第10話


 収穫祭のパンコンテストで、第二王子ジークフリート殿下から思いがけず「王子賞」という栄誉ある賞をいただいてからというもの、私、アネモネ・アルトフェルトと、父と母が営むアネモネ・ベーカリーを取り巻く環境は、まるで夢を見ているかのように、目まぐるしく変わっていった。

 王子様お墨付きのパン、という評判はあっという間に町中に広まり、店の前には開店前から閉店間際まで、途切れることのない長い長い行列ができるようになったのだ。

「嬉しい悲鳴とは、まさにこのことねぇ」

 母はそう言って幸せそうに微笑むけれど、その目元にはうっすらと隈ができていた。

 私と父、そして母の三人だけでは、パンの製造も、ひっきりなしに訪れるお客様への接客も、明らかに手が回らなくなってきていたのだ。


 そこで、両親と何度も話し合った結果、アネモネ・ベーカリーは初めて従業員を雇うことを決意した。

 店の前に小さな募集の貼り紙を出すと、ありがたいことに数人の応募者が来てくれた。

 その中から私たちが選んだのは、素朴で人の良さそうな笑顔が印象的な、レオという名の青年だった。

 レオはまだ若いが、以前、王都の少し大きなパン屋で数年ほど働いた経験があり、アネモネ・ベーカリーのパンの評判を聞きつけ、その技術をぜひ学びたいと、熱意を持ってはるばるこの町までやって来たのだという。

 彼は本当に真面目で仕事熱心だった。

 私の指示にも、父の少し専門的な言葉にも、はい、はい、と素直に耳を傾け、力仕事も厭わず、工房の掃除や山のような洗い物なども率先して行ってくれる。

 彼の加入により、工房には新しい活気が生まれ、私や両親の負担も目に見えて軽減された。

 私はレオに、パン種の世話の仕方や、アネモネ・ベーカリー独自のパンのレシピを少しずつ教えていきながら、彼の一生懸命な姿に、心からの好感と信頼を寄せるようになっていた。


 レオが店にすっかり慣れてきたある日の休憩時間。

 私と父、母、そしてレオは、工房の片隅で、焼きたてのパンの端っこ(これがまた美味しいのだ)と、母が淹れてくれたハーブティーで一息ついていた。

 話題は自然と、レオが以前働いていたという王都の話になった。

「王都では、まことしやかに囁かれていましたよ。王宮の料理人たちが、それはもう頭を抱えているって。なんでも、国王陛下や王子様方が、宮廷の豪華な食事にあまりご満足されていないとかで……」

 レオは、少し声を潜めながら、興味深い噂話を披露してくれた。

「へえ、そうなの? 王宮のお食事って、世界中の美味しいものが集まっていて、毎日がご馳走なんだとばかり思っていたわ」

 私が素朴な疑問を口にすると、レオは大きく頷いた。

「それが、特に第二王子殿下は大変お口が厳しくていらっしゃるらしくて……。どんな手の込んだお料理よりも、素朴で心のこもったものを好まれるとか、逆にどんな贅沢な食材を使ったお料理でも、お気に召さなければ一口もお召し上がりにならないとか……。ですから、宮廷の料理人たちは毎日戦々恐々としているそうですよ。新しい料理長様がいらっしゃるたびに、その気難しさに匙を投げてしまうとか、そんな話も聞きました」

「ふーん、王子様もいろいろと大変なのねぇ」

 私はそう相槌を打った。

「素朴で心のこもったもの……か」。

 特にそれ以上深く考えることはせず、私は熱いハーブティーを一口すすり、また自分の仕事へと意識を戻した。


 アネモネ・ベーカリーのパンの評判は、レオという頼もしい助っ人が加わり、以前よりもさらに生産量を増やせるようになったこともあって、口コミで遠方の町や村にまで広がり続けていた。

 今では、町の外からもわざわざ多くのお客様が訪れてくださるだけでなく、立派な紋章をつけた美しい馬車で乗り付け、供の者を何人も連れた貴族の方々の姿も、ちらほらと見られるようになってきた。

 最初はそうしたお客様を前にすると緊張で言葉も出てこなかった私だけれど、どんなお客様に対しても、心を込めて、いつも通りの丁寧な接客を心がけた。

 彼らがアネモネ・ベーカリーのパンを「実に美味だ」「こんなパンは初めて食べたぞ」と、心から称賛してくださるのを聞くと、身分など関係なく、素直に嬉しくて、パン職人としての自信がまた一つ、胸の中に積み重なっていくのを感じていた。


