窓辺の汽水

第1話 雨とコーヒーと窓辺の人

雨が降り始めた。

それを気にせず、彼女はコーヒーから出ている湯気に当たる。


ライラックの花、香ばしい豆、空気はいつも通り。

鼻の辺りでくしゃみをする。


とっさに手をかざしたり口元を隠さない自分に、彼女はびっくりもしていた。


「わあ、びっくりだわ!」


なんて、独り言、やけに多かった。

それもみんなの前でいえるような言葉じゃなくて、どちらかといえば、なんか、岩になった私の言葉? みたいな感じ。


「雨が降っても傘なんて差せないんだからね」


お店の入口に傘立ては置いてあった。

黒くて目立たない。

いくつかある穴に差してみても、折り畳んだ傘は半分も隠れなかった。

今は一本もなかった。

彼女は寂しくなっていた。


ぽつりぽつりと、雨が降る前だって、ここの景色は変わりはしないのに。


一人で店番。

お客さんはやって来なかった。


彼女は椅子に座っていた。

頑張っても、つま先しか床に届かないような椅子だった。


それはべつに彼女の足が短かったわけでも、床下に小さな鼠が住んでいたわけでもない。


それは実のところ、座るための椅子ではなかった。


赤、青、黄、黒の四本のペンキに塗られた足があり、平らな部分は透明で、ガラスの部分に緑の植物たちの模様が掘られていた。


――海の椅子、と名付けられていた。


彼女が勝手につけた。

名前を付けると、なんだか雑に扱えるからだ。


平らな部分に柔らかいクッションをおいた。

それに座って、すっかり冷めたコーヒーを飲み干した。


ここは都会の喧騒とは違っていた。

気候の変動が激しく、決して静かではないけれど、どう考えたって戦いの場としてはふさわしくない。


窓からは海が見える。

オーナーが住む建物の二階にいかなければ海は見えないのだが、彼女はそこで見た景色を思い浮かべることができる。


たとえばここに、同い年くらいの若くて目元に迷いのある女の子が来てくれたなら、彼女はその子が決してどんな子であっても、あの景色の存在を明かしたはずだ。


板チョコのような二階へと繋がる扉を開けて、スニーカーで階段の音を鳴らしたり、壁の絵について上手く説明もできないまま、その子と呼吸を合わせたりしたかった。


そして窓辺から見える海に、がっかりするのだ。

説明しようとすると、とても広くて美しいはずのそれは、意外と、想いを超えない。


そして元の場所に戻る。


もしかしたらオーナーは激怒するかもしれないが、彼女はそれでもやってみたいと強く思った。


ガラン、と開閉の音が鳴る。

現実に引き戻された。


お客さまだ。

黒いレインコートを着てる男の人だった。

彼は入った途端に辺りを見回した。


「いいですか?」とだけ言った。

彼女が返事をする前に、席に座りはじめた。


たぶん初めて訪れたはずなのに、なんの迷いもなく、窓際の席に座る。

彼女はなんとなしに茫然としていた。


どうも、軽く扱われたような気がした。

もしいま、コーヒーを出せない状態ならば、ちゃんとcloseの看板を出す。

それくらいは当然、自分の仕事だった。


彼女は自分の仕事はちゃんとやる派だった。

やらないときは譲ってるときだ。


立ち上がって、お水を入れる。

男は背中を向けている。


少しばかり自分よりも背が高かったとしても、そこから面白い景色など見えないはずだ。


彼女はなぜか悪戯心に満ち溢れた。

わざと転んで水をぶっかけてやろうかと、さえ思った。


どうせ彼は濡れているのだ。

ここは本当に寂しい場所だから。

屋根のある道なんてどこにもない。


無機質なコンクリートの上を、たまに運送のトラックや物珍しさに来た観光客が通りかかる。


そんな場所で、彼女は止まったままだった。


これだけ情報技術が発達した時代に、空き瓶にペールグリーンの手紙を入れて、海の彼方へ放り投げたこともあった。


全然、おしとやかじゃない。

いっそのこと投げた瓶が割れてしまえばよかった。


しかしそれは安定して浮きはじめて、遠くの方へと流れてしまった。


夕焼けのなかに知らない鳥がいた。

手を伸ばせば捕まえられそうな距離で羽ばたいていた。


鳥はしばらく、まるで彼女を海の中へ導くように、そばで羽をはためかせた。


「油断しすぎだよ」


そうつぶやいた彼女を気にも留めていない。

彼女自身ではなく彼女の持っている何かを差し出すように、と求められている気さえした。


なにか餌になるような食べ物や堅い卵を持っていたりするのだろうか。


残念ながらそれはなかった。

あの日は瓶の外には何も持ってこなかったのだ。


しかし、彼女は冷たい水面に足を踏み入れていた。

そこで首の辺りがかゆくなった。

