真に目を通す。
(この子、ほんとに可愛いな……)
思わず画像を保存してしまった。知らない人の猫なのに、不思議と身近に感じられる。
「なんだろう、この感じ……」
理由はわからなかった。ただ、妙にその猫が「他人の子」とは思えなかった。間取りも家具の配置も、まるで自分の部屋みたいだったし、たぶんそれが親近感の正体だと思っていた。
その親近感の中に違和感を覚えたのは、古い投稿にあった一枚の画像だった。
「……ん?」
何気なく写っていた部屋の奥、カーテンが開いていて、外の景色がわずかに映り込んでいた。ぼやけてはいたが、見慣れた光景だった。駐車場と、その奥にある大きな銀杏の木。それを囲う低いフェンス。
その瞬間、彼女は立ち上がり、部屋のカーテンを開けた。窓から見える景色。駐車場と銀杏の木。角度は違うけど、ほとんど同じ光景。
(……まさか、いや、そんなわけないか)
そう思ったのは、偶然にしては出来すぎていたからだ。猫の投稿者が自分と同じアパートに住んでいるなんて、そう簡単に断定はできない。
(でも、やっぱり、気になる……)
土曜の朝方、ゴミ捨てのついでに外に出るとちょうど大家が庭にいた。ジョウロを片手に、花壇の世話をしていたところだった。
「あら、こんにちは。今日はお天気でよかったわね」
「こんにちは……あの、ちょっとお聞きしてもいいですか?」
彼女はスマートフォンを取り出して、クラウドファンディングの投稿画面を見せた。
「この猫ちゃん、ネットで見かけたんですけど……この部屋、どこか見覚えありませんか?」
大家は眼鏡をずらし、スマホの画面をしばらく眺めていた。そして、ふと小さく首をかしげる。
「あら……これ、もしかしたら……203号室のところの猫ちゃんじゃないかしら」
「えっ、203って……二つ隣の……?」
「ええ、引越しの時に見せてもらったことがあるのよ。グレーの長毛で、耳が少し下がってる子よね」
たしかに一致している。でも——。
「でも、203号室って、男性の方ですよね? 投稿者、女性みたいですけど……」
「あら、そう? そうよねえ、あそこは男の人が住んでるはずだけど……」
彼女は背筋に冷たいものが走るのを感じた。まさか。まさかそんなはずはない。けれど……。
「それに、その猫ちゃんが病気だなんて、初耳ねぇ」
大家はそう言いながら、さらに不思議そうな顔をする。
「そうだわ、このあたりの猫ちゃんって、大体あの駅前の動物病院にかかってるのよ。ちょっと、確認してみようかしら。あそこ、私の幼馴染がやっててね」
確認と言っても、個人情報を聞き出すわけではない。ただ、最近203号室の猫ちゃんに変わった様子があったか、世間話程度に尋ねるだけだそうだ。
「ごめんなさいね、私、こういうの気になっちゃう性質なのよ」
大家の朗らかな笑顔とは裏腹に、彼女の心は波立っていた。
(どういうこと……?)
あの投稿は、嘘? 猫は病気じゃない?
じゃあ……あの寄付は?
まさか、私たちの善意を踏みにじるようなことを……?ふいに、スマホの画面の中で、あの猫がこちらをじっと見返している気がした。
週が明けてすぐ、大家から声をかけられた。
「あの猫ちゃんのことだけど、やっぱり元気らしいわよ」
庭先で植木鉢を並べながら、いつもの調子で話しかけてきた。
「この間、203号室の方が動物病院に定期健診に来たそうなの。幼馴染が言ってたわ。猫も飼い主さんも元気だったって」
「……病気じゃなかったんですか?」
「ううん、そんな話は一切なかったって。先生、何か言いかけてたけど、守秘義務があるからそれ以上は聞けなかったわ。でも、少なくとも“余命”なんて話は出てないそうよ」
彼女はその場で言葉を失った。
(じゃあ……全部、嘘……?)
