第7話
念願叶って近衛騎士団への配属が決まったルカ・シュトライバーの毎日は、しかし、彼が思い描いていたほど輝かしいものではなかった。
上官からは、その隠しきれない傲慢な態度や、実力以上の自己評価をたしなめられることも少なくない。
同僚たちからは、そのプライドの高さと協調性のなさを敬遠され、どこか浮いた存在となり始めていた。
「俺ほどの才能があれば、もっと早く大きな手柄を立て、皆から羨望の眼差しで見られるはずなのに……。なぜ誰も俺の本当の価値を理解しようとしないのだ……」
ルカは自身の不遇を、周囲の無理解や嫉妬のせいだと決めつけ、常に不満と焦りをその胸に燻らせていた。
アネモネと別れてからというもの、身の回りの細やかな世話や、体調を気遣う言葉、好物をさりげなく用意してくれるといった「当たり前」だったはずの心地よさが、彼の日常から綺麗さっぱり消え失せていた。
朝、寝癖のついた髪を指摘してくれる者もいなければ、少し疲れた顔をしていると、栄養のある温かい飲み物をそっと差し出してくれる者もいない。
その無意識の不便さや物足りなさを感じ始めてはいたものの、それを認めることは、彼のプライドが決して許さなかった。
むしろ、「アネモネのような女がいなくなり、せいせいした」と強がることで、心の奥底の小さな空虚感から目を背けていたのだ。
新しい婚約者候補として紹介されたのは、高位貴族の令嬢であるセシリア嬢だった。
彼女はルカの近衛騎士という地位や、整った容姿に惹かれているようだったが、彼の内面やその複雑な性格までは深く理解していない。
ルカもまた、セシリアの家柄や美貌が、自身の出世の階段をさらに輝かせるためのアクセサリーになると打算的に考えていた。
しかし、彼女の細やかさのなさや、アネモネほど自分を優先し、全てを捧げるように尽くしてくれるわけではないその態度に、早くも内心では不満を感じ始めていた。
もちろん、そんな本音を口に出すことはない。彼はただ、アネモネとの日々がいかに「楽」であったかを、無自覚のうちに痛感し始めていただけだった。
ある日の午後、騎士団の談話室で、ルカが同僚と当たり障りのない会話を交わしていると、華やかなドレスに身を包んだセシリアが、流行のパティスリーのものと思われる美しい化粧箱を手に、彼を訪ねてきた。
「ルカ様、訓練お疲れ様ですわ。最近、社交界で大変評判のパティスリーの新作ですのよ。ぜひ、お仲間の方々と召し上がってくださいまし」
そう言って彼女が差し出したのは、見た目も華やかで、甘く芳醇な香りが漂う焼き菓子だった。
箱の中には、アーモンドプードルをたっぷり使った黄金色のフィナンシェや、色鮮やかなピスタチオのマカロン、そして数種類のベリーが使われた小さなタルトレットが、まるで宝石のように並んでいる。
ルカは、アネモネが常に自分のアレルギー――特定のナッツ類や一部のベリー類に対して、食べると蕁麻疹や喉の不快感といった比較的軽度だが不快な症状が出るもの――を完璧に把握し、細心の注意を払って食事や菓子を用意してくれていたことを、完全に「当たり前の奉仕」として受け止め、そのありがたみを全く理解していなかった。
そのため、自分自身ですらそのアレルギーの存在を軽視し、ほとんど忘れてしまっていたのだ。
セシリアからの見栄えの良い高級な菓子に気を良くし、アネモネの素朴なパンとは違う「洗練された味」を期待して、何の疑いもなく、勧められるままにピスタチオのマカロンを一つ、そしてベリーのタルトレットを一つ、口へと運んだ。
数口食べた直後だった。
ルカの体に、明らかな異変が起こり始めた。
まず喉の奥がチリチリと痒くなり、続いて顔や首筋に、まるで虫に刺されたかのような赤い発疹がぽつぽつと浮き出てくる。
やがて呼吸が少し苦しくなり、彼は思わずネクタイを緩め、ぜいぜいと浅い息をし始めた。
「ルカ様!? どうかなさいましたの!? 急に顔色が悪く……ま、まさかお気に召しませんでしたか!?」
セシリアが甲高い声を上げ、その場にいた同僚騎士たちも何事かとルカの周りに集まってきた。
「うっ……ぐ……の、喉が……か、かゆい……息が……っ……こ、これは……あの菓子か……! き、貴様、何を入れたのだ!?」
彼は自分がアレルギー反応を起こしていることにようやく気づき、激しい不快感と焦り、そして何よりも人前で醜態を晒していることへの屈辱感に襲われた。
周囲の注目を浴び、必死に喉を掻きむしり、苦悶の表情を浮かべる自分の姿。その現実に、彼のプライドはズタズタに引き裂かれた。