ふさふさした尻尾がふれたみたいに。


「あの、いいですか?」


フッと我に返る。


「はい!?」


彼の目元は優しかった。


「この、オリジナル・ブレンド・コーヒー。ひとつお願いします」


彼女は静かに頷いた。

くるっと背を向けて準備にとりかかる。


「どうぞ」


ぶっきらぼうに湯気の沸き立つコーヒーを差し出す。

あれ、私ってこんなだったっけ、と彼女は戸惑った。


「どうも」


と彼も軽く頭を下げて、そう言った。


それから、ほとんど言葉を交わさない。


ここのお店は音楽を流したりラジオやテレビがあるわけでもないから、静かなときは本当に水の中のようだった。


彼女は沈黙に溺れない。

もうほとんど魚だった。

口をパクパクと開けたり閉じたりを繰り返していた。


なんだかとても眠たいのだ。

そばに置いてあった本を読む気にもなれず、彼の背中だけをじっと眺めていた。


綺麗な肩幅だと思う。

ほどよく肉が乗っていて傾きもほとんど見られない。

私が男なら、あんな風になりたいな、とさえ思った。


カップを持つ手は左手で、テーブルの上にスマホを置いている。


いったい何をしてるんだろう。

急いでるというわけでも、まったく手放しにしてるわけでもない。

ここからでは、何をやってるのかまではわからなかった。


不自然に近づく気にはなれなかった。

どうにか通り過ぎる人のようにして、彼のいまやってることを知りたい。

彼女はもどかしさで、息が浅くなっていた。


咳払いをすると、彼の肩がわずかに動いた。

もう一度、時間を空けて、今度は喉を鳴らしてみる。

するとまた、彼の肩はわずかに動いた。

ちょっと電気が流れたみたいな感じ。

おもしろかった。


自分はいま、一応仕事中なのだ。

そう言い聞かしておもしろいことを諦めるように努めた。


でも、音を鳴らすのは辞めれても、見ることはやめられない。

正体が判明しないほど、目が大きくなった。


お水が無くなればいいのに。

彼女はちょっと考えてみた。

現実的に彼に近づく方法は今のところはそれしかない。


もちろん不自然を覚悟すればどうとでもなる。

私はあなたに興味があるんですよ、と話しかけること。

そんなのできなかった。

私が鳥なら蝙蝠だ。

彼女はその自覚がちゃんとあった。


男の滞在時間は長かった。

普通の客なら、もうとっくに帰ってるか、彼女にとって嫌な絡み方をしてくる頃だ。


雨の音ばかりが、店の中で聞こえる。

強かったり、弱かったり、たまに止んでたりもする。


そんなに頻繁に天気が変わらない、というのはどこか幸せな場所にいる人が言える戯言だ。

曇り空は槍のように降ってくるし、快晴は喉が詰まる。


彼女はそんな繊細なものに、すっかり飽き飽きしていた。

たしかに暇つぶしにはなった。

でも、それは結局つぶしてるだけだ。

指にのっかる小さな埃のゴミのようで、気分次第でどっかにいってしまった。


雨の音は蝙蝠の住処だ。

深くて狭い場所に、上のほうからかすかな震動がする。

それは足音でもなければ崩れる予感がするほどの強いものでもない。


とにかく寒いのだ。

私には羽がある、と彼女はわかっていた。

しかしおそらく、この洞窟、出口もわからない生まれつきそこにあった地形が、あまりに複雑怪奇で静まり返っている。


母親も父親も、生物なんだからいるはずなのに、どこにもいない。


鳥でいうなら、蝙蝠だ、と思ってた彼女は長い沈黙に遭うと、その思いを変えざる得なくなる。

それはとても怖い。

耐えられなかった。


だから手を動かして、漫然と何かをしていた。

なんでもよかった。

スマホで動画、鼻歌、髪の毛をいじる、とか、ほんとうになんでもよかったのだ。


偶然はいつも彼女の味方をしてくれた。

それはきっと観察に徹する態度が、誰にも知られない秘密の回路にそっと光をあててくれたからだろう。


感謝のなかに偶然はある。

それを疑わず、彼女は声に出してみた。


「なんの歌ですか?」


彼は背中で歌っていたのだ。

音は聞こえなかったけど、彼女にはそれがわかった。

肩の一つも動かないでも人は歌うことができる。

それは悲しい知恵かもしれない。

だって、それは違うと言ってしまえば、本当にそれは言葉の意味と同じになってしまうから。


「なんの歌?」と彼は言った。

「僕は、歌詞のある曲はあまり聴かなくて」


返事をくれた。

それだけで嬉しかった。


しかし彼女は突飛なことを言うわりに、後先を考えないから、いつも不自然な沈黙を自ら作ってしまう。


それを察した彼は、今この瞬間、初めて会ったみたいに言葉を紡いだ。


「窓辺の汽水が好きなんです」


それはあるサックスの名曲だった。

「窓辺の汽水」