目の前がにわかに暗くなった気がした。
家に戻ると、すぐにクラウドファンディングのページを再確認した。集まった金額は、すでに目標額を大きく超えていた。二百万円以上。寄付者数は千人を超えている。
投稿者の最新の更新には「皆様のおかげで手術の準備が整いました!」と、どこか笑顔のような猫の写真が添えられていた。
(……どういうこと? 手術? 検査? 本当に?)
しかし、彼女の心の奥底では、もう確信に変わっていた。これは詐欺だ。少なくとも、「大病で手術が必要」という話は嘘だ。
自分が寄付した一万円。それは猫の治療費ではなく、嘘のストーリーを支えるための道具にされた。怒りと悔しさが、心の中で煮えたぎるように広がっていく。
何よりも、あんなに可愛らしい猫を詐欺の道具にすることが許せなかった。
「動物を、利用して金を騙し取るなんて……」
その夜、彼女は意を決して、SNSに一つの投稿をした。
《この猫知ってます。飼い主は本当は男性で、病気なんかじゃありません》
瞬く間に、寄付者たちの間で疑念が広まっていく。
『え、これ詐欺じゃないの?』
『返金ってできるの?』
『通報ってどこにしたらいい?』
炎上の火は、あっという間に燃え広がった。やがて投稿主はアカウントを非公開にし、クラウドファンディングには、次々と苦情のコメントが書き込まれていた。
『返金してもらえませんか?』
『事実に反する内容でしたよね?』
『運営さん、これって詐欺に加担してるってことになりますよ?』
寄付者の中には法的手段を検討する者も現れ、ネット上では有志による「詐欺疑惑まとめサイト」が作られた。
それからすぐに返金対応となることが運営から発表された。
だが、問題の投稿主はSNSアカウントを非公開にし、雲隠れしたままだった。
資格
その週末、彼女は大家とともに203号室を訪ねた。インターホンを押すと、中から弱々しい声が返ってくる。
「……はい」
「こんにちは。最近お顔を見なかったので。あと、ちょっとお話がありまして」
沈黙。
やがて、ドアが静かに開かれた。そこに立っていたのは、やつれた顔の男だった。
「猫ちゃん、大丈夫ですか?」
大家の声に、男は一瞬、ぎくりと肩を動かした。
「……ええ、まあ」
しかし、その後ろからは、食べ散らかした空の缶詰や、床に散乱したチラシの山が見えた。猫の姿は見えず、部屋の空気はどこか湿っている。
「お部屋……ちょっと、荒れてますね」
「うるさいな……他人の家に干渉する権利なんかないだろ」
声に棘があったが彼女は一歩も引かず、静かに口を開く。
「ないかもしれません。でも、猫には関係ない。あの子は、あなたの嘘のために使われた」
男は目を逸らした。
「今騒ぎになっているクラウドファンディング、これってあなたですよね」
スマホの画面には例のクラウドファンディングサイトのスクリーンショットが表示されていた。
黙り込む男に対し、大家が少し声を低くする。
「あなたを今すぐに追い出すことはしません。でも今後の更新はお断りします」
「…上手くいくと思ったんだよ…。それなのに…なんでバレたんだよ!あんたたちか!」
怒鳴る男に、彼女はすくんでしまったが、大家は毅然とした態度を崩さなかった。
「あら、違うわよ。私たちは騒動の後に知ったの。ネットで拡散してる画像の、ほら、ここ。お外が見えてるじゃない。自分の家の前の景色くらいわかるわよ」
「人の善意を踏みにじって、何も知らない猫を詐欺に利用して…。あなたに動物を飼う資格なんてありません!」
数日後、動物保護団体のスタッフが派遣され、猫は一時的に保護されることになった。
その一ヶ月後。
彼女の部屋には新しい爪とぎポールと、小さなベッド、そして猫用の食器が揃っていた。窓辺には、日向ぼっこ中の猫の姿。
ふとスマートフォンを手に取った彼女は新しいSNSアカウントを開いた。
「新しい家族ができました。最初から、こうしていればよかったね」
投稿されたのは、あくびをする猫の姿。
温かい光が、部屋に差し込んでいた。
善意を踏みにじらないで 広川朔二 @sakuji_h
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