人魚、あるいは彼の海の記憶 ― エリー独白 ―
私は、覚えている。
千年の、孤独な時間を。
月の光だけが友だった、あの、静かすぎる夜の海を。きらめく星々を、水面の下から見上げる、途方もない寂しさを。そして、私から、家族を、友を、全てを奪っていった、人間という生き物への、深い、深い、絶望を。
私の名は、エリー。
人魚として、この世に生を受けた。
かつて、私たちの世界は、光に満ちていた。エメラルドグリーンの海を、仲間たちと共に、自由に泳ぎ回り、歌い、そして、笑い合っていた。それが、私たちの、当たり前の日常だった。
だが、人間が現れた。
彼らは、私たちの歌声を「呪い」と呼び、私たちの存在を「厄災」と呼んだ。陸(おか)に上がれば疫病を撒き散らす、忌むべき物の怪。そう言って、彼らは、私たちを狩った。船の上から、無慈悲な矢を放ち、網で絡め取り、そして、陸へと引きずり上げ、その体を、炎で焼いた。
私は、見た。
同胞が、矢に射られて苦しむ姿を。幼馴染が、網の中で、息絶えていく様を。そして、幼い弟が、炎の中で、悲鳴を上げながら、灰になっていくのを。
恐怖。憎悪。絶望。
全ての感情が、私の魂を、冷たい氷のように、凍らせていった。
私は、逃げた。たった一人、岩礁の陰に隠れ、息を殺して、生き永らえた。
それから、一体、どれほどの時が流れただろう。
私は、ただ、歌うことしかできなかった。誰もいない海に向かって、失われた同胞たちへの、鎮魂歌を、歌い続けた。それは、歓待でも、誘惑でもない。ただ、ひたすらに純粋な、千年の孤独と諦念を紡いだ、私の、魂そのものだった。
人間は、愚かだ。その歌声を、船乗りを惑わす「魔性の歌」と呼んだ。誰も、私の、この、どうしようもない哀しみを、理解しようとはしなかった。
だから、あの日、あなたが現れた時、私は、信じられなかった。
私の歌声に導かれ、たった一人、小舟で、この岩礁へとやって来た、人間の男。
あなたの魂は、あまりに、渇いていた。地位も、富も、家族も、全てを手にしているはずなのに、その器は、私と同じ、巨大な虚ろを抱えていた。
その瞳を見た瞬間、私は、分かってしまった。
この人は、同類だ、と。
私と同じ、孤独の匂いを、その身に纏っている。
あなたの名は、ラン。
あなたは、私を狩りに来たはずなのに、その魂の全てである、太刀を、私の前に、差し出した。
『お前を傷つけない』と、あなたは言った。
その、真っ直ぐな瞳に、私の、千年の氷で覆われた心が、ほんの少しだけ、音を立てて、溶けていくのを感じた。
毎夜の逢瀬。それは、私の、真っ暗な世界に差し込んだ、唯一の、光だった。
あなたの、不器用な優しさ。あなたの、強さの裏に隠された、深い哀しみ。その全てが、愛おしかった。人間を、あれほど憎んでいたはずなのに。私は、あなたという、一人の人間に、どうしようもなく、惹かれてしまっていた。
あなたが、全てを捨てて、私と共に生きると、そう言ってくれた時。私は、生まれて初めて、幸福というものを、知った。
だが、運命は、私たちに、そんなささやかな幸福さえ、許してはくれなかった。
私が、あなたとの未来を夢見ている、まさにその間に。最後の、希望であったはずの仲間たちが、またしても、人間の手によって、惨殺された。
絶望。
ああ、やはり、人間と人魚は、決して、共に生きることはできないのだ。
そして、何より、人間を愛してしまった、この、愚かな自分自身が、許せなかった。
もう、疲れた。生きていることに。この、呪われた運命に。
だから、私は、最後の願いを、あなたに、託すことにした。
『あたしを食べて下さい。あなたと、永遠になりたい』
私の肉を、私の魂を、あなたの、あの、あまりに巨大で、空っぽな器を、満たすための、贄(にえ)として、捧げよう。そうすれば、あなたは、人ではなくなり、人間としての、苦しみから、解放されるだろう。そして、あなたの中で、私は、生き続けられる。それが、私の、最初で、最後の、身勝手な、愛の形だった。
――ありがとう、ラン。
私の、最後の願いを、叶えてくれて。
あなたの肉体の中で、私は、ずっと、見ていた。
あなたが、化け物となり、国を追われ、千二百年以上もの、永い、永い旅を続けるのを。
あなたが、滅びゆく平家を歌い、戦国の世を駆け抜け、そして、たくさんの、強く、儚い、人間の女たちを、愛するのを。
その度に、私の心は、ちくりと、痛んだ。嫉妬、だったのかもしれない。
けれど、それ以上に、嬉しかった。あなたが、私の知らなかった、たくさんの、愛の形を、知っていくのが。
あなたは、世界中を旅した。
私と同じ、不老の化け物である、エレナという女とも出会った。
新しい時代が来るたびに、あなたは、その変化の最前線に立ち、時に、歴史そのものを、動かしてきた。
あなたが、世界を見る、その視線を通して、私もまた、世界を、旅し続けていたのだ。
あの、絶望的な、最後の戦争。
あなたは、愛した女、ミアの死を、ただ、見ていることしか、できなかった。
あなたの、その、どうしようもない無力感と、自己嫌悪を、私は、すぐ傍で、感じていた。
そして、あなたが、広島と長崎の、あの地獄を前にして、千年ぶりに、涙を流した時。
私も、あなたの中で、共に、泣いていた。
あれほど、憎かった、人間たちの、その、あまりにも大きな悲しみに、私の魂もまた、震えていたのだ。
そして、今。
あなたは、星の海を、見上げている。
人類の、新しい旅の、始まりを、見届けようとしている。
あなたが、見せてくれた、この、千二百年という時間は、本当に、長かった。
愚かで、醜くて、どうしようもなく、哀しいことばかりだった。
けれど。
――あなたと見てきた世界は、とっても、美しかった。
あなたの魂の、一番、深い場所で、私は、ずっと、生きている。
あなたが、私を、忘れない限り。
あなたが、私を、愛し続けてくれる限り。
私もまた、あなたを、永遠に、愛し続ける。
さあ、行こう、ラン。
まだ、誰も見たことのない、その、未来の、さらに、先へ。
あなたが、どこへ行こうとも。
私は、いつまでも、あなたと共に。
この、悠久の、旅の、中で。
人魚の肉を喰らった最強武士、女になって千年を生きる愛の物語 無常アイ情 @sora671
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