第15話 后

 紫微国しびこくの王后チョンミョンは、胸の前で手を合わせ、祭壇を前に端座たんざして祈りを捧げていた。


 硬く目を閉じた眉間には深い皺が刻まれ、僅かに開かれた口は小さく真言しんごんを唱えている。常の王后のものではなく、良家の妻女の出で立ちに身を包んだ膝に、ぽとりと汗が落ちた。


 静寂に包まれた中に、ちりん……、ちりん……、と小さな鈴の音が響いている。その音に合わせて、白黒の装束を纏った巫女が神殿の中を練り歩いていた。巫女は、チョンミョンの周りを何度も回りながら、一定の早さで鈴を鳴らし続ける。


 何度目かを回り、するりとチョンミョンのもとを離れた巫女の動きに合わせて、風の流れが変わった。

 目を閉じたまま真言を唱えるチョンミョンの頬を、ふわりと生暖かい風が撫で、まっすぐな眉がぴくりと動く。


 微かな衣擦れの音を立てながら進み出た巫女は、祭壇の前に膝を下ろした。両手を広げて、祈りを捧げるように大きく体を揺らす気配が伝わってくる。響く鈴の音が、徐々に激しさを増していく。


 その体がふつりと動きを止め、巫女は倒れ込むようにして地に伏した。鈴の音もぴたりと止まる。


 チョンミョンは閉じていた目をゆっくりと開いた。背を向けて体を伏せたままの巫女の姿を、険を帯びた目で見つめる。


 供物が捧げられた祭壇の向こうには、金塗の神像が鎮座している。その周りに垂らされた白の薄絹が、風もないのにゆらゆらと揺れていた。

 額にじっとりと浮かんだ汗が顎を伝う。


「―――出ました」


 ゆっくりと体を起こした巫女がおごそかに呟き、黙したまま座すチョンミョンを振り返った。チョンミョンは僅かに眉を寄せ、厳しい視線を向ける。


「―――それで、何と?」


 目を伏せた巫女の紅い唇を注視する。その口が、ゆっくりと開いた。


「申し上げるのもはばかられることなれど……答えは、いなに」

「………っ!」


 巫女が頭を下げて告げた言葉に、チョンミョンは打ちひしがれたように眉を歪め、苦しそうに目を細めた。


「間違い……ないのか?」

せんがすべてではありませんが、奥様が男児を授かるのは、やはり難しいかと」


 淡々と告げられる言葉に、握りしめた両手に力が入る。


「……何か、方法は?」


 硬い声で聞くチョンミョンに対し、巫女はしばし押し黙ったあと、静かに口を開いた。


「あるとすれば、ただ一つ」

「何だ」


 言葉を続けかけて口籠る巫女に、声を荒げる。


「早く言わぬか!」

「……非常に申し上げにくきことなれど、奥様が男児を授かるには、別の子種こだねが必要です」

「別の子種? 一体何を……」


 言いかけて言葉の意味を理解したチョンミョンは、カッと目を吊り上げ、座した床を激しく叩きつけた。


「畏れ多くも巫女ごときが、私を愚弄するつもりか!」


 声を荒げるチョンミョンにも動じず、巫女は静かに平伏した。


「そのようなつもりはございません。私はただ、占の結果をお伝えしたまで」

「まだ言うか!」

「信じるも信じぬも奥様次第。ですが、ご夫君との間には女児は授かれても、男児は授かれません。これは覆しようのない事実」

「何だと!?」

「どうしても男児をお望みなのでしたら、他の男性の種を求める以外には」

「……っ!」


 額に青筋を立て、目を怒らせたチョンミョンは荒々しい音を立てて立ち上がった。


「黙れ! もうよい」


 怒りを発散するように袖を思い切り払い、足を踏み鳴らして神殿の外に向かう。その背を見送るように、巫女は再び静かに頭を下げた。


 他の子種だと? それでは何の意味もない。


 肩を怒らせて外に出たチョンミョンは、石段を下りかけた足を止めて神殿を振り返り、鋭い視線で睨みつけた。


 腕利きの巫女だと聞いていたが、何の役にも立たないではないか。


 怒りにも勝る焦りのような感情を打ち消し、舌打ちをして石段を下りる。


 チョンミョンは、紫微国の大王ソンドの正室である。

 ソンドと婚礼を挙げたのは数年前だが、未だ子宝には恵まれていない。


 この数年、子を授かるために良いとされることは何でもやってきた。この薬が良いと言われればどんなに不味くとも口にし、この香が良いと言われればどんなに臭くとも焚き、できることはすべて試してきたつもりだ。

