第9話


 収穫祭のパンコンテストで、思いがけず第二王子ジークフリート殿下から「王子賞」という栄誉ある賞をいただいてからというもの、私とアネモネ・ベーカリーを取り巻く環境は、まるで魔法にかかったように一変した。

 賞金で、父は長年夢見ていたという最新式の石窯を工房に導入してくれた。それは、以前の古い窯とは比べ物にならないほど火力が安定し、温度管理も格段にしやすくなった優れものだった。

 さらに、王家御用達の印が刻まれた製パン道具の数々は、見ているだけで心が躍るような美しいものばかり。特に、生地を均一に、そして力強くこね上げてくれるという不思議な機械(父曰く、王都の大きなパン工房で使われている特別な品らしい)は、私のパン作りを新しい次元へと引き上げてくれそうな予感をさせた。


 最初は新しい道具の扱いに戸惑うこともあったけれど、持ち前の探究心とパンへの情熱、そして父からの的確なアドバイスのおかげで、私はすぐにそれらを自分の手足のように使いこなせるようになった。

 新しい窯で焼いたパンは、焼きムラが格段に減り、外はパリッと香ばしく、中は驚くほどしっとりと焼き上がる。

 不思議な捏ね機は、以前よりもずっと多くの種類のパンを、しかも短時間で、理想的な状態の生地に仕上げてくれる。

 私の作るパンの品質は目に見えて向上し、パン職人としての新たな可能性が目の前に大きく広がっていくのを感じて、毎日ワクワクが止まらなかった。

 父も母も、そんな私の成長と店の変化を、本当に嬉しそうに見守ってくれていた。


 新しい機材とこれまでの経験、そしてコンテストで得た大きな自信を胸に、私はアネモネ・ベーカリーの新しい看板商品を開発することにした。

 コンテストで王子様からもお褒めの言葉をいただいた、リリアとの友情から生まれた「花の香りのブリオッシュ」。あれをさらに改良し、季節ごとに中のクリームや飾りの花が変わる「四季のフラワーデニッシュ」としてシリーズ化してみた。

 春はスミレと蜂蜜、夏はバラとベリー、秋はキンモクセイと栗、冬は白いポインセチアを模したリンゴのコンポート……。

 見た目も華やかで、口に運ぶたびに優しい花の香りと季節の味わいが広がるこのデニッシュは、たちまち町の女性たちの心を掴んだ。


 さらに、元気を取り戻した自慢のパン種と、新しい窯の特性を最大限に活かした「アネモネの宝石カンパーニュ」も考案した。

 外皮はパリッと力強く焼き上げられ、クープ(切れ込み)は美しく花開き、そして中の生地(クラム)には、まるで宝石のように色とりどりのドライフルーツやナッツが散りばめられている。噛みしめるほどに小麦の深い味わいと、果実の甘酸っぱさ、木の実の香ばしさが複雑に絡み合い、一口ごとに新しい発見がある、そんなパンだった。


 これらの新しいパンが、「収穫祭で王子様も絶賛したパン屋の新作ですって!」「一度食べたら忘れられない美味しさよ!」といった口コミと共に、あっという間に町中に広まっていった。

 そして、気がつけばアネモネ・ベーカリーには、連日、開店前から長蛇の列ができるようになっていたのだ。

 遠方の町や村からも、噂を聞きつけたお客様がわざわざ馬車を乗り継いでやって来るほどだった。

 私と父と母は、朝から晩まで文字通りパンを焼き続ける忙しさに、嬉しい悲鳴を上げながらも、本当に充実した、夢のような日々を送っていた。

 リリアも、自分の店の仕事の合間を縫って、時々お店の販売を手伝いに来てくれて、「アネモネさん、すごいわ! 本当に町の人気者ね!」と、自分のことのように喜んでくれた。


 店は大繁盛し、私の焼いたパンは、本当にたくさんの方々を笑顔にしていた。

 そのことに、私は心からの幸福と、パン職人としての誇りを感じていた。

 ルカにあんな風に言われたけれど、やっぱり私のパンは、誰かの役に立てるんだ、誰かを幸せにできるんだ、と。

 けれど……忙しい日々の合間に、ふとした瞬間に、あの謎の青年のことを思い出してしまうことがあった。

 最後に会ったのは、収穫祭の前の週だったっけ……。

 

