お友達通知表

青いひつじ

第1話

雨の日のバス停で、それは突然渡された。


帰り道。雨宿りしようと男はバス停の屋根の下に入った。ポケットに手を突っ込むと、ハンカチがなくなっていることに気づき、ジャケットのポケット、カバンの中も確認する。しかしハンカチは見つからなかった。しばらく探し続けていると、隣にいた白髪の老人が、ふたつに折られた白い紙を差し出してきた。あまりにも突然のことだったので、男は顔をしかめ、不快感をあらわにした。


「なんですか突然」


『どうぞ、これはあなたの通知表です。ご自身で開いて確かめてみてくださいな』


怪しく、不気味で、無礼で、それに加えて突然の大雨にイライラしていたため、男はすばやくそれを拒んだ。


「いやいや、困ります。そんな怪しいもの受け取れません。第一に、あなたは誰ですか。自らを名乗らずに、いきなり失礼だとは思いませんか」


老人は残念そうな表情を浮かべた。


『そうですか。やっとあなたにお届けできると思って、楽しみにここで待っていたのですが、それならば仕方ありません。私は帰ることにします』


雨音にかき消されそうな声でそう話すと、差し出した白い紙を脇にはさみ、傘を広げた。

風は一層強くなっている。少しすれば排水溝の網の蓋から溢れだした水が、道中に広がるだろう。そんな中に老人は、ビニール傘1本で飛び込もうというのだ。見かねた男はまったくと頭を掻き、丸まった背中に声をかけた。


「じいさん、ちょっと。この雨は止むどころか一層強くなってる。歩いて帰るのは危険だ。今からタクシーを拾うから、一緒に乗って帰ればいい」


男は道の端に立ち、向かってくるタクシーに大きく手を振った。それから老人を強引に誘い、捕まえたタクシーの中へ入るよう促した。


『いやいや、なんだか申し訳ないですね』


「いーや、あのまま転んで死なれた方が困る。で、住所はどこです?」


男は話しながら、再度ポケットの中を確認した。


『先ほどから何か探されているようですね』


「あぁ。ハンカチがなくてね」


『大切なものですか?』


「いや、長年使っていたが、最近肌触りが悪くなって。もう捨てようかと思っていたからちょうどいい。替えならたくさんある」


『もう二度と戻ってこなくてもよいのですか』


「あぁ。そんなことより住所は?」


『いえいえ、あなたの家から向かいましょう。それより、これ、気になりませんか』


老人はまた、例の通知表とやらを差し出してきた。


「あんたもしつこいな。通知表って、あの学生の時にもらったものでしょう。どうしてそんなもの今更見なくてはいけないんだ」


『通知表といっても、これはただの通知表ではありません。お友達通知表という、友人からのあなたの評価が書かれたものですよ。どうですか、気になりませんか』


「さぁ、別に」


『‥‥さてはあなた、怖いんですね』


老人は挑発するような薄ら笑みを浮かべた。


「そんなわけあるか、かしてみろ!」



家までの道のりは約15分。この先の交差点は混む上に、この大雨である。到着まで早くても30分はかかるだろう。男は、老人から奪い取った通知表を眺めた。評価を見るというのはいくつになっても慣れないもので、少しの期待と緊張感に包まれる。不思議と新鮮な気持ちになる。しかし決して嫌な感情ではない。男には自信があった。周りの人間に尽くしてきたという自信である。溢れる期待を閉じ込めて、男はゆっくりと通知表を開いた。



「‥‥なんだこれは」


『どうかされましたか?』


「おい、この総評2.5というのはなんだ」


『平均の点数ですよ。ちなみに10点満点です』


「2.5だと‥‥学校であれば落第点ではないか」


『まぁまぁ、数字ごときでそうかっかせずに。ここには評価した方のコメントも載っていますよ』


そこに書いてあったのは、長年尽くしてきた友人からの心無い言葉の数々であった。


「こいつ‥‥1年前に金を貸してやって、それから連絡が取れないと思っていたが、とんでもない人間だ。こいつもだ。誰のおかげであの大企業に就職できたと思ってんだ。こいつもか。大学時代からの長い付き合いだが、こんな風に思っていたなんて」


男は通知表を最後まで読むことなく、老人へ突き返した。

降りかかってくる言葉に、最後まで耐えられないと思ったのだ。それはきっと窓の向こうの雨よりも、冷たく、深く、男の心に染み込んでくるだろう。男は項垂れて深くため息をついた。



『いいんですか。最後まで読まなくて』


「もういいさ。あんな奴ら、友人でもなんでもない。もう関わることもない」


『おひとりだけ、あなたのことを高く評価されている方がいるようですが』


老人の言葉に男は勢いよく顔を上げ、また通知表を奪い取った。


「どいつだ」


『ほら、その1番下の方。その方はあなたに10をつけていますよ』


その名前に、男は目を見張った。


「大宮‥‥」



男の高校時代の友人であった。大宮と出会ったのは、男が高校1年の頃である。

教室の隅でひとり本を読む男に彼が声をかけてきたのだ。子犬のように落ち着きがなく、誰からも好かれそうな笑顔で、思わず男もつられて笑ってしまった。嬉しかったのだ。それまで、誰ひとりとして声をかけてくる人間などいなかったから。それからすぐに、ふたりは仲良くなった。



高校を卒業すると、ふたりは別々の道へと進んだ。大学へ入ると、男の友人関係は少しずつ変化していった。毎晩、騒がしい街に出かけた。薄暗いバーの一角で怪しい男たちと集まることもあった。

大宮とも連絡は続いていたが、世話焼きな彼は男の友人関係に口を出すようになった。この頃には、男にとって大宮は少し面倒な存在になっていた。友人に困っていなかった男は、彼ひとりくらい失っても問題はないと考えた。

大宮との関係は大学卒業の時まで続いたものの、それ以降は男の方から連絡を絶っていたのだ。



"彼は真っ直ぐで、1度決めたらやり遂げる強さを持った人間である。それは、私にはない強さである。私は彼を尊敬し、応援している"



男は通知表を閉じ、少しして老人に尋ねた。


「なぁ、彼の連絡先を知ってるか?」


『いいえ』


「なんでもいい。電話でも、手紙でもいい。謝りたいんだ、長い間連絡しなかったこと‥‥。

実は1ヶ月前、私の実家に彼から電話があったんだ。何か私に話があったのだろう。今更かと思うが、彼ともう一度向き合いたい。だから」


そこまで言うと、老人はひどく悲しい顔をした。


『‥‥それはできません』


「できない?」


『彼は2週間前に、帰らぬ人となったのです。病に侵されていたそうです。もう会うことも、話すこともできません』



大雨から逃げ回るように走っていたタクシーが、男の家の前に到着した。

ゆっくりとドアが開かれ、男は道にでた。それからしばらく雨に打たれた。


男は、自分がとても重大な、なにかを失ってしまったような気がした。

取り戻そうとしても、2度と戻ってこないことにも、同時に気づいた。


差し出す相手のいない言葉を両手にぶら下げ、男はしばらく雨の中に立ち尽くしていた。




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