第8話
あの、謎の青年の言葉。「春の庭園のような香りだな」――。
その一言が、私の心の中に小さな、けれど確かな勇気の種を蒔いてくれた。
リリアの満面の笑顔と、元気を取り戻したパン種の力強い芳香も、私の背中を優しく押してくれている。
「私も……挑戦してみようかな……」
パンコンテストのポスターを見つめながら呟いたその言葉は、いつの間にか確かな決意へと変わっていた。
両親も、そしてリリアも、私の挑戦を心から応援すると言ってくれた。
コンテストのテーマは「我が町の誇り、未来への希望」。
私は悩んだ末、二種類のパンで勝負することを決めた。
一つは、父から受け継いだ製法で作る、アネモネ・ベーカリーの原点ともいえるカンパーニュ。
ずっしりと重く、素朴ながらも噛みしめるほどに深い味わいが広がるこのパンは、我が町の歴史と、パン屋としての私の「誇り」を象徴している。
そしてもう一つは、リリアとの友情から生まれた、あの「花の香りのブリオッシュ」。
蜂蜜とカモミール、そしてほんの少しのローズウォーターで香りづけし、可愛らしい花形に焼き上げたこのパンは、新しい挑戦と、甘く優しい「未来への希望」を表している。
「ルカに見捨てられたパン屋の娘」じゃない。「パン職人アネモネ」として、私のパンの価値を、私自身の力で証明したい。
そして何よりも、私のパンで誰かを笑顔にしたい――その純粋な気持ちを胸に、私は寝る間も惜しんで試作を繰り返した。
工房にこもり、粉と向き合い、窯の炎を見つめる日々。その姿は真剣そのもので、以前の自信なさげな私は、もうどこにもいなかった。
待ちに待った収穫祭当日。
町は朝からお祭りムード一色で、通りには色とりどりの旗がはためき、陽気な音楽隊の演奏がどこからともなく聞こえてくる。
パンコンテストの会場となる広場には、大きな特設のテントが張られ、町中のパン屋や近隣の村から自慢のパン職人たちが、続々と集まってきていた。
その熱気に、私の胸も高鳴る。
焼き上げたばかりのカンパーニュとブリオッシュを丁寧に飾り付け、自分のブースに誇らしげに並べた。
周囲のパンはどれも素晴らしく、他の職人たちの自信に満ちた姿に圧倒されそうになるけれど、「大丈夫、心を込めて焼いたんだから」と自分に強く言い聞かせた。
リリアや両親からの「頑張って!」という声援を胸に、私は審査の時を、緊張しながらもどこか晴れやかな気持ちで待っていた。
やがて、審査員が紹介され、会場が一段と大きな拍手に包まれた。
町のパン屋ギルドの長、王都でも有名な料理研究家の先生、そして……。
「本日の特別審査員として、遠路はるばるお越しくださいました! この国が誇る第二王子、ジークフリート・フォン・エルツハウゼン殿下でございます!」
司会者の高らかな声と共に、きらびやかな礼装に身を包んだ一人の青年が、静かに審査員席へと歩みを進めた。
その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。
艶やかな黒髪、通った鼻筋、そして全てを見透かすような、涼やかなアイスブルーの瞳……。
「あの涼やかな目元……どこかで……?」
強い既視感を覚えた。でも、まさか……。
そんなはずはないわよね……。
審査が始まった。
ジークフリート王子は他の審査員と共に、一つ一つのパンを丁寧に見て回り、時には鋭い質問を投げかける。
その真剣な眼差しと、パンに対する深い造詣を感じさせる言葉に、参加者たちの間には緊張感が走る。
そして、ついに私のパンの審査の番が回ってきた。
心臓が喉から飛び出しそうなくらいドキドキしながらも、私は深呼吸をして、王子と向き合った。
王子は、私の焼いたカンパーニュと花の香りのブリオッシュを、その美しい手でそっと手に取った。
そして、じっくりと眺め、その香りを確かめるように静かに鼻を近づける。
その何気ない仕草が、なぜか記憶の片隅にある誰かの姿と、不思議なほど重なって見えた。
王子はまずカンパーニュを小さくちぎり、ゆっくりと口に運んだ。
そして、目を閉じ、その味を確かめるように何度も咀嚼する。
次に、花の香りのブリオッシュにも手を伸ばし、同様に丁寧に味わう。
その間、彼の表情はほとんど変わらない。けれど、私には彼の全身が、私のパンの味と、そこに込められた想いと、真剣に対話しているかのように感じられた。
二種類のパンを食べ終えた王子は、ふっと一つ息をつくと、私の目を真っ直ぐに見つめた。
そして、次の瞬間――彼の表情が、まるで固い氷が解けるかのように和らぎ、満面の、しかしどこか懐かしむような、そして心の底からの喜びが溢れるような、最高の笑顔を見せたのだ。
「これは……素晴らしい。実に、美味い!」
その力強く、そしてはっきりとした声。その心からの笑顔。そのパンを味わう真剣な眼差し。
「このカンパーニュの力強い風味と、ブリオッシュの繊細で華やかな香り……どちらも、作り手の心がこもっているのが、はっきりと伝わってくる。見事だ」
その力強い言葉と、どこか懐かしいような真剣な眼差しに、私の心臓が大きく跳ねた。
なぜだろう、この方のパンを食べる姿は、どこかで見たことがあるような……?