 そんなある日の午後、店の前にひときわ立派な、金色の獅子の紋章を掲げた豪奢な馬車が静かに停まった。

 中から現れたのは、上品な身なりの、しかしどこか威厳を漂わせた初老の紳士だった。供回りの者たちの恭しい態度から、ただならぬ身分の方だとすぐに分かった。

 店内はその日も多くのお客様で賑わっていたが、その紳士の登場に、一瞬、しん、と静まり返った。

 紳士は、穏やかな笑みを浮かべると、ゆっくりとパン棚を見渡し、そして私の看板商品である「四季のフラワーデニッシュ」と「アネモネの宝石カンパーニュ」をいくつか指名した。

 そして、供の者がさっと用意した小さなテーブルで、その場でパンを味わい始めたのだ。

 一口食べるごとに、その紳士は深く頷き、その表情は驚きから深い感銘へと変わっていくように見えた。


 パンを堪能し終えた後、紳士は私の方へ向き直り、にこやかに自己紹介をしてくださった。

 なんと、この地方一帯を治める、オルレアン公爵様その人だったのだ。

 私と父と母は、そのあまりにも高貴な身分に、ただただ恐縮するばかりだった。

 しかし、公爵様は少しも偉ぶることなく、穏やかな口調でこう切り出した。

「素晴らしいパンだ、アネモネ嬢。まさに芸術品だな。実は、近々我が最愛の娘、ソフィーのデビュタントパーティーを催すのだが……その晴れの日のために、君のパンを特別に振る舞いたいと考えているのだ。この大役、引き受けてはもらえないだろうか?」


 私は、公爵様からの突然の、そしてあまりにも大きな依頼に驚き、言葉を失った。

「わ、私のような町のパン屋が、公爵様のお屋敷で……それも、ソフィーお嬢様の大切なデビュタントパーティーでございますか……?」

 あまりのことに、夢でも見ているのではないかと、信じられない気持ちでいっぱいだった。

 公爵様は、そんな私に優しく微笑みかけ、真摯な眼差しで続けた。

「君のパンには、人を幸せにする不思議な力があるように思う。私の大切な娘の晴れの日に、ぜひその特別な力を貸してほしいのだ。もちろん、相応の礼はさせてもらうつもりだ」

 父も母も、そして少し離れた場所で成り行きを見守っていたレオも、驚きと興奮を隠せないでいる。

 しかし、彼らは皆、私の背中を押すように、温かくて力強い眼差しを送ってくれているのが分かった。

 私は、これほどの大きな舞台でパンを焼くことへの途方もないプレッシャーを感じながらも、これほどの機会を逃すことはできない、そして何よりも、私のパンがそんなにも高く評価されたことが嬉しくて、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

「こ、光栄でございます……! 未熟者ではございますが、ソフィーお嬢様の大切な日のために、精一杯、心を込めてパンを焼かせていただきます……!」

 震える声だったけれど、その瞳には確かな決意の光が宿っていた、はずだ。

 オルレアン公爵は、私の返答に満足そうに頷くと、「ありがとう、アネモネ嬢。楽しみにしているよ」と言い残し、パーティーの日程や詳細については後日改めて家令を遣わすと伝えて、颯爽と馬車に乗り込み、去っていった。


 公爵様が去った後も、アネモネ・ベーカリーはしばらく興奮の余韻に包まれていた。

 私は、公爵令嬢のデビュタントパーティーという、まるで夢のような大きな舞台でパンを焼くことへの期待と、そしてそれに見合うだけの素晴らしいパンを焼けるだろうかという不安で、胸がいっぱいだった。

「どんなパンを焼こう……? 貴族の方々に喜んでいただけるような、特別なパン……。でも、私らしさも大切にしたい……」

 

 あの謎の青年との秘密の時間は、開店前の早朝や閉店間際に、細々とではあるが続いていた。

 この大きな仕事のことを、彼に話してみようか、それともまずは自分の力でやり遂げてから報告しようか、私は少し悩んだ。

 けれど、今はまず、自分の持てる全ての力と愛情を注いで、この大きな、そして名誉ある挑戦を乗り越えようと、強く決意した。

 

 その瞳は、希望に満ちて、きらきらと輝いていた。


 

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