医務室に運ばれ、医師の手当を受けて症状がようやく少し落ち着いた頃、ルカは体調の悪さと人前で大恥をかいたことへの怒りで、不機嫌を隠そうともしなかった。
そこへ、心配そうな顔(と、その奥にほんの少しの迷惑そうな表情も混じった)をしたセシリアが、見舞いにやって来た。
「ごめんなさい、ルカ様……私、あなた様にそのようなアレルギーがおありになるなんて、全く存じ上げなくて……本当に申し訳ございません……。でも、まさかこのようなことになるなんて、夢にも思いませんでしたの……」
しおらしく謝罪するセシリアに対し、ルカの怒りは治まるどころか、ますます燃え上がった。
アネモネなら、絶対にこんなヘマはしなかった。アネモネなら、俺の体調を常に完璧に管理してくれていた。その無意識の苛立ちと、自分の管理不足を棚に上げた甘えから、彼は理不尽な言葉をセシリアに叩きつけた。
「なぜだ! なぜこんなことになるんだ! 普通、人に物を渡す前に、相手の体質くらい確認するのが当然だろうが! 気が利かないにも程があるぞ! これだから育ちのいいだけの女は、世間知らずで困る!」
自分の不注意を完全に棚に上げ、全ての責任をセシリアに押し付けようとするルカ。
「で、でも、あなた様ご自身も何もおっしゃらなかったではございませんか……! それに、そのような大事なことを、私がお聞きする前に教えてくださるのが、普通ではございませんこと……?」
セシリアが当然の反論をすると、ルカはさらに激昂した。
「そんなこと、いちいち言わなくても気を配るのが当たり前だろう! アネモネ! あっ……」
激昂のあまり、目の前の婚約者候補である高位貴族の令嬢セシリアのことを、無意識に、そして最大の侮辱を込めて、元婚約者の「アネモネ」と呼んでしまったのだ。
「アネモネ……ですって?」
その名を聞いた瞬間、セシリアの顔色が一変した。
彼女はルカの元婚約者が身分の低いパン屋の娘だったという噂を耳にしており、それを密かに、そして徹底的に見下していた。
「それはどなたのことですの? まさか、以前婚約していらしたという、あの下賤なパン屋の娘のことではございませんでしょうね!?」
その声は、先ほどまでの心配そうな響きとは打って変わって、怒りに震えていた。
ルカはしまったという顔をし、「いや、ちが……それは、その……言葉の綾というか……」としどろもどろに言い訳をしようとするが、後の祭りだった。
セシリアは怒りと侮辱に肩を震わせ、その美しい顔を憤怒に歪めた。
「最低ですわ、ルカ様! この私を、あのような身分の低い娘と比較なさるなんて! その上、ご自身の不注意と無神経さを棚に上げ、私を一方的に罵倒するとは! 騎士の誇りも、貴族としての嗜みも、お持ちではございませんのね!」
そう叫ぶと、セシリアは力いっぱいルカの頬を平手打ちした。
パァン! という乾いた音が、静かな医務室に響き渡った。
「あなた様のような方との婚約の話など、こちらから願い下げですわ! お父様にも、この件、そしてあなたの騎士にあるまじき無礼な態度、全てきちんとお伝えさせていただきます! 二度と私の前にお顔を見せないでくださいまし!」
そう言い残すと、セシリアは怒りに燃える瞳でルカを睨みつけ、ハンカチで目元を押さえ、医務室を嵐のように飛び出していった。
ビンタされた頬を押さえ、一人残されたルカは、呆然と立ち尽くしていた。
何が起こったのか、すぐには理解できない。
頬のジンジンとした痛みと、セシリアの最後の言葉が、頭の中でぐわんぐわんと反響する。
「なんでだ……なんでこうなるんだ……? アネモネはいつも、俺のことは何でも分かってくれていた。何も言わなくても、俺の好きなもの、嫌いなもの、体調まで完璧に気遣ってくれていたのに……。それに比べて、この女は……なんて気が利かない、傲慢でヒステリックな女なんだ……。俺のどこが悪いというんだ……?」
彼はまだ、自分の非を認めることができないでいた。
アネモネの献身的な気遣いが、どれほど特別なものであったか、そしてそれを自ら手放してしまったことの大きさに、本当の意味では気づいていない。
ただ、自分の思い通りにならない不快な状況と、プライドをズタズタにされたことへの怒りと困惑だけが、彼の胸に黒く渦巻いている。
その瞳には、反省の色など微塵も浮かんでいなかった。
彼の転落は、まだ始まったばかりなのかもしれない――。
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