あの雨の日に現れた、フードの青年……?
ううん、そんなはずはないわよね。王子様があのようなみすぼらしい格好で、私の小さなパン屋にいらっしゃるわけがないもの。きっと、気のせいだわ。
私は頭の中でその考えを打ち消しながらも、目の前の王子様の言葉に、ただただ胸を熱くしていた。
全ての審査が終わり、いよいよ結果発表の時が来た。
会場は、先ほどの興奮と緊張が入り混じった、独特の空気に包まれている。
「それでは、発表いたします! 準優勝は……アネモネ・ベーカリーのアネモネ・アルトフェルトさんです! おめでとうございます!」
アナウンスと共に、会場から大きな拍手が起こった。
私は驚きつつも、壇上に上がり、賞状を受け取った。優勝ではなかったことに、少しだけ悔しさも感じたけれど、「ここまで来られただけでも……」と、胸がいっぱいになった。
優勝したのは、隣町の大きな老舗パン屋の、白髪の熟練職人さんが焼いた、見た目も豪華で伝統的な味わいのパンだった。誰もが納得するその結果に、会場は再び温かい拍手に包まれた。
しかし、司会者が興奮した声で続けた。
「そして! 本年の収穫祭パン・コンテストでは、特別に第二王子ジークフリート殿下より『王子賞』が設けられました! 栄えある王子賞に選ばれたのは……!」
会場が再びどよめきと期待で静まり返る。
まさか、そんな賞があるなんて……。
「王子賞は……アネモネ・ベーカリーのアネモネ・アルトフェルト殿のパンに決定いたしました! アネモネさん、再びステージへどうぞ!」
私は、信じられないという表情で、ふらふらとステージへと再び促された。
驚きと喜びで、言葉も出ない。
ジークフリート王子自らが、私に美しいガラス細工の盾と、見たこともないほど豪華な副賞の数々――王家御用達と刻印された最新式の製パン道具一式、王宮の庭園でしか採れないという貴重な蜂蜜やハーブの詰め合わせ、そしてずっしりと重い賞金の入った袋、さらに抱えきれないほどの美しい花束――を手渡してくださった。
それは、明らかに優勝の副賞よりもずっと豪華なものだった。
そして、王子は私にだけ聞こえるような小さな声で、穏やかに微笑んで言った。
「君のパンは、食べる者の心を温かくする特別な力があるようだ。これからも、その素晴らしいパンを焼き続けてほしい」
その優しい声と、称賛の眼差し。
やはり、どこかあの謎の青年に似ているような気がする……。
でも、王子様がそんなふうに私のことを見てくださるなんて……。
混乱しながらも、彼の言葉に深い勇気と喜びを感じ、涙ぐみながら「あ、ありがとうございます……! もったいないお言葉です……!」と頭を下げるのが精一杯だった。
会場からは、「まあ、王子賞ですって! なんて名誉なことでしょう!」「副賞の方が豪華じゃないかしら?」「これじゃあ、実質アネモネさんの勝ちみたいなものね!」といった囁きが、あちこちから聞こえてくる。
優勝した隣町のパン屋の主人は、その様子を見て、悔しそうに唇を噛み、ぐぬぬ……という表情を隠せないでいるのが、ちらりと見えた。
私は、王子様から直接お褒めの言葉をいただき、自分のパンがこれ以上ない形で認められたという喜びに、胸がいっぱいだった。
あの謎の青年と王子様が本当に同一人物なのか、それともただの偶然の空似なのか……。
まだ頭の中は整理できないけれど、「まさか……ね。そんなはずはないわよ」と、心のどこかでその考えを打ち消そうとする自分がいた。
それでも、私の未来が、今日この瞬間から、大きく、そして輝かしく変わり始めるかもしれないという、確かな予感を感じていた。
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