 お店がこれだけ混んでいて、いつも行列ができているようでは、彼が以前のように雨の日や夕暮れ時に、ふらりと立ち寄ることは、もう難しいだろう。


「あの人は……もう、私のパンを食べに来てくれないのかな……」

 

 そう思うと、心のどこかが、きゅっと寂しさで締め付けられるのを感じる自分に気づいた。

 それは、ルカを失った時の、胸が張り裂けるような痛みとは違う。

 もっと淡くて、切なくて……でも、確かに私の心を揺らす感情だった。


 そんなある日の午後だった。

 いつものように店の外には長い行列ができ、店内も大勢のお客様でごった返している。

 私が汗を拭いながら、笑顔で接客に追われていると、行列の中にひときわ異彩を放つ人物がいるのに、ふと気がついた。

 使い古したように見える粗末な外套を目深にかぶり、大きなつばの帽子で顔のほとんどを隠し、さらには大きな黒縁の眼鏡(それはこの国ではあまり見かけない、少し変わったデザインのものだった)までしている。

 どう見ても普通のお客様ではなく、むしろ逆に目立っていて、非常に怪しい。

(ま、まさか……パン泥棒……!? でも、こんなに行列にきちんと並んでまで……?)

 私は一瞬、そんな物騒なことを考えてしまい、こっそり父に目配せしようかとさえ思った。


 やがてその人物が、私の立つカウンターの前に進み出てきた。

 そして、周囲を気にするように少し背を丸め、小さな声で言った。

「……あの、いつもの丸パンと……それから、新しいという花のパンを……一つずつ」

 その低く、どこか落ち着いた、そして聞き覚えのある声に、私はハッとして顔を上げた。

 間違いない、この声は……!


 そう、あの謎の青年だった。

 あまりにも念入りな(そして、正直に言うと少し滑稽な)変装ぶりに驚きつつも、私の心臓は喜びで大きく跳ね上がった。

(こ、こんな格好をしてまで……! それほど私のパンが食べたかったんだわ!)

 そう思うと、嬉しさがこみ上げてくるのを止められなかった。

 思わず頬が緩みそうになるのを必死でこらえ、私は努めて平静を装ってパンを袋に詰める。


 パンを受け取った青年は、周囲のお客様の目を盗むようにしながらも、その場で花のデニッシュを一口頬張り始めた。

 そして、やはりその美味しさに一瞬動きを止め、満足げに小さく頷く。

 しかし、すぐに私に小声で、どこか不満そうに言った。

「……最近は、いつもこうなのか? 以前のように、静かにパンを味わうこともできんではないか」

 その口調はぶっきらぼうだったけれど、どこか拗ねた子供のようにも聞こえて、私は思わず吹き出しそうになってしまった。


 私は、こらえきれずにくすりと笑ってしまうと、悪戯っぽく目を輝かせながら、彼にだけ聞こえるように小声で答えた。

「申し訳ありません……。たくさんのお客様に来ていただけるのは、本当に嬉しいことなのですけれど……。でも、もしよろしければ、開店前の本当に早い時間か、閉店間際のほんの少しの時間でしたら、比較的お客様も少なくて、ゆっくりしていただけるかと……思いますわ。……内緒ですけどね」

 青年は大きな眼鏡の奥で、少し考えるようなそぶりを見せた。

 そして、私の目をじっと見つめると、「……分かった。では、その時間に……」とだけ言い残し、今度は以前よりも少しだけ名残惜しそうな雰囲気を漂わせながらも、しかしやはりそそくさと人混みに紛れて去っていった。


 私は、彼との間に生まれた小さな、そして少しだけスリリングな秘密に、胸を高鳴らせていた。

 そして、次の「約束の時間」に彼がどんな顔で現れるのか、その時のためにどんな特別なパンを焼いて待っていようかと考えるだけで、心が躍り、パン作りへの意欲がますます湧いてくるのだった。

 彼が誰であれ、私のパンをこんなにも強く求めてくれる人がいるという事実が、今の私にとって何よりの喜びであり、そして大きな支えとなっていた。


 

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