 だが、一向に懐妊の兆しは表れない。


 正室である王后は、国の国母こくぼ。紫微国のすべての女人の頂点に君臨する地位である。だが、今のチョンミョンにとって、それは名ばかりのものでしかない。


 紫微国の後宮での権勢は、王であるソンドの寵愛によって決まる。だがソンドは、公式的に定められた合衾ごうきんの日にしかチョンミョンの元を訪れない。


 妻となったばかりの頃は、それが寂しく、他の側室のもとにばかり通うソンドが恨めしくもあったが、今となってはそんなことはどうでもいい。

 単にソンドの寵愛を受けることよりも、後宮で長く権勢を振るうには、世継ぎである王太子おうたいしの母となればいいからだ。


 王太子の生母となることが、後宮での自分の地位を盤石なものにする。それが叶えば、王后なのに冷遇されていると後ろ指を指されることも、次々と増える側室に自尊心を傷つけられることもなくなる。


 チョンミョンにとって子を王太子に据えることは、名実共に国母であることを示せる唯一の方法なのである。


 幸い、ソンドにはまだ他の側室との間にも子がない。王后である自分が嫡子となる男児を産めば、確実に次の玉座を継ぐ王太子に立てることができる。だからこそ、一刻も早く男児を産む必要がある。

 なのに。


 石段の下に待たせていた女官の姿が目に入り、チョンミョンは忌々しそうに眉根を寄せた。


「―――王后様」


 石段を下り切ったチョンミョンに、その女官が頭を下げる。

 チョンミョン付の女官、尚宮さんぐんのホン・ヨルランの前を通り過ぎるようにして立ち止まり、チョンミョンは下げられた頭を横目で見やった。


「王后様、いかがでしたか?」


 頭を下げたまま問うてくるホン尚宮に、むくりと怒りがもたげる。


 ばし……っ!


 振り向きざまに払った右手がホン尚宮の頬を張り、鈍い音が響いた。

 ぎろりと睨みつけた目に、驚愕の瞳で頬を押さえるホン尚宮の姿が映る。


 だが、そんなホン尚宮の様子は気にも留めず、無言のまま後ろ手に払った右手に視線を落としたチョンミョンは、不機嫌そうに眉をしかめた。人差し指にはめていたお気に入りの指輪に血がついている。ホン尚宮の頬を払ったひょうしに引っ掻いたのだろう。

 チョンミョンは無造作に指輪を抜き取り、その場に打ち捨てた。


「お……王后様……、何故なにゆえ……?」


 その言葉に、チョンミョンの眉間の皺が一気に深まる。


「そなた、私を侮辱するためにここまで連れて参ったのか?」

「め……滅相もございません!」

「腕利きの巫女だと言うから来てみれば……。ふん、期待外れもいいところ」

「そんな、まさか……。私が聞いたところでは―――……」


 言い募ろうとするホン尚宮を睨みつけて黙らせる。チョンミョンはそばで待たせていた輿に冷たい視線を向けた。輿の四隅には担ぎ手が四人、片膝を立てて待機していた。


「王宮に帰る」

「……かしこまりました。……ごほっ、あの……王后様」


 背を向けたチョンミョンに、頬を赤く腫らしたホン尚宮が言いにくそうに声をかける。だがチョンミョンは、不機嫌を隠すこともせずあからさまに眉を寄せ、肩越しに視線だけを投げかけた。


「実は、ヒャン様のことでご報告が―――」


 ホン尚宮から出たその名に、チョンミョンを取り囲む空気が一変する。ゆっくりと振り返ったチョンミョンの目が、それまでとは比べ物にならないほど冷たく鋭いことに気付き、ホン尚宮はびくりと肩を震わせて恐れ慄くように俯いた。


「あの女が、どうした。……もしや、また自害でも図ったか」


 名を口にするのも虫唾が走ると言わんばかりに、チョンミョンの瞳に嫌悪が浮かぶ。


「……はい、王宮から知らせが参りました。たまたま居合わせた医官が未然に防いだとのことですが……」

「ふん、死にたければさっさと死ねばよいものを……」


 チョンミョンは俯いたままのホン尚宮から目を逸らし、吐き捨てるように低く言い放った。


「それで、大王様は」

「昨晩はヒャン妃様の元に向かわれたとのことにございます。付きっきりの看病と警護を命じられたとか」


 その言葉にぎゅっと眉根を寄せ、思わず握りしめた手がぎり……と鈍い音を立てる。ふつふつと湧き上がる怒りが胸中に渦巻くが、チョンミョンはそれを覆い隠すようにあざけりの笑みを浮かべた。


「……ふっ、飽きもせず……。大王様はあの女に完全に手玉に取られてしまっているようだな」

「数日と空けず通われているご様子。他のご側室の方々には見向きもされていないようです」


 そのようなこと、わざわざ言われずとも分かっている、と言うように冷たい目でホン尚宮を睨みつける。


「何をしている。王宮に戻ると言わなかったか」

「……っ、申し訳ありません」


 チョンミョンの厳しい口調に、ホン尚宮は慌てて輿の折り上げ式の木戸を持ち上げる。

 込み上げる苛立ちを隠そうともせず短くふんと鼻を鳴らすと、チョンミョンは輿に乗り込んだ。

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白い鴉の翔ぶところ ~愛を守るため、俺は剣を取る!~ @TEN6rogi

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