彼女はあとからそれをイヤホンで聴いた。

軽快だった。

帽子を脱いで、雨のなかに小股で歩いてるイメージ。


それが実のところ意外だった。

というか、彼女は窓辺の内側から演奏されたものだとなんとなしに思っていた。


でもこれは違う。

たぶん、外にいる人間が家の壁にでも張り付いてサックスを吹いている。


どこか投げやりで言葉数の少ない男。

それが彼だった。


男は立ち上がり、コーヒー代を払う。

ぴったりの値段。

まるでここに来るのを想定してたかのような迷いのなさだった。


「あの……」と彼女は呼び止めた。


「どうかしましたか?」


「いえ、なんでも」


顔を伏せていつも見ていたはずのテーブルが迫ってくるようだった。

彼女はこれでは笑うしかないじゃないか、と切に思った。


「素敵な笑顔ですね」


去り際の一言で頭が混乱する。

彼女はむしろこういうときに笑わない練習をたくさんしてきたはずなのに。


それが頭の中だけの出来事だったから、現実にはぜんぜん役に立たなかったのか。

ミステリアスで終わろうとした自分の無表情も、彼にとっては動きに見えたのか。


真相はわからない。

扉が静かにしまり、雨の音だけが残ったから。


それで、どうせお客も来ないような店のなかで、彼が好きだと言ったものを聴いてみるのは当然の流れだった。


正直、もっとしんみりしたやつかと思っていた。

彼は目立たないシンプルな服装をしていたし、派手なところなんてどこにも見当たらなかった。


「ごちそうさま」と彼が遠くから言っている気がする。

音楽を聴いてる間はそんなことを思いもしなかった。


敬語じゃない彼が、急に離れていくたびに、まだ公に解明されてない伝達手段で私を思ってる。

そんな気が、妄念の枠を超えて彼女の内に巣くっていた。


そこではすでに群れが出来ており、秩序があり、外に出向くものと内に残って別の作業をするものがあった。

一つの共同体が何もないエリアを急に支配しはじめた。


それはもちろん困惑する。

思えば、年上の男性に「ごちそうさま」なんて言われたこと彼女は一度もなかった。


いや、鳴き声みたいなのならあるかもしれない。

でも、それは「ごちそうさま」でも「おいしくなかった」でも同じようなものだから。


彼のはもっと違うやつだった。


そろそろ閉店の時間がくる。

オーナーの車が見えてきたら、片づけをしなければいけない。


客は殆ど来なかったから、全然汚れてないお店を、とにかく一度、

まるで邪気を払うかのように一通り掃除する。


オーナーの部屋はずいぶん汚い。

物が少ないのになぜだか汚い。

それが愛おしくもあった。


「あ! またサボってる」


彼女はびっくりして、足をすくませる。


そこにいたのは背の高いオーナーだった。

階段の上から、タイルパンツと白いシャツで、化粧もしていない。


「ええ? いたんですか?」


「当たり前でしょう。ここ、私の家なんだからさ」


「でも、車が……」


オーナーにはなんだか不自然な間があった。

壁に飾られた花の絵にじっと目線を向けている。

そんな気がする。


「車がないからって、私がいないわけじゃないからね」


そして階段をおりてきた。


「シオちゃん油断しすぎ」


あれ、それは、私が前に知らない鳥に言ったはずのセリフで。


「残ったケーキ食べるね」


「あ、私も食べます」


「太るよ」とオーナーはニヤニヤと笑っていう。


「今日、お昼抜いたんで、平気です」


四角い小さなシフォンケーキを、ものの数秒で食べてしまった。


「ごちそうさま」とオーナーは言った。


あ、それも、私が言ったわけじゃないけど、

なんかこんなところで聴きたくなかった。


でもそれは失礼だし意味わからないから、黙って置こうと彼女はかたく心に誓った。


後片付けをした。

食器を洗い、明日の準備をしておく。


そのあいだに、オーナーは独り言のように呟いた。


「あの車は弟に貸したんだよ」


「え? 初耳です」


「ん?」とオーナーはわずかに怒りをにじませる。


「それはどういう意味だ。シオちゃん」


「弟さんがいるなんて知りませんでした。単純な驚きです」


「ふーん」


彼女はじっと見られると落ち着かなかった。


「ちなみに、弟さんってどんな人ですか?」


「えー、興味あるんだ」


「はあ、そういう意味じゃないですよ!?」


彼女は明るい日常で、コーヒーの匂いをおぼえた。


線路男。

そんな名前を今日出会った男につけて、眠る前に素敵な夢を見られそうだった。


雨の粒が真っ二つに割れるような夢を――。


